特定非営利活動法人 場の研究所 The "BA" Research Institute

2008 年 12 月 のアーカイブ

1月16日、定例勉強会が開催されます。

2008 年 12 月 30 日 火曜日

2009年1月16日(金)に場の研究所の定例勉強会が開催されます。今回のテーマは「<いのち>の循環と救済」です。

政治や経済の危機的な状況が続く中、そのしわ寄せは真っ先に社会的な弱者と言われる人たちへと向かっています。しかし、弱者を切り捨てるだけで果たして問題は解決されるのでしょうか?「これからの政治や経済は地球における共存在の深化を進める方向に向かわなければならない」と清水博先生は次のように述べています。

人間の〈いのち〉の表現の自由な競争による進歩を重視しながらも、それをあくまでも競争の場という場面における活動に限定し、その他方でこの地球という空間に強弱を超えて多種多様な生き物と共に人々がかかわり合いながら存在し、それぞれのただ一つの〈いのち〉を表現して生きる「共存在の場」がつくられて、「共存在性の場」が「競争の場」を包み、また競争の場が共存在の場を超えるようにしながら場の循環が続き、〈いのち〉の存在が発展的に多様化してそれぞれの間の結びつきが深めていくことが共存在の深化である。また共存在の場は生と死を分けるという分離的思考によっては理解できないものであり、共存在性を深めようとする運動から宗教が果たしてきた役割が新しい形で見なおされていくであろう。

このようなことを12月の勉強会では学びました。

今回の勉強会では、前回までの内容をさらに一歩進めるかたちで、この場の循環が続いていくような場づくりとは何か?そのことが何故、救済につながっていくのか?について、皆さんと一緒に深め合っていければと考えております。

未來の方からくる超越的他者のはたらき

2008 年 12 月 29 日 月曜日

安田理深が福井相応学舎でおこなった唯識三十頌に関する連続講義のなかに次のようなことが書いてありました。これが私が考えている「自己の内なる超越的な他者」とは何か、そしてそのはたらきとは何かを説明する分かりやすい入り口になると思いました。もっとも、浄土真宗は法蔵菩薩が四十八の願を立てて修行をし、それが成就して阿弥陀仏になったという神話をもとにした仏教の宗派ですが、近代になって「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」という曽我量深(清沢満之の思想を継いで、さらに大きく発展させた浄土真宗大谷派の思想家)の有名な言葉によって、この神話の真の意味が明らかにされました。つまり、阿頼耶識は人間がそれぞれの無意識の領域に受け継いでもっている過去の経験の記憶の貯蔵庫に相当するものです。その中には自分自身のこれまでの人生における経験ばかりでなく、無始以来さまざまな祖先が経験してきた記憶も所蔵されていると考えられています。言葉を変えれば、DNAを通して伝えられる経験、社会的影響の形で伝えられる経験も含まれているのです。 このために阿頼耶識はいま生きている自己自身の意識を遙かに超える超越的な他者としてのはたらきをもっています。これが私が考えている「自己の内なる超越的な他者」です。この自己の内なる超越的な他者のはたらき(他力)によって自己の存在が救われると考えるのが、浄土真宗大谷派の近代的教義です。安田理深はこの曽我量深の弟子に相当する重要な思想家で、曽我の思想を継いで存在論的観点から浄土真宗の教義を考えた人です。安田理深は次のように語っています。

「阿弥陀仏に助けられるということはない。阿弥陀仏は助かった人なんだ。法蔵菩薩を離れたら、阿弥陀仏というものを見出してくる道がない。法蔵菩薩の中に阿弥陀仏があるんだ。法蔵菩薩の願というものは、主体だね、願心と。
 
四十八願の中に、四十八願を生み出す「信」がある。四十八願の中に四十八願の源泉があるんだ。それは「信」だ。それを「欲生」というわけです。本願の中に「欲生」というものが願を生み出しているんだ。それを「願心」というわけですね。
 
法蔵菩薩は阿頼耶識ではないことは誰でも知っているんですわ。けど、法蔵菩薩に触れずに阿頼耶識を見ておると、阿頼耶識の意味がよくわからん。また阿頼耶識を離れて法蔵菩薩を見ていると、法蔵菩薩は神話になってしまう。何か二つ合わせるとやね。法蔵菩薩にも無かったもの、また阿頼耶識にも無かったものが出てくる。曽我先生の言おうとしておられるのは、法蔵菩薩でも、阿頼耶識でもありゃせんのですわ。それらをそれらが照らすことによって、それらではない根元というものを明らかにしようとせられた。何かそこに照応ということがある。合い照らすという。二つのもので照らし合わすと、二つ以前のもの、二つでないもの、二つを超えて二つを成り立たせるようなものが明らかにされてくる。
 
阿頼耶縁起論というのが唯識の立場です。・・・諸法の実相は縁から生じたんだということが、それが実相なんだという考えだ。・・・象徴とか荘厳とか、願心荘厳と言われるのは縁起論の立場に立つから言えるので、存在が縁起として成り立っているというところに、初めて象徴というようなことが言えてくる。願心荘厳というようなことがね。」
 
 ここで分かるように阿頼耶識は、自己の内なる超越的な他者(西田幾多郎の「絶対の他」に相当するもの)です。浄土真宗の信仰では阿頼耶識を超越的な他者としての法蔵菩薩に照応させているのです。
 
ここで注目に値するのが、「それらをそれらが照らすことによって、それらではない根元というものを明らかにしようとせられた。何かそこに照応ということがある。合い照らすという。二つのもので照らし合わすと、二つ以前のもの、二つでないもの、二つを超えて二つを成り立たせるようなものが明らかにされてくる。」という安田理深の言葉ですが、私はこの「照応」の奥には「鍵と鍵穴との相互誘導合致」に相当すると考えています。

ここで「鍵」は自己のはたらき、「鍵穴」は他者のはたらきを自己に伝えてくる場に相当するものです。言い換えると、自己の内なる絶対の他者のはたらきが場を通じて、その場において存在している自己に伝えられるのです。さらに一歩深めて考えると、場が変われば、その変化に応じて、自己に伝えられてくる絶対の他者のはたらきも変わるっていくのです。ドラマが演じられたり、物語が語られたりすれば、それに応じて場が変わっていくために、一歩一歩、未來が開かれてくるのです。
 
このように自己のはたらきを「鍵」とすると、場を通じて伝えられてくる自己の内なる超越的な他者のはたらきは「鍵穴」として、空間的にも、時間的にも、その「鍵」を誘導合致的に包んでくるのはたらきをしていることになります。このことを時間的に見れば、超越的な他者のはたらきが未來の方から自己に近づいて、自己のはたらきを誘い出してくるということになるのです。

救済の根底には創造があり、また創造の根底には救済があります。その理由は、救済も、創造も、自己の内なる絶対の他者のはたらきによって生まれるからです。いま何の場を問題になっているかは、その場における自己の意志、希望、思いなどによって変わります。たとえば宗教的な信仰の場であるか、研究の場であるか、芸術の場であるか、截相(きりあい)の場であるかによって、阿頼耶識の照応のされ方が異なってくると、私は考えています。これは「鍵」の形に応じて、それと誘導合致的な関係にある「鍵穴」の形が変わることに相当します。そうではありますが、超越的な他者のはたらきが未來の方から自己に近づいてくるという自己と超越的な他者との照らし合い(照応)の基本的な形(鍵と鍵穴の相互誘導合致という形)は変わらないのです。
 
凡夫という鍵の形は、法蔵菩薩(他力)という鍵穴の形を引き出して、そしてその鍵穴に誘導されるのです。言い換えると、凡夫という形はすでに他力によって救われる形なのです。私自身は、ここでは信仰者として浄土真宗に向かっているのではなく、あくまでも〈いのち〉の研究者として、自己と自己の内なる超越者との関係に興味をもっているのです。つまり、宗教的救済や創造を生命現象として明らかにする立場に立っているわけです。

人間の問題としての経済的危機への対応

2008 年 12 月 25 日 木曜日

資本主義経済では、多くの人々の価値観を反映して市場が変化していくことから、経済的危機は多分に人間の心の危機でもある。現在の経済の危機は、グローバル化して地球規模に広がった市場を動かしている人間が地球という生存の場の「喘ぎ」を無視していることと関係がある。具体的には、市場を無限に拡大できるという「進化の思想」によって経済が進められているのに対して、地球という生存の場は限られた狭い空間なのである。無限に拡大できる空間では、帝国主義の時代のように、競争原理によって強者が選択される「強者の理(ことわり)」が生まれる。一方、限られた空間では共存在原理がはたらくために、多様な生き物が、あたかもジャンケンのように、強者弱者の差別を超えて存在する。たとえば落ち葉が新しい芽生えを育み、それから始まる動植物の〈いのち〉の連鎖によって生まれる死骸が海に流されてプランクトンの〈いのち〉を生み、その死によって魚たちが生かされ、さらにその魚を陸の動物が食べて生きているように、生者のみならず死者の役割をも含めた〈いのち〉の循環がおきているのである。生き物たちは、共存在する生者と死者とが生存の場に生み出す〈いのち〉の循環を増大させるように、子孫を増やし、そしてその姿形やはたらきを生存の場に合わせて柔軟に変えながら、互いの生死の間の繋がりの密度を高めていく。この生存の場における〈いのち〉の循環が増大していく現象を、私は「共存在の深化」と呼んできた。絶えず深化していく生存の場に自分の存在を位置づけることができる種は生き残り、できなければ絶滅してしまうと、私は考えている。このために生き物たちは自身の生き残りをかけて、「自分の存在はどうあるべきか」と生存の場に問いかけては、その答えを自分で発見して変化をすることを繰り返して生きているのである。問いかけを怠った種は、衰亡への道をたどる。共存在原理とは、共存在深化の原理なのである。
グローバル化した市場が地球規模に競争原理を拡大したことから、共存在原理によって深化してきた生き物たちとの間に急速に深刻な矛盾が生み出し、生き物たちに存在の危機をもたらしている。人間も、生存の場において生かされて生きていることから、その例外ではない。米国のサブプライムローン問題にその典型を見るように、その矛盾が弱者の存在の理(ことわり)が強者によって無視されるという形で格差を生み出し、世界的な経済危機となって顕在化してくるのである。さらに原因をたどると、人間の存在が生存の場に位置づけられていないために、担保価値を保証する場所的基盤がなく、バブルの生成と崩壊が繰り返されるである。生存の場における共存在原理を基盤とした経済的システムがつくられない限り、公的資金の一時的な注入で危機を長期的に回避できるものではない。これまで一極集中の形で運営されてきた世界経済が多極化していくことは、競争原理から共存在原理への移行を意味していると思われる。戦後の日本は絶えず答えを米国に求めて、その答えに向かって競争する形で成長してきた。そのためか、自分自身の存在を生存の場に問いかけては、その答えを創造的に発見しながら進む形が社会的につくられていない。しかしこれからは各国が自分の未來を自分で創造していかなければならず、このままでは日本が衰亡に向かうことは明らかである。共存在の思想に基づいて、市場経済の裏で活動しているNGOやNPOなどのはたらきを実質的に組み入れるようにしながら、共存在深化の場として社会を構想し、地球における共存在の深化に合致する経済システムを確立するための努力を早急に始めなければならない。

場の研究所 メールニュース 2008年12月1日号

2008 年 12 月 25 日 木曜日

場の研究所 メールニュース 2008年12月1日号 Since 2005年5月
「未来の居場所作り、創めよう」 http://www.banokenkyujo.org

このメールマガジンは、NPO法人場の研究所のメンバー、場の研究所の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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本年もいよいよ押し迫ってまいりましたが、 皆様におかれましては益々ご健勝のこととお悦び申し上げます。

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■場の研究所メールマガジンって?
場の研究所の活動の様子をメールマガジンを通じて、月1回~2回のペースでご報告&連絡していきます。また、会員・関係者のレポート・イベント情報等も掲載を通じて、生きている場のはたらきに関係して命を深く考えていくことにご関心のある方のコミュニケーションに役立てれば幸いです。

*お知らせ
清水博先生の「出会いトーク」の連載が始まりました。これから毎月少しずつ分割してお送りします。また「今月の一言」という覧も書いていただくことにしました。
 
■12月19日(金)場の研究所 定例勉強会
テーマ:「〈いのち〉の場へ問いかける」
「生き物たちは、共存在する生者と死者とが生存の場に生み出す〈いのち〉の循環を増大させるように、子孫を増やし、そしてその姿形やはたらきを生存の場に合わせて柔軟に変えながら、互いの生死の間の繋がりの密度を高めていく。この生存の場における〈いのち〉の循環が増大していく現象を、私は「共存在の深化」と呼んできた。絶えず深化していく生存の場に自分の存在を位置づけることができる種は生き残り、できなければ絶滅してしまうと、私は考えている。このために生き物たちは自身の生き残りをかけて、「自分の存在はどうあるべきか」と生存の場に問いかけては、その答えを自分で発見して変化をすることを繰り返して生きているのである。問いかけを怠った種は、衰亡への道をたどる。共存在原理とは、共存在深化の原理なのである」と清水先生は述べられています。一国中心主義的にグロ-バル化と無限の膨張を推し進めてきたこれまでの経済がついに限界を迎え、社会にも言いようのない不安をもたらし、私たちの日々の暮らしにまで暗く広がっています。自国の利益ばかりを優先してきた環境対策にもすでに限界が見えはじめているようです。
世界的な規模で次々に起こってくる様々な問題。
今、私たちに何が問いかけられているのでしょうか。
今回の勉強会では、こうした問題を踏まえつつ、時代の転換期を乗り越えていく為に、私たちがどのような問いかけを行っていけば良いのかについて皆さんと一緒に考えていきたいと思っています。
 日時:12月19日(金) 18:00~20:30(予定)
 場所:十思スクエア中央区NPO・ボランティア団体交流サロン内 会議室
   http://www.banokenkyujo.org/about/shozaichi.htm
 参加費:会員…5000円 非会員…6000円
   ※理事による紹介で1000円引きになります。
 定員:25名
 申込方法: benkyokai@banokenkyujo.org までご連絡下さい。
   申し込みについては、毎回予約をお願いいたします。
■清水博先生の出会いトーク
2008年10月18日の「場のア-ツコミュニケ-ション」の冒頭に催されました
「出会いト-ク ~美と〈いのち〉の表現より~」の模様をお送りします。
【連載第1回】 
今日ですね、朝、床の中で「美とはなんであるか」ということを考えたんですよ。その理由はね、やっぱり“場のアーツ”っていうんですから美のことを語らないわけにはいかんな、と思ったんです。で、いろいろ考えてみるとね、人間は何故美を感じることができるのか、これはやっぱり大きな問題なんですよね。でね、私はこれは人間だけではないんじゃないかというふうに思うんですよ。蝶が美しい花に惹かれたり、小鳥が自分自身を美しく飾ったり、美しい声で鳴いたり、蝉も鳴きますよね。なぜそういうふうにするかというと、美しさを感じる心というものが生き物にはあるんじゃないかな、と。それは動物だけじゃなくて、植物だって花を咲かせるでしょ。それは証明はできませんよ。証明はできないけれども、そう考えた方が自分にはよく分かるな、と思ったわけなんです。
それはどういうことかというと、場というのは〈いのち〉を表現する空間なんです。〈いのち〉というのはね、もともと自分はここにあるということを、自分の存在を表現する本性がある。何も表現しないものは〈いのち〉じゃないんです。その〈いのち〉がここにあるよ、といって自分自身で表現する空間、それが場なんですよね。だから、〈いのち〉の表現に関わったことを考えると、どうしても場というものが必要になるんです。
それで私は、多様な〈いのち〉が地球の上では一緒に生きていますから、一緒に生きていけるように〈いのち〉を表現したときに、私はそこに美を感じる。〈いのち〉が自分のことだけを表現しても、どうも私はそこに美を感じないんです。だからやはり美しいものに惹かれていくということの根本には、〈いのち〉が他の〈いのち〉に対して呼びかけようとするはたらきがある、と。その呼びかけに私たちは美しいな、と感動するのではないか、と私は思っています。【来月に続きます】
■清水博先生の「今月の一言」
人間の社会は「社会の機能構造」というハードとその「社会の基盤思想」というソフトによってそれなりに発展しながら活動しています。しかしこのハードとソフトが何時も一緒に発展するものではありません。パソコンの場合は、ハードが進むと、そのハードを使うための基本ソフトがつくられる、そしてまたその基本ソフトに合わせてハードが進歩するという形で機能が発展していきます。人間の社会では、社会的機能構造だけが進んでいくと人間の存在を支えている〈いのち〉の間の「縁」が壊れて、それまでの基盤思想と人間存在の間に大きな矛盾が生まれてきます。そのために、社会の基盤思想が新しい思想に変わる基盤思想の進歩が歴史の転換の一般的な形です。この社会的なハードの進歩は「競争原理」によって個別的におきますが、ソフトの進歩は「共存在深化の原理」によって全体的におきるのです。共存在の深化とは、分かりやすく言えば、個々の在り方を変えることによって〈いのち〉の間の「縁」を再編して深めるということです。この縁には、見知らない人々の間の縁、生きている者と既になくなった者との間の縁も含まれていますし、さらに現代では、この地上に〈いのち〉が生まれて以来の生き物としての縁ということも考えられます。これらのことから、転換期を通る度に、人の〈いのち〉の間の縁が再編されることになります。この縁の再編による深化ができなければ、生きて存在していくことができなくなります。場とは縁がはたらく空間のことですから、転換期では場のはたらきが重要になってきます。また人それぞれの〈いのち〉がもらい受けている縁はすべて異なりますから、縁が深まるときには、それぞれのオンリーワンとしての性質が重んじられるのです。
現在の経済危機は人間の考え方や物の見方を根本から変えなければ乗り切れないのではないでしょうか。それは近代文明の基盤思想にしたがって、市場を無限に拡大できると仮定して、資本主義経済をひたすら競争原理によって拡大してきたことがこの危機の原因になっているからです。しかし無限に拡大できる空間という発想は、帝国主義の時代のように、競争原理によって選択される強者だけが存在を許されるという「強者の思想」を生み出します。しかし、この近代をリードしてきた思想では、弱者は格差を受け、その存在には理(ことわり)があると認められません。ブッシュ大統領の「一国行動主義」は、この強者の思想を政治的に実践しようとした試みでしたが、その結果は地球的なレベルで生き物の〈いのち〉の存在を支えてきた縁を壊してしまいました。世界的な規模で紛争を深め、格差社会をつくり出し、地球規模の温暖化とそれによって更に加速する生態系の変化、食糧、水、資源の枯渇に対する無責任な反応、そしてさらに金融バブルとその崩壊による世界規模での恐慌の可能性を生んで行き詰まり、近代という時代に事実上の終止符を打つ役をしたと思われます。つまり、競争原理によって社会的機能を進めた結果、この地上で人間をはじめさまざまな生き物たちの〈いのち〉が共に存在していくために必要な縁が壊れてしまったのです。これから必要なことは、共存在の深化の方向に変化を進めることです。

■今後の勉強会の日程について
通常第3金曜に行っております。都合により第3金曜日以外の日程になる場合もございますが、その場合はこのメールマガジンにてお知らせします。
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■編集後記
28日、定例勉強会。
今回のテ-マは、「場のいのちを深める」
人々の暮らしを豊かにするはずだった経済。それが、いつの間にか逆転し、お金の為の暮らしに慌ただしく追い立てられているような現代の社会。
その経済にも限界が見えはじめ、今、改めて本当に大切な価値とは何かを人々は模索し始めているようです。経済の問題が、実は、単なる金銭的な価値のやりとりの問題ではなく、私たちの存在に関わる重要な問題であるということに気づいている人は少ないように思います。お金の価値だけで考えるのではなく、存在の価値を考えることが、この転換期を乗り越えていくヒントとなっていく。だから、「今月の一言」にあるように、経済の問題も、場の思想に繋がってくるということですね。現代のような転換期に一番必要なことは、知識としての哲学ではなく、社会の基盤思想となる哲学を知って、自分自身のものの見方を変えることです。
今回の勉強会での、清水先生のお話を聞いていると、こうした価値に対する考え方の違いの問題が、より明確になって、思想が何故、今必要とされているのか?ということへの理解もさらに深まってきます。場を考えるときに、「いのち」ということを考えると皆が共有しやすいのではないかと清水先生は述べられています。今回は、その「いのち」への理解を前回の勉強会よりさらに一歩深めるかたちで、自己に内在する超越的他者との相互誘導合致の関係を中心にお話を進められました。“美を創出する超越的他者”“未来からくる超越的他者”そして“相互誘導合致”。難しい内容ではありますが、仏教哲学を折り込みながら、大変深いところのお話を頂くことができました。いのちが輝くときに感じる美、内なる自己との出会い、そして創造と救済。本当に、毎回いろんなことに気づかされ、反省させられます。又、こうして思想や哲学を学び、現代社会の多くの問題点を浮き彫りにしていくことで新たな問いかけも生まれてくるようです。参加者の皆さんからも、率直な意見が活発に出されて、とてもいい勉強会の場が出来ていました。私がいうのもなんですが、こんなに味わいのある勉強会は、なかなかありません。
やっぱり、中身の濃さと深さが大切なんですね。
来月の勉強会も皆さん奮ってご参加ください。

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