特定非営利活動法人 場の研究所 The "BA" Research Institute

投稿者:清水 博
更新日:2008年12月29日
清水 博

安田理深が福井相応学舎でおこなった唯識三十頌に関する連続講義のなかに次のようなことが書いてありました。これが私が考えている「自己の内なる超越的な他者」とは何か、そしてそのはたらきとは何かを説明する分かりやすい入り口になると思いました。もっとも、浄土真宗は法蔵菩薩が四十八の願を立てて修行をし、それが成就して阿弥陀仏になったという神話をもとにした仏教の宗派ですが、近代になって「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」という曽我量深(清沢満之の思想を継いで、さらに大きく発展させた浄土真宗大谷派の思想家)の有名な言葉によって、この神話の真の意味が明らかにされました。つまり、阿頼耶識は人間がそれぞれの無意識の領域に受け継いでもっている過去の経験の記憶の貯蔵庫に相当するものです。その中には自分自身のこれまでの人生における経験ばかりでなく、無始以来さまざまな祖先が経験してきた記憶も所蔵されていると考えられています。言葉を変えれば、DNAを通して伝えられる経験、社会的影響の形で伝えられる経験も含まれているのです。 このために阿頼耶識はいま生きている自己自身の意識を遙かに超える超越的な他者としてのはたらきをもっています。これが私が考えている「自己の内なる超越的な他者」です。この自己の内なる超越的な他者のはたらき(他力)によって自己の存在が救われると考えるのが、浄土真宗大谷派の近代的教義です。安田理深はこの曽我量深の弟子に相当する重要な思想家で、曽我の思想を継いで存在論的観点から浄土真宗の教義を考えた人です。安田理深は次のように語っています。

「阿弥陀仏に助けられるということはない。阿弥陀仏は助かった人なんだ。法蔵菩薩を離れたら、阿弥陀仏というものを見出してくる道がない。法蔵菩薩の中に阿弥陀仏があるんだ。法蔵菩薩の願というものは、主体だね、願心と。
 
四十八願の中に、四十八願を生み出す「信」がある。四十八願の中に四十八願の源泉があるんだ。それは「信」だ。それを「欲生」というわけです。本願の中に「欲生」というものが願を生み出しているんだ。それを「願心」というわけですね。
 
法蔵菩薩は阿頼耶識ではないことは誰でも知っているんですわ。けど、法蔵菩薩に触れずに阿頼耶識を見ておると、阿頼耶識の意味がよくわからん。また阿頼耶識を離れて法蔵菩薩を見ていると、法蔵菩薩は神話になってしまう。何か二つ合わせるとやね。法蔵菩薩にも無かったもの、また阿頼耶識にも無かったものが出てくる。曽我先生の言おうとしておられるのは、法蔵菩薩でも、阿頼耶識でもありゃせんのですわ。それらをそれらが照らすことによって、それらではない根元というものを明らかにしようとせられた。何かそこに照応ということがある。合い照らすという。二つのもので照らし合わすと、二つ以前のもの、二つでないもの、二つを超えて二つを成り立たせるようなものが明らかにされてくる。
 
阿頼耶縁起論というのが唯識の立場です。・・・諸法の実相は縁から生じたんだということが、それが実相なんだという考えだ。・・・象徴とか荘厳とか、願心荘厳と言われるのは縁起論の立場に立つから言えるので、存在が縁起として成り立っているというところに、初めて象徴というようなことが言えてくる。願心荘厳というようなことがね。」
 
 ここで分かるように阿頼耶識は、自己の内なる超越的な他者(西田幾多郎の「絶対の他」に相当するもの)です。浄土真宗の信仰では阿頼耶識を超越的な他者としての法蔵菩薩に照応させているのです。
 
ここで注目に値するのが、「それらをそれらが照らすことによって、それらではない根元というものを明らかにしようとせられた。何かそこに照応ということがある。合い照らすという。二つのもので照らし合わすと、二つ以前のもの、二つでないもの、二つを超えて二つを成り立たせるようなものが明らかにされてくる。」という安田理深の言葉ですが、私はこの「照応」の奥には「鍵と鍵穴との相互誘導合致」に相当すると考えています。

ここで「鍵」は自己のはたらき、「鍵穴」は他者のはたらきを自己に伝えてくる場に相当するものです。言い換えると、自己の内なる絶対の他者のはたらきが場を通じて、その場において存在している自己に伝えられるのです。さらに一歩深めて考えると、場が変われば、その変化に応じて、自己に伝えられてくる絶対の他者のはたらきも変わるっていくのです。ドラマが演じられたり、物語が語られたりすれば、それに応じて場が変わっていくために、一歩一歩、未來が開かれてくるのです。
 
このように自己のはたらきを「鍵」とすると、場を通じて伝えられてくる自己の内なる超越的な他者のはたらきは「鍵穴」として、空間的にも、時間的にも、その「鍵」を誘導合致的に包んでくるのはたらきをしていることになります。このことを時間的に見れば、超越的な他者のはたらきが未來の方から自己に近づいて、自己のはたらきを誘い出してくるということになるのです。

救済の根底には創造があり、また創造の根底には救済があります。その理由は、救済も、創造も、自己の内なる絶対の他者のはたらきによって生まれるからです。いま何の場を問題になっているかは、その場における自己の意志、希望、思いなどによって変わります。たとえば宗教的な信仰の場であるか、研究の場であるか、芸術の場であるか、截相(きりあい)の場であるかによって、阿頼耶識の照応のされ方が異なってくると、私は考えています。これは「鍵」の形に応じて、それと誘導合致的な関係にある「鍵穴」の形が変わることに相当します。そうではありますが、超越的な他者のはたらきが未來の方から自己に近づいてくるという自己と超越的な他者との照らし合い(照応)の基本的な形(鍵と鍵穴の相互誘導合致という形)は変わらないのです。
 
凡夫という鍵の形は、法蔵菩薩(他力)という鍵穴の形を引き出して、そしてその鍵穴に誘導されるのです。言い換えると、凡夫という形はすでに他力によって救われる形なのです。私自身は、ここでは信仰者として浄土真宗に向かっているのではなく、あくまでも〈いのち〉の研究者として、自己と自己の内なる超越者との関係に興味をもっているのです。つまり、宗教的救済や創造を生命現象として明らかにする立場に立っているわけです。

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