貨幣経済は様々なモノを貨幣と交換することを基礎にして現在の形まで発展してきました。したがって、貨幣と交換できる交換価値をもつモノやコト(事物)だけが経済的価値をもっているのです。事物が経済的価値をもつためには、明在的に意識され、そしてその範囲が限定されることが必要になります。このために、さまざまな交換価値のある事物を発見する技術が発展する一方で、またどうしても、その存在を明在的に限定できない暗在的なものは経済的価値がないとして無視されてきたのです。
無視されていくものの中に〈いのち〉があったことがこの大きな危機の真の原因であると思います。たとえば経済活動における人々の信用は、その範囲を明在的に限定できないために、貨幣と交換できないものです。それは信用が個々の〈いのち〉を超える大きな〈いのち〉のはたらきという限定できないものに支えられていることと密接に関係しているからです。
それでは経済的価値がないから切り捨ててよいかと言えば、そうではありません。それは、「多様な〈いのち〉が安定して共存できるためには、それらの〈いのち〉が存在している場が個々の〈いのち〉を超える大きな〈いのち〉に包まれていなければならない」という二重生命原理があり、その原理は、結局、人々の〈いのち〉のはたらきが大きな〈いのち〉に支えられてこそ市場が安定することを意味しているからです。このことは大きな〈いのち〉という目に見えない暗在的な「限定条件」のもとで、明在的な経済的価値がはじめて安定して存在できるということを意味しています。
しかしこのように二重生命的に成立している人の信用の存在価値が金融工学の対象となって証券という形で明在的な交換価値に置き変えられ、そして貨幣と交換される仕組みがつくられて、まるで錬金術のように実態のない「信用」をつくり出して、それを大きくしていけば、当然、信用の空洞化がおきます。その貨幣で買える信用の上に成立している経済には実態がありませんから、一旦、バブルがはじければ、空洞化した信用が大きな〈いのち〉のはたらきに支えられるところまで収縮してしまうのは当然です。
このように二重生命原理が市場の倫理として守られてこそ、信用は信頼できるのです。信用の回復は大きな〈いのち〉に包まれておきる人と人との出会いから始まります。そこで始まるのは〈いのち〉の原理にしたがっておきる人として存在する価値(存在価値)を互いに上げるという活動、すなわち互いに生活を支え合うことによっておきる共存在の深化なのです。