特定非営利活動法人 場の研究所 The "BA" Research Institute

2009 年 1 月 のアーカイブ

2月19日、定例勉強会が開催されます。

2009 年 1 月 31 日 土曜日

金融危機に端を発し、世界規模で広がりつつある時代の閉塞感と暮らしへの不安。そんな中、米国では「変革」の思想を掲げた黒人初の大統領が誕生しました。それは、過去への捉われを捨てて、新たな時代を創造しようという、人々の心の大きな変化を感じさせてくれるような歴史的な出来事だったのではないでしょうか。

「転換期の転回とは天動説から地動説の転回のように、〈いのち〉が共に存在している新しい劇場空間が発見されて、互いの〈いのち〉のはたらきが深まる転移である」と清水先生は述べています。

転換期を乗り越え、〈いのち〉の共存在の時代に向けて、私たちは今、何を変え、何を問いかけていくべきなのでしょうか。さまざまな人々が集まる開かれた場には、新しいドラマを創造するような力強い活きが生まれます。

今回の勉強会では、新たな時代の創造につながっていく場の活きについて皆さんと一緒に考えていければと思っております。

2009年1月度 定例勉強会

2009 年 1 月 18 日 日曜日

今回の勉強会も満員でした。

概念、つまり名詞をいくら積み上げても
はたらき、つまり動詞にはならないということを
何度も強調した講義でした。

今回は講義の一部をビデオ撮影したものを
取り出してみました。

Youtubeというサイトでもごらんになれます。

法然と上泉伊勢守(訂正)

2009 年 1 月 13 日 火曜日

昨日、「法然の衝撃」という本を紹介した後で、法然と上泉伊勢守との間に直接的な出会いがあったように書きましたが、私の勘違いでしたので、訂正いたします。法然は鎌倉時代の初期の人であり、一方、上泉伊勢守は室町時代末期の人です。上泉伊勢守の家系は代々大胡という姓で上野国赤城山南面にあった大胡城の城主であり、上泉伊勢守も初めは城主として大胡武蔵守秀綱と称していたそうです。この大胡氏の先祖に大胡小四郎隆義という人があって在京中に吉水の法然の禅室に参じて念仏を深く受信したと法然上人絵伝に書かれています。また、その息子の大胡太郎実秀も、法然の根本弟子の一人と言われた人です。彼が下国した後で念仏信仰の三心について法然に問い合わせ、法然から来た返事を読む図が「法然上人絵伝(上)」(岩波文庫)の299頁に「大胡の太郎、法然上人の返事を読む」と説明されて載っています。このことは大胡太郎も念仏信仰が非常に深かったことの証拠になると、思われます。さらに、この大胡実秀の孫の小四郎秀村も念仏信仰に励んだと言われています。このようなことから、当時の関東の政治的・文化的状況から考えて、大胡秀綱(上泉伊勢守信綱)も、強い念仏信仰をもっていたと推定されるのです。しかし、私はこれについては、証拠の有無を確かめていません。誤りをご指摘下さった奥田荘太郎氏に感謝をします。(清水 博)

法然の地動説

2009 年 1 月 12 日 月曜日

阿万利麿「法然の衝撃ー日本仏教のラディカル」(ちくま学芸文庫)は、凡夫という誰もが備えている性質から人間を捉えて、その凡夫を救済するための普遍宗教を日本において広めようとした法然の行動が、人間の平等性に立脚するものであったことから、伝統的な権威によって守られてきた当時の政界や宗教界に大きな衝撃を与えて、双方から厳しい弾圧を受けることになったことが分かりやすく、しかも深く書かれています。法然は死後墓を発かれて、遺棄されたとまで言われています。そして大きな受難に苦しんだ法然の弟子の中から人間の主体性に立つ信仰の道を切り開いた親鸞が現れたことはご存知の通りです。この本からは、法然が日本に与えた転回とは何であったかがわかります。本書には書かれていませんが、この法然と、普遍の勝利の原理を極めて活人剣を創始した新陰流の流祖上泉伊勢守の間に交流があったことはよく知られ、それを裏付ける手紙も残っています。室町末期から鎌倉時代にかけておきた転換期における志の高い人々の生き方を教えられるようです。(清水 博)

自然における花の写真

2009 年 1 月 12 日 月曜日

阿久悠(文)と大出一博(写真)による「華—君に唇に色あせぬ言葉を—」(産経新聞出版)は、素晴らしい文による表現と素晴らしい写真による表現が出会って〈いのち〉の表現を見せてくれます。美しい花、美しい人には、隠された〈いのち〉の秘密があり、それが昆虫を引きつけたり、人の心を引きつけたりします。この写真には花の秘密が写されているために、いつ見ても厭きることがありません。(清水 博)

〈いのち〉という現象

2009 年 1 月 9 日 金曜日

非定期従業員が、あたかも効率よく利益を上げるために導入した生産システムという工学機械の一部であるかのように取り扱われて、契約期限の内に突然企業から解雇され、しかも生活の場である寮をただちに追い出され、保険もない形で年末の寒さの中に放り出されるというできごとが最近おきました。そしてこのことは社会に大きな批判を呼びました。その理由は企業がそれらの人々を、自分の収益をあげるために自分の都合で自由に雇ったり切り捨てたりして生産調整をすることができる「生きている物体」のように見なして、その〈いのち〉の存在価値に対して生存の場における共存在者として払うべき「共存在の責任」を全く他人ごととして考えていると受け取られているからです。社会における各種のボランティア活動も、結局は自己の「共存在の責任」としておこなわれているわけであり、また企業にも同様の観点から社会貢献が求められている時代です。社会からこのような批判を浴びることを予想できなかったことは、企業経営者が存在の天動説的な観点に立って自己の収益しか見てこなかったことを意味しているように思われます。社会の反応からも、すでに多くの人々の心の中では存在の天動説的宇宙から地動説的宇宙へのコペルニクス的転回が始まっており、そこから企業の株主、経営者、定期従業員、そして非定期従業員などが生存の場の共存在者として〈いのち〉の存在価値の上では対等であるという価値観が生まれていることを示しています。そのことから、人間がこの地球の生存の場所に共に存在するためには、それぞれが人間としての共存在責任を果たさなければならないという考えが生まれてくるのです。

地球の生態系、社会、企業、家庭などの場所は、よく考えてみると、「生きていく」という目的をもつ「〈いのち〉という動的な現象」です。それは分かりやすく言えば「生きていくはたらきという動詞」です。また個体もその細胞から見れば同様に「生きていくはたらきという動詞」です。このように生き物の世界は、それ自体が「生きていくはたらきという動詞」であると共に、その動詞が集まってさらに大きな「生きていくはたらきという動詞」をつくっているのです。私たちが生きてきた近代という時代に、人間が犯した大きな誤りは、「生きていくはたらきという動詞」を「生きているものという名詞」によって置き換えて、その「名詞」の方に実体があると誤解してしまったことです。このことが非定期従業員を「生きている物体」として見て、「生きていくはたらきという動詞」と見ることができなかったこと、また「生きていくはたらきという動詞」として企業を見ることがなく、「生きている物体」のように取り扱っていることに、はっきりと現れています。この「生きていくはたらきという動詞」と「生きているものという名詞」を置き換えたことによって生じてくる問題は、生きていくという〈いのち〉の根元的な性質、すなわち主体性が無視されることです。いま進んでいる存在の天動説的宇宙から地動説的宇宙への転回は、「生きているものという名詞」として理解されてきたものを、存在の地動説的宇宙において「生きていくはたらきという動詞」として捉えなおすという意義をもっています。グローバル化した資本主義経済は、このままではこの変化についていけないと思われます。〈いのち〉の存在価値を上げると言うことは名詞化されている〈いのち〉を「生きていくはたらきという動詞」にするということです。それでは〈いのち〉の存在価値を上げることを目的にする新しい経済モデルとは何か。これを考えるためには、〈いのち〉の存在価値を含めて、市場における価値論を構築していくことが必要です。〈いのち〉の存在価値とは、「生きていくはたらきという動詞」としての自己の存在と切り離すことができない主客非分離の価値のことです。

経済的危機の克服のために何をすべきか

2009 年 1 月 9 日 金曜日

経済的危機の克服のために何をすべきか

信用を担保する基盤が失われている状態で、グローバル化した市場に多額の投機がおこなわれる結果、信用の虚像が虚像を生む形が拡大してバブルの生成と崩壊が繰り返される経済的構造が生まれている。この構造が生まれるのは、人間が「地球の居候」になっているために、自分の存在を地球という生存の場に位置づけられないからである。そこで、人間の社会も宙に浮んでしまい、もはや信用を担保するだけの基盤がないのだ。一軒の家で家族が共に生きていくためには、強者弱者の差別を超えて互いの〈いのち〉を尊重することが必要であるように、地球という限られた空間に一緒に生存していくために、多様な生き物の間に「共存在原理」がはたらいている。たとえば葉が落ちて積み重なり、その下で細菌が繁殖して土壌を豊かにすることから林の中で複雑な動植物の〈いのち〉の連鎖が動き、そこから生まれる死骸や有機物が海に流されてプランクトンの〈いのち〉を生み、魚たちがその〈いのち〉によって生かされ、さらにその魚を人間をはじめ陸の動物が食べて生きている。生者のみならず死者の役割をも含めて〈いのち〉の循環がおきているのだ。生き物は自分たちが生存している場に「自分はどうあるべきか」と問いかけるようにして、子孫を増やし、そして互いの生死の繋がりが濃くなるように自分を変えて〈いのち〉の循環を大きくしてきた。このことを私は「共存在の深化」と呼んでいるが、生物進化と呼ばれてきた現象の実相は共存在の深化なのだ。「共存在原理」とは、共存在深化の原理なのである。人間が地球という家庭の居候にならないためには、地球におけるこの共存在の深化にしたがって生きていくことが必要なのである。

一方、人間は、近代の「進化思想」にしたがって無限に市場を拡大できると考えて、ひたすらに市場主義経済を進めてきたために、地球規模にグローバル化した市場から競争原理を押しつけられている。しかし無限に拡大可能な空間という発想は、帝国主義の時代のように、競争原理によって選択される強者だけが存在を許されるという思想を生み出す。このために弱者が格差を受けてしまい、共存在原理にしたがって生きていくことが不可能になる。米国のサブプライムローン問題では、強者が共存在原理を無視したことが金融バブルの原因である。共存在原理を基盤とするシステムが生まれない限り、小手先の対応だけで経済危機を長期的に回避することは不可能であろう。経済機構の競争原理から共存在原理への転換が世界経済の多極化につながっていく可能性がある。戦後の日本は絶えず米国に範を求めながら競争原理によって成長してきたが、多極化していく経済では他に未来を求めて選択するのではなく、自分の生存の場に絶えず問いかけながら未來を創造していかなければならない。いまの日本に必要なことは、新しい方向に舵を切る人々が連携して、共存在原理を踏まえた新しい社会と経済の仕組みづくりを始めることである。生存の場における〈いのち〉の循環を生み出すさまざまな場の技術と、異なる考えをもつ人々が互いの心を伝え合うことができる新しいコミュニケーション技術とが、この新しい仕組みの肉となり、神経となるであろう。そして世界の未來とその未来における日本の共存在を構想する場の思想がそれを支える背骨となる。いま何よりも必要なことは、変化に向かって一歩踏み出すことである。

(NPO法人・場の研究所理事長 東京大学名誉教授  清水 博)

場というはたらきについて

2009 年 1 月 8 日 木曜日

私たち自身、そしてその私たちが生きている家庭、社会、自然とは何かと、よくよく考えていきますと、それは「生きていくという動的な現象」がおきている場所であることがわかってきます。分かりやすく言い換えてみると、それは「生きていくはたらきという動詞」なのです。人間がおこなってきた大きな誤りは、この動詞を頭の中で「生きているものという名詞」に置き変えて、その名詞の方が実体であると見なしてきたことです。このことから、「生きていくこと」が「生きているもの」に置き換わります。

この動詞と名詞の置き換えから〈いのち〉に関するいろいろな素晴らしいことが見えなくなってしまうのです。場とは、動詞としての本来のはたらきを、名詞になっている私たちに取り戻させる動詞としての場所の全体的なはたらきのことです。西田幾多郎の言葉を使うと、〈いのち〉というものは、どこまでも述語(動詞)であて主語(名詞)とはならないものです。

動詞としての〈いのち〉の世界ではたらく動詞としてさまざまな表現は、華のはたらきにたとえられると思います。というよりも、花こそが〈いのち〉の華としての動詞なのです。そしてその華をいろいろな苦悩を背負って生きていこうとしている人々、そしていろいろな生き物たちにも分けて上げたいですね。

清水 博

2008年12月度 定例勉強会

2009 年 1 月 8 日 木曜日

12月の勉強会のテーマは
「〈いのち〉の場へ問いかける」でした。

普段は円形に机を配置するのですが
参加者が多かったために大学の講義のような
机の配置にしました。

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20:30までの予定でしたが
皆様の質問が相次ぎ、終わったのは21:00過ぎ…。

盛り上がりました。
 

…さて、後片付けも終わり、さぁ帰ろうというときに…、
「じゃ~………」
どこからともなく聞こえてくる流水音…。

トイレの水が流れっぱなしになって止まりません。

警備会社の方に来てもらうまで
みんなでわいわいお話しておりました。

Youtubeで講義の一部を公開しました。

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