特定非営利活動法人 場の研究所 The "BA" Research Institute

‘論考’ カテゴリーのアーカイブ

〈いのち〉という現象

2009 年 1 月 9 日 金曜日

非定期従業員が、あたかも効率よく利益を上げるために導入した生産システムという工学機械の一部であるかのように取り扱われて、契約期限の内に突然企業から解雇され、しかも生活の場である寮をただちに追い出され、保険もない形で年末の寒さの中に放り出されるというできごとが最近おきました。そしてこのことは社会に大きな批判を呼びました。その理由は企業がそれらの人々を、自分の収益をあげるために自分の都合で自由に雇ったり切り捨てたりして生産調整をすることができる「生きている物体」のように見なして、その〈いのち〉の存在価値に対して生存の場における共存在者として払うべき「共存在の責任」を全く他人ごととして考えていると受け取られているからです。社会における各種のボランティア活動も、結局は自己の「共存在の責任」としておこなわれているわけであり、また企業にも同様の観点から社会貢献が求められている時代です。社会からこのような批判を浴びることを予想できなかったことは、企業経営者が存在の天動説的な観点に立って自己の収益しか見てこなかったことを意味しているように思われます。社会の反応からも、すでに多くの人々の心の中では存在の天動説的宇宙から地動説的宇宙へのコペルニクス的転回が始まっており、そこから企業の株主、経営者、定期従業員、そして非定期従業員などが生存の場の共存在者として〈いのち〉の存在価値の上では対等であるという価値観が生まれていることを示しています。そのことから、人間がこの地球の生存の場所に共に存在するためには、それぞれが人間としての共存在責任を果たさなければならないという考えが生まれてくるのです。

地球の生態系、社会、企業、家庭などの場所は、よく考えてみると、「生きていく」という目的をもつ「〈いのち〉という動的な現象」です。それは分かりやすく言えば「生きていくはたらきという動詞」です。また個体もその細胞から見れば同様に「生きていくはたらきという動詞」です。このように生き物の世界は、それ自体が「生きていくはたらきという動詞」であると共に、その動詞が集まってさらに大きな「生きていくはたらきという動詞」をつくっているのです。私たちが生きてきた近代という時代に、人間が犯した大きな誤りは、「生きていくはたらきという動詞」を「生きているものという名詞」によって置き換えて、その「名詞」の方に実体があると誤解してしまったことです。このことが非定期従業員を「生きている物体」として見て、「生きていくはたらきという動詞」と見ることができなかったこと、また「生きていくはたらきという動詞」として企業を見ることがなく、「生きている物体」のように取り扱っていることに、はっきりと現れています。この「生きていくはたらきという動詞」と「生きているものという名詞」を置き換えたことによって生じてくる問題は、生きていくという〈いのち〉の根元的な性質、すなわち主体性が無視されることです。いま進んでいる存在の天動説的宇宙から地動説的宇宙への転回は、「生きているものという名詞」として理解されてきたものを、存在の地動説的宇宙において「生きていくはたらきという動詞」として捉えなおすという意義をもっています。グローバル化した資本主義経済は、このままではこの変化についていけないと思われます。〈いのち〉の存在価値を上げると言うことは名詞化されている〈いのち〉を「生きていくはたらきという動詞」にするということです。それでは〈いのち〉の存在価値を上げることを目的にする新しい経済モデルとは何か。これを考えるためには、〈いのち〉の存在価値を含めて、市場における価値論を構築していくことが必要です。〈いのち〉の存在価値とは、「生きていくはたらきという動詞」としての自己の存在と切り離すことができない主客非分離の価値のことです。

経済的危機の克服のために何をすべきか

2009 年 1 月 9 日 金曜日

経済的危機の克服のために何をすべきか

信用を担保する基盤が失われている状態で、グローバル化した市場に多額の投機がおこなわれる結果、信用の虚像が虚像を生む形が拡大してバブルの生成と崩壊が繰り返される経済的構造が生まれている。この構造が生まれるのは、人間が「地球の居候」になっているために、自分の存在を地球という生存の場に位置づけられないからである。そこで、人間の社会も宙に浮んでしまい、もはや信用を担保するだけの基盤がないのだ。一軒の家で家族が共に生きていくためには、強者弱者の差別を超えて互いの〈いのち〉を尊重することが必要であるように、地球という限られた空間に一緒に生存していくために、多様な生き物の間に「共存在原理」がはたらいている。たとえば葉が落ちて積み重なり、その下で細菌が繁殖して土壌を豊かにすることから林の中で複雑な動植物の〈いのち〉の連鎖が動き、そこから生まれる死骸や有機物が海に流されてプランクトンの〈いのち〉を生み、魚たちがその〈いのち〉によって生かされ、さらにその魚を人間をはじめ陸の動物が食べて生きている。生者のみならず死者の役割をも含めて〈いのち〉の循環がおきているのだ。生き物は自分たちが生存している場に「自分はどうあるべきか」と問いかけるようにして、子孫を増やし、そして互いの生死の繋がりが濃くなるように自分を変えて〈いのち〉の循環を大きくしてきた。このことを私は「共存在の深化」と呼んでいるが、生物進化と呼ばれてきた現象の実相は共存在の深化なのだ。「共存在原理」とは、共存在深化の原理なのである。人間が地球という家庭の居候にならないためには、地球におけるこの共存在の深化にしたがって生きていくことが必要なのである。

一方、人間は、近代の「進化思想」にしたがって無限に市場を拡大できると考えて、ひたすらに市場主義経済を進めてきたために、地球規模にグローバル化した市場から競争原理を押しつけられている。しかし無限に拡大可能な空間という発想は、帝国主義の時代のように、競争原理によって選択される強者だけが存在を許されるという思想を生み出す。このために弱者が格差を受けてしまい、共存在原理にしたがって生きていくことが不可能になる。米国のサブプライムローン問題では、強者が共存在原理を無視したことが金融バブルの原因である。共存在原理を基盤とするシステムが生まれない限り、小手先の対応だけで経済危機を長期的に回避することは不可能であろう。経済機構の競争原理から共存在原理への転換が世界経済の多極化につながっていく可能性がある。戦後の日本は絶えず米国に範を求めながら競争原理によって成長してきたが、多極化していく経済では他に未来を求めて選択するのではなく、自分の生存の場に絶えず問いかけながら未來を創造していかなければならない。いまの日本に必要なことは、新しい方向に舵を切る人々が連携して、共存在原理を踏まえた新しい社会と経済の仕組みづくりを始めることである。生存の場における〈いのち〉の循環を生み出すさまざまな場の技術と、異なる考えをもつ人々が互いの心を伝え合うことができる新しいコミュニケーション技術とが、この新しい仕組みの肉となり、神経となるであろう。そして世界の未來とその未来における日本の共存在を構想する場の思想がそれを支える背骨となる。いま何よりも必要なことは、変化に向かって一歩踏み出すことである。

(NPO法人・場の研究所理事長 東京大学名誉教授  清水 博)

場というはたらきについて

2009 年 1 月 8 日 木曜日

私たち自身、そしてその私たちが生きている家庭、社会、自然とは何かと、よくよく考えていきますと、それは「生きていくという動的な現象」がおきている場所であることがわかってきます。分かりやすく言い換えてみると、それは「生きていくはたらきという動詞」なのです。人間がおこなってきた大きな誤りは、この動詞を頭の中で「生きているものという名詞」に置き変えて、その名詞の方が実体であると見なしてきたことです。このことから、「生きていくこと」が「生きているもの」に置き換わります。

この動詞と名詞の置き換えから〈いのち〉に関するいろいろな素晴らしいことが見えなくなってしまうのです。場とは、動詞としての本来のはたらきを、名詞になっている私たちに取り戻させる動詞としての場所の全体的なはたらきのことです。西田幾多郎の言葉を使うと、〈いのち〉というものは、どこまでも述語(動詞)であて主語(名詞)とはならないものです。

動詞としての〈いのち〉の世界ではたらく動詞としてさまざまな表現は、華のはたらきにたとえられると思います。というよりも、花こそが〈いのち〉の華としての動詞なのです。そしてその華をいろいろな苦悩を背負って生きていこうとしている人々、そしていろいろな生き物たちにも分けて上げたいですね。

清水 博

未來の方からくる超越的他者のはたらき

2008 年 12 月 29 日 月曜日

安田理深が福井相応学舎でおこなった唯識三十頌に関する連続講義のなかに次のようなことが書いてありました。これが私が考えている「自己の内なる超越的な他者」とは何か、そしてそのはたらきとは何かを説明する分かりやすい入り口になると思いました。もっとも、浄土真宗は法蔵菩薩が四十八の願を立てて修行をし、それが成就して阿弥陀仏になったという神話をもとにした仏教の宗派ですが、近代になって「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」という曽我量深(清沢満之の思想を継いで、さらに大きく発展させた浄土真宗大谷派の思想家)の有名な言葉によって、この神話の真の意味が明らかにされました。つまり、阿頼耶識は人間がそれぞれの無意識の領域に受け継いでもっている過去の経験の記憶の貯蔵庫に相当するものです。その中には自分自身のこれまでの人生における経験ばかりでなく、無始以来さまざまな祖先が経験してきた記憶も所蔵されていると考えられています。言葉を変えれば、DNAを通して伝えられる経験、社会的影響の形で伝えられる経験も含まれているのです。 このために阿頼耶識はいま生きている自己自身の意識を遙かに超える超越的な他者としてのはたらきをもっています。これが私が考えている「自己の内なる超越的な他者」です。この自己の内なる超越的な他者のはたらき(他力)によって自己の存在が救われると考えるのが、浄土真宗大谷派の近代的教義です。安田理深はこの曽我量深の弟子に相当する重要な思想家で、曽我の思想を継いで存在論的観点から浄土真宗の教義を考えた人です。安田理深は次のように語っています。

「阿弥陀仏に助けられるということはない。阿弥陀仏は助かった人なんだ。法蔵菩薩を離れたら、阿弥陀仏というものを見出してくる道がない。法蔵菩薩の中に阿弥陀仏があるんだ。法蔵菩薩の願というものは、主体だね、願心と。
 
四十八願の中に、四十八願を生み出す「信」がある。四十八願の中に四十八願の源泉があるんだ。それは「信」だ。それを「欲生」というわけです。本願の中に「欲生」というものが願を生み出しているんだ。それを「願心」というわけですね。
 
法蔵菩薩は阿頼耶識ではないことは誰でも知っているんですわ。けど、法蔵菩薩に触れずに阿頼耶識を見ておると、阿頼耶識の意味がよくわからん。また阿頼耶識を離れて法蔵菩薩を見ていると、法蔵菩薩は神話になってしまう。何か二つ合わせるとやね。法蔵菩薩にも無かったもの、また阿頼耶識にも無かったものが出てくる。曽我先生の言おうとしておられるのは、法蔵菩薩でも、阿頼耶識でもありゃせんのですわ。それらをそれらが照らすことによって、それらではない根元というものを明らかにしようとせられた。何かそこに照応ということがある。合い照らすという。二つのもので照らし合わすと、二つ以前のもの、二つでないもの、二つを超えて二つを成り立たせるようなものが明らかにされてくる。
 
阿頼耶縁起論というのが唯識の立場です。・・・諸法の実相は縁から生じたんだということが、それが実相なんだという考えだ。・・・象徴とか荘厳とか、願心荘厳と言われるのは縁起論の立場に立つから言えるので、存在が縁起として成り立っているというところに、初めて象徴というようなことが言えてくる。願心荘厳というようなことがね。」
 
 ここで分かるように阿頼耶識は、自己の内なる超越的な他者(西田幾多郎の「絶対の他」に相当するもの)です。浄土真宗の信仰では阿頼耶識を超越的な他者としての法蔵菩薩に照応させているのです。
 
ここで注目に値するのが、「それらをそれらが照らすことによって、それらではない根元というものを明らかにしようとせられた。何かそこに照応ということがある。合い照らすという。二つのもので照らし合わすと、二つ以前のもの、二つでないもの、二つを超えて二つを成り立たせるようなものが明らかにされてくる。」という安田理深の言葉ですが、私はこの「照応」の奥には「鍵と鍵穴との相互誘導合致」に相当すると考えています。

ここで「鍵」は自己のはたらき、「鍵穴」は他者のはたらきを自己に伝えてくる場に相当するものです。言い換えると、自己の内なる絶対の他者のはたらきが場を通じて、その場において存在している自己に伝えられるのです。さらに一歩深めて考えると、場が変われば、その変化に応じて、自己に伝えられてくる絶対の他者のはたらきも変わるっていくのです。ドラマが演じられたり、物語が語られたりすれば、それに応じて場が変わっていくために、一歩一歩、未來が開かれてくるのです。
 
このように自己のはたらきを「鍵」とすると、場を通じて伝えられてくる自己の内なる超越的な他者のはたらきは「鍵穴」として、空間的にも、時間的にも、その「鍵」を誘導合致的に包んでくるのはたらきをしていることになります。このことを時間的に見れば、超越的な他者のはたらきが未來の方から自己に近づいて、自己のはたらきを誘い出してくるということになるのです。

救済の根底には創造があり、また創造の根底には救済があります。その理由は、救済も、創造も、自己の内なる絶対の他者のはたらきによって生まれるからです。いま何の場を問題になっているかは、その場における自己の意志、希望、思いなどによって変わります。たとえば宗教的な信仰の場であるか、研究の場であるか、芸術の場であるか、截相(きりあい)の場であるかによって、阿頼耶識の照応のされ方が異なってくると、私は考えています。これは「鍵」の形に応じて、それと誘導合致的な関係にある「鍵穴」の形が変わることに相当します。そうではありますが、超越的な他者のはたらきが未來の方から自己に近づいてくるという自己と超越的な他者との照らし合い(照応)の基本的な形(鍵と鍵穴の相互誘導合致という形)は変わらないのです。
 
凡夫という鍵の形は、法蔵菩薩(他力)という鍵穴の形を引き出して、そしてその鍵穴に誘導されるのです。言い換えると、凡夫という形はすでに他力によって救われる形なのです。私自身は、ここでは信仰者として浄土真宗に向かっているのではなく、あくまでも〈いのち〉の研究者として、自己と自己の内なる超越者との関係に興味をもっているのです。つまり、宗教的救済や創造を生命現象として明らかにする立場に立っているわけです。

人間の問題としての経済的危機への対応

2008 年 12 月 25 日 木曜日

資本主義経済では、多くの人々の価値観を反映して市場が変化していくことから、経済的危機は多分に人間の心の危機でもある。現在の経済の危機は、グローバル化して地球規模に広がった市場を動かしている人間が地球という生存の場の「喘ぎ」を無視していることと関係がある。具体的には、市場を無限に拡大できるという「進化の思想」によって経済が進められているのに対して、地球という生存の場は限られた狭い空間なのである。無限に拡大できる空間では、帝国主義の時代のように、競争原理によって強者が選択される「強者の理(ことわり)」が生まれる。一方、限られた空間では共存在原理がはたらくために、多様な生き物が、あたかもジャンケンのように、強者弱者の差別を超えて存在する。たとえば落ち葉が新しい芽生えを育み、それから始まる動植物の〈いのち〉の連鎖によって生まれる死骸が海に流されてプランクトンの〈いのち〉を生み、その死によって魚たちが生かされ、さらにその魚を陸の動物が食べて生きているように、生者のみならず死者の役割をも含めた〈いのち〉の循環がおきているのである。生き物たちは、共存在する生者と死者とが生存の場に生み出す〈いのち〉の循環を増大させるように、子孫を増やし、そしてその姿形やはたらきを生存の場に合わせて柔軟に変えながら、互いの生死の間の繋がりの密度を高めていく。この生存の場における〈いのち〉の循環が増大していく現象を、私は「共存在の深化」と呼んできた。絶えず深化していく生存の場に自分の存在を位置づけることができる種は生き残り、できなければ絶滅してしまうと、私は考えている。このために生き物たちは自身の生き残りをかけて、「自分の存在はどうあるべきか」と生存の場に問いかけては、その答えを自分で発見して変化をすることを繰り返して生きているのである。問いかけを怠った種は、衰亡への道をたどる。共存在原理とは、共存在深化の原理なのである。
グローバル化した市場が地球規模に競争原理を拡大したことから、共存在原理によって深化してきた生き物たちとの間に急速に深刻な矛盾が生み出し、生き物たちに存在の危機をもたらしている。人間も、生存の場において生かされて生きていることから、その例外ではない。米国のサブプライムローン問題にその典型を見るように、その矛盾が弱者の存在の理(ことわり)が強者によって無視されるという形で格差を生み出し、世界的な経済危機となって顕在化してくるのである。さらに原因をたどると、人間の存在が生存の場に位置づけられていないために、担保価値を保証する場所的基盤がなく、バブルの生成と崩壊が繰り返されるである。生存の場における共存在原理を基盤とした経済的システムがつくられない限り、公的資金の一時的な注入で危機を長期的に回避できるものではない。これまで一極集中の形で運営されてきた世界経済が多極化していくことは、競争原理から共存在原理への移行を意味していると思われる。戦後の日本は絶えず答えを米国に求めて、その答えに向かって競争する形で成長してきた。そのためか、自分自身の存在を生存の場に問いかけては、その答えを創造的に発見しながら進む形が社会的につくられていない。しかしこれからは各国が自分の未來を自分で創造していかなければならず、このままでは日本が衰亡に向かうことは明らかである。共存在の思想に基づいて、市場経済の裏で活動しているNGOやNPOなどのはたらきを実質的に組み入れるようにしながら、共存在深化の場として社会を構想し、地球における共存在の深化に合致する経済システムを確立するための努力を早急に始めなければならない。

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