
資本主義経済では、多くの人々の価値観を反映して市場が変化していくことから、経済的危機は多分に人間の心の危機でもある。現在の経済の危機は、グローバル化して地球規模に広がった市場を動かしている人間が地球という生存の場の「喘ぎ」を無視していることと関係がある。具体的には、市場を無限に拡大できるという「進化の思想」によって経済が進められているのに対して、地球という生存の場は限られた狭い空間なのである。無限に拡大できる空間では、帝国主義の時代のように、競争原理によって強者が選択される「強者の理(ことわり)」が生まれる。一方、限られた空間では共存在原理がはたらくために、多様な生き物が、あたかもジャンケンのように、強者弱者の差別を超えて存在する。たとえば落ち葉が新しい芽生えを育み、それから始まる動植物の〈いのち〉の連鎖によって生まれる死骸が海に流されてプランクトンの〈いのち〉を生み、その死によって魚たちが生かされ、さらにその魚を陸の動物が食べて生きているように、生者のみならず死者の役割をも含めた〈いのち〉の循環がおきているのである。生き物たちは、共存在する生者と死者とが生存の場に生み出す〈いのち〉の循環を増大させるように、子孫を増やし、そしてその姿形やはたらきを生存の場に合わせて柔軟に変えながら、互いの生死の間の繋がりの密度を高めていく。この生存の場における〈いのち〉の循環が増大していく現象を、私は「共存在の深化」と呼んできた。絶えず深化していく生存の場に自分の存在を位置づけることができる種は生き残り、できなければ絶滅してしまうと、私は考えている。このために生き物たちは自身の生き残りをかけて、「自分の存在はどうあるべきか」と生存の場に問いかけては、その答えを自分で発見して変化をすることを繰り返して生きているのである。問いかけを怠った種は、衰亡への道をたどる。共存在原理とは、共存在深化の原理なのである。
グローバル化した市場が地球規模に競争原理を拡大したことから、共存在原理によって深化してきた生き物たちとの間に急速に深刻な矛盾が生み出し、生き物たちに存在の危機をもたらしている。人間も、生存の場において生かされて生きていることから、その例外ではない。米国のサブプライムローン問題にその典型を見るように、その矛盾が弱者の存在の理(ことわり)が強者によって無視されるという形で格差を生み出し、世界的な経済危機となって顕在化してくるのである。さらに原因をたどると、人間の存在が生存の場に位置づけられていないために、担保価値を保証する場所的基盤がなく、バブルの生成と崩壊が繰り返されるである。生存の場における共存在原理を基盤とした経済的システムがつくられない限り、公的資金の一時的な注入で危機を長期的に回避できるものではない。これまで一極集中の形で運営されてきた世界経済が多極化していくことは、競争原理から共存在原理への移行を意味していると思われる。戦後の日本は絶えず答えを米国に求めて、その答えに向かって競争する形で成長してきた。そのためか、自分自身の存在を生存の場に問いかけては、その答えを創造的に発見しながら進む形が社会的につくられていない。しかしこれからは各国が自分の未來を自分で創造していかなければならず、このままでは日本が衰亡に向かうことは明らかである。共存在の思想に基づいて、市場経済の裏で活動しているNGOやNPOなどのはたらきを実質的に組み入れるようにしながら、共存在深化の場として社会を構想し、地球における共存在の深化に合致する経済システムを確立するための努力を早急に始めなければならない。
