名詞ですか、それとも動詞ですか?

 春の地球には、喜びが一気に吹き出してきます。冬の寒さに抑えつけられてきた〈いのち〉が感情となって突出する spring です。木や草たちは、この地球に存在していることが嬉しいと、喜びの姿を見せてくれ、また小鳥たちは喜びの歌を歌ってくれます。それは生きものとして、地球に存在していることの喜びです。でも、よいことが何時もそうであるように、春の喜びは足早に去っていきます。“花びらは散る。花は散らない”と言った人がいますが・・・・・・

 

桜は名詞だろうか、それとも動詞なんだろうか。また、いま柔らかな新芽をいっぱいつけているこの楓は名詞だろうか、それとも動詞なんだろうか。心のはずみをおさえかねて、“ひさかたの光のどけき春の日に・・・・・・”などと歌ってきた歌人たちも、ここに一緒に含めて考えてみましょうか、名詞なのか、それとも動詞なのかと。

 

春の日を浴びて、こんな思いに迷い込んで、“そもそも春というものは本当に名詞だろうか、それとも本当は動詞ではないだろうか”と考えこんだことがありますか?スマホやパソコンのように、IT技術では、これらはみな、名詞として取り扱われます。辞書でもそうです。なぜ名詞なのでしょうか?本当に、そう決めつけてしまってもよいのでしょうか。そう決めてしまうと、とても大切なものを、こころの片隅におき忘れて、生きてしまうことにはならないでしょうか?


“あなたは名詞ですか、それとも動詞ですか?”と聞かれたら、どう答えればよいでしょうか。“私のことはわかりません。でも、私の名前は名詞です”。これは間違いありません。しかしその名前で呼ばれるあなた自身の存在も──「私」という主体性をもって、時には喜びの声をあげ、時には悲しみの涙を流しながら、二つとない〈いのち〉によって一度だけの人生を生きていくことも──、“名詞である”と決めてしまうのは言葉の暴力ではないか、そんな気がしませんか。「〈いのち〉があることが生きものと、その居場所のもっとも大切な特徴である。そしてその〈いのち〉は動詞である」ことを思うと、私たちが勝手に「あれは名詞である」と、決めつけているだけかも知れません。 

 

「〈いのち〉を映す」という写真は、ですから、生きものの写真に〈いのち〉という動詞の活きを映して撮るということなんですから。それじゃ、一体、どう考えればよいのでしょうか?取りあえずは、“名詞という着物をきた動詞である”と、考えておくことにしましょうか。でも、なぜこんなことが問題になるのでしょうか。それは、「居場所に〈いのち〉を与贈すると、奇跡が起きる」という趣旨のレポートが、新潟の清水義晴さんから送られて来たからです。

 

「奇跡の復活」

私が通っている介護施設に将棋仲間のおじいちゃんが居ることは前に書きましたが、この二ヶ月くらい、認知症が進んで、将棋になりませんでした。ところが、今日、どうしたことか、見事な手を打たれて、私が二敗したのです。それを職員に告げたところ、みんなおじいちゃんの復活を喜んで、管理者が特別に、いつもは出ないようなドーナツをおやつに、みんなに出してくれたのです。

 二ヶ月くらいの間、私は勝っても、「ハイ終わり!」とか、「ツンダヨ!」とか冷たい言葉は使わず、「ご指導いただきありがとうございました。」と頭を下げ、丁寧に接し、おじいちゃんのリズムで将棋につき合い続けてきたのでした。それが功を奏したのかどうか分かりませんが、清水博先生が言われる、〈いのち〉の居場所における〈いのち〉の与贈循環が起きたのだろうと振り返ってみて思われるのです。(清水義晴)

 

人間として存在することは、やはり、〈いのち〉のドラマを一緒に演じながら生きていくことです。〈いのち〉のドラマを演じながら生きていくこと、それが人間の存在なのです。どのようなドラマを演じるかは、あなたがそのドラマの舞台で、あなたの人生をどのように演じたいかによって決まるのです。一部の政治家やお役所の人たちのように、「認知症の人」という名詞の着物を人間に着せて、“はい、それで終わり”にしてしまうと、ドラマが消えて未来がなくなってしまいます。生きているものを上から見れば名詞、同じ舞台へ降りて見るならば動詞です。“弱さを誇りましょう”というパウロの言葉は、いつも同じ舞台で人びとを見て人生を演じている人の言葉です。また、この奇蹟を知らせて下さった義晴さんも、弱さを大切にして〈いのち〉のドラマを演じている人ですね。

2015.4.13