今までの生命科学、科学というものは自分を見ない。そこ(科学)で、自分自身の運動に相当する、自分が生きていくのは、どうやってその(自分を見ない)状態から引き出すのか。これは出てこないわけです。自分を中心にして見て、自分の運動は何だ、と言われても、その問いかけが答えを持たない。ちょうど天動説に立ったときに、地球はどう運動するのかっていうのを問いかけるのと同じになるんです。
それで答えは、生きているってことしか無いんです。自分はここにある、っていう。これ以上の答えは出ようが無いわけです。それ以上の答えを出そうと思えば、今の場というものの中に自分を置いて自分はそこでどういう運動をするのかなぁ、っていうふうに言ったときに、自分の生き方が分かるわけですね。他のものがいないところで自分はどう生きるのかな、というのは、これはあまりにも抽象論だね。毎日何か食べるっていうことをいっぺん全部捨てちゃって、本当は食べてるのに食べてないかのように考えて、自分がどう生きていくのかなぁ、と言ってもこれは無理なわけですね。現実に生きていくってことは、いのちをいただきながら、また人と人との関係を持ちながら、まぁまぁ動物ともいろいろ関係を持つかもしれませんけど、そういう状態で自分は生きていくわけですからねぇ。そこまで考えないと、生きていくってことについては抽象論になってしまうわけです。どうもそういうことではないな、と。
私は生きていくということは、共存在の宇宙における自己と他者の生命の表現運動である…これ難しいですね(笑)、つまりドラマだ、ってことを言ってるわけです。生き物って生命を持っているでしょ。その生命を全く表現できないようにすると死んじゃうんです、コンクリートに固めてね。ものすごい負担になるんです。どんな生き物でも、細胞でもですよ、動いてるんですよ。動いてるってことはね、ここに生きてるぞってことを表現してるんです。外に向かって表現している。全く表現できない状態ってのはね、まぁ…、生きていけないね。そういうふうにすると、死んでしまう。牢屋につながれるとかいうのは表現を制限されるでしょ?あれは非常に苦しいわけですよね。やっぱり表現するようにできていて、ということは、表現することによって相手の存在を知るわけですね。だから共存在できるんです。いま人間はそこが分かっていないんです。里山を潰すなんてのは、要するに山の表現を見ないってことになっちゃったわけね。
で、舞台に表現できない生命体は生きていくことはできない、というのは、これは一つの事実ですね。で、自分の存在を表現する、これができない状態が絶望っていう状態ですね。自分が表現、未来に向かってですよ、生きていくってことは自分の表現ですから、自分の存在を表現できない、こういう状態に追い込まれるってあるんですよね。するとね、もう生きていくことができませんから。自殺しちゃうってことも、こういうところから起きてくるわけですよ。自分に見える未来ってそこしかないわけです。自分が死ぬってことしか、未来が見えないわけだから。なんかの拍子で、パッと未来が見えてくれば死ぬ必要は無いわけですから。生きていくわけですから、そのための手助けってのは非常に貴重なんですけどね。
このあたりの問題って、すごく大切でしょ?ただこれを科学に求めても答えはありませんよ、っていうことですから。これは病院へ行ってね「私悩んでるんですが、どうすればいいですか?」と言ってもね「まぁ悩んでるんだったらこの薬飲みなさい」って言われる程度ですね。それはもちろん意味のあることですけども、それで解決できない悩みっていっぱいありますね。だから薬を飲むってことは、生きているっていう状態を改善するけども、生きていくことは教えてくれない。つまりそれで、天動説が地動説に変わるっていうことは無いわけです。場の研究所の目的っていうのはね、この天動説を地動説にしたいんですよ。そういう思想を作りたいんです。これは私だけでは無理です。今日ね、明日香さんにそう言ったんだけどね、「私は作れることは骨だ。肉はあなたたちが付けてください。」って言ったらね「それはちょっと気持ち悪い」って、その例えが(笑)。「私はベジタリアンですから」確かに(笑)。思想というのは骨格です。その思想に肉付けをしないと広がらないですよ、一般にはね。それで、その肉付けをして、一つのこういう形になりますよ、ってこうやったらね、どれだけ大きいことか分からないわけです。
