場のシンポジウム2016 基調講演「共に生きていく原理を求めて」(清水博)

2016年9月22日に行われた「場のシンポジウム2016」より。

清水博による基調講演「共に生きていく原理を求めて」の公開です。

 


基調講演テキスト

※ 基調講演のテキストを動画から文字起こししました。文字起こしは、元の言葉を100%近く使うことを原則としていますが、一部、分かりやすさ考慮して修正している部分もあります。(一部省略もあります。)

今回は、基調講演の時間的には2/3にあたる30分程度の文字起こしとなります。これは、講演の構成の前半になります。

後半に関しましては、もう少しお時間をいただければ、と思います。

動画と合わせて、テキストをご覧いただければ、理解の助けになるかと思います。

 

テキスト中「#」マークの行は、読みやすさのために追加したタイトル、サブタイトルです。

テキスト中「【】」で囲んだテキストは、動画で表示されているプレゼンテーション画面内にあるテキストです。また、「()」で、清水先生の講演時の動作を解説している箇所もあります。

 


場の研究所 場のシンポジウム2016

はじめに

私のお話は「共に生きていく原理を求めて」なのですが…。

 

今の世の中は、生きにくいと思うのです。

それは、非常に残念ながら人類が努力して作り上げてきた民主主義とか資本主義とか機械とかITとか言った社会の基盤そのものが人間にとってかながずしもプラスの働きをしていない…。

 

それで、そこに大きな問題が生まれてきまして…。

 

それは一体どういうことかと考えていくと、それは、元にある競争原理でことを進めていくという考えですね。

その元にあるのは、科学の考えだと思うんです。

そのあたりが、人間の存在を脅かすことになっていて、人間ていうのは、自分の作った文明によって自分が脅かされているという、残念な状態にあるわけです。

 

 

これをどういうふうにするか、というのが、私が今日、お話ししたいことです。

 

科学は、一つの領域しかない

科学というものを考えてみます。

 

科学というのは、自己がありまして、自己以外に自己と切れた世界があると…。

それで、科学は、自己の研究はしないです。

自己の外側の研究をするんですね。

 

で、その外側の世界に少しでも自己が混ざってくると、科学の研究というのは、無限定という状態になってしまって、何が起きているかよく分からないということになります。

これが、量子力学でいう不確定であったり、複雑系でいう不確定であったり…。

それは、自分が研究しているものの中に自分自身がちょっとでも混じるということによって起きるわけです。

 

それは、どうしてかと言うと…。

見ているものは、一つの領域しか無いんだ、と…、自分の外側しかない。

そう言うことが根本にあって世界を見ているわけですから、どうもそこに限界があるわけですね。

 

私は、ここを何とかしたいと思っております。

 

 

2つの領域の科学

ちょうど私は、20世紀の前半に大学に入ったんですね…。

皆さんとは、全く時代が違う人間でございまして…。

20世紀の前半の気持ちというのはですね、科学者は文明の冒険家である、とそういう気分があった訳です。

私は、今、生きておりますけど、文明の冒険家として、今までの科学が考えてきた領域以外に自己の領域、自分の内側の領域があると言うことを考えて、「2つの領域の科学を作ってみたい」と言うのが私が考えていることです。

 

これを単に混ぜてしまうと不確定になるので、不確定にならないように、どうすれば、ここの中(内在的世界)が見えてくるのか、と…。

 

で、このことが見えていけば…、今の文明を何か…。

共に生きていくことができる文明に変えることができるのではないかと思っているんです、ね…。

 

 

生活体(生きていくもの)に関する仮説

こう言う問題は、論理的に積み上げることができることではないので、まず、作業仮説から始まるんです。

作業仮説の発見をして、その作業仮説から今起こっている問題が全部説明できるかどうか…。

そう言う作業仮説を発見すると言う…。

ほんとは、科学の理論の創造っていうのは、作業仮説の発見なんです。

 

で、私が行った作業仮説…。

【1)生命は存在しない。存在しているのは<いのち>。】

「生命って言うものは存在しない」っていう仮説なんです、ね。

みなさん、驚かれるかもしれない。

「存在しているのは、<いのち>」。

で、<いのち>って言うのは何かと言うと。

存在を持続しようとする能動的な活きである。

 

皆さんに<いのち>があるって言うのは、皆さんが自分の存在を続けたいと思われるでしょ、そのために、何かポジティブに自分を進めていくわけです、ね。

それは、皆さんだけでなく、一匹の蚊が飛んできても、私が叩こうとしてもなかなか叩けない、と…。

蚊も<いのち>を持っているから、自分の存在を維持して行こうとする活きを持っているわけで、生き物だったら、みんなこう言うものを持っている。

 

そうやって生きているものは生活体と言います。

【2)生活体は<いのち>を生み出しつつ、その能動的な活きによって存在していく。】

生活体は(今度は、)<いのち>を自分で生み出しつつ、その能動的な活きによって存在を続けていく。

例えば、一人の人間も、何もしなかったら死んでしまうんですけど、ご飯食べたりとか、色々、活動しますね、そのことによって、自分の中に<いのち>が生まれてくる訳です。

その<いのち>の活きによって、未来に向かって生きていく、んです。

その<いのち>がですね…。

あのぉ、生まれるときは、いただいて生まれますよ。(いただかなければ生まれないんですけど…。)

一回そうなったら、自分の中で<いのち>を作りながら生きていくと。

 

企業も生活体ですから。

企業も自分の中で<いのち>を作りながら、その<いのち>によって生きていく。

で、この生活体と言うのは、人間だけでなくて、細胞も、(人間の作っている生活体、)家庭もそうですね、企業もそうですね、国家みたいなものもそうです。

生活をしようとしていくものです。

 

【3)生活体には、生み出した<いのち>を、自己が存在する居場所に与贈する与贈主体がある。】

それから、生活体は、生み出した<いのち>を、自分が存在してる居場所に与贈する与贈主体を持っている。

「与贈主体」とは新しい言葉です。(浄土真宗大谷派の三島多聞さんから、こう言う名前で呼んだらどうかと言われて、ああ確かにいい名前だなと…)

そう言う、単に主体ではなくて、与贈しようと言う主体である、と。

 

では、「与贈」と言うのは、どう言うことか、と…。

”贈与”の逆でして…。

贈与っていうのは、モノをあげるってことですね。

与贈っていうのは、自分があげたっていう痕跡が消えるようなあげ方。

だから、自分という名前を消すようなあげ方。

これが「与贈」です。

 

【4)複数の生活体から居場所に与贈された<いのち>の活きが一定の閾値を越えると、<いのち>の自己組織がおきて居場所の<いのち>が生成する。】

複数の生活体から居場所に与贈された<いのち>の活きが一定の閾値を越えると、<いのち>の自己組織と言う現象がおきて居場所の<いのち>が生成する。

 

これが4番目の仮説で、これだけのことがあったら、今の2領域の問題を考えていくことができる、と…。

そう言う風に私は思っている訳です。

 

 

仮説の説明(a)

【1)生命は存在しない。存在しているのは<いのち>。】

【2)生活体は<いのち>を生み出しつつ、その能動的な活きによって存在していく。】

生命は存在しない。存在しているのは<いのち>。

これは、どう言うこと、と。

これは、人が生きているのを外から見ていると、あいつは生命がある、と。

こう言う言い方をしてきたんですね。

外から見たときの活きです。

で、その時に、その生きているものがどこまで生きていくか、とか、生きてるものの悩みとか、そんなことは分からない訳です。

外から見てる…。

だけど、自分自身が生きていくってことになると、これは、今生きてるって言うことだけではなくて、生きていくと言う未来に向かう活きを生み出さないといけない訳ですね。

だから、生きていくと言うことの中には、やはり、未来に向かう能動的な活きと言うものがある、と。

それは、生命という概念の中には無いので、それを<いのち>と呼んだのです。

生命という概念自体は、名詞ですよ。

だけど、<いのち>というのは、活きですから。

名詞ではないんですね。

 

それから、その生命は、<いのち>を創り出しつつ能動的に生きていく、と。

だから、その<いのち>は、能動的で創造的なもの。

死線を越えて、前向きに生きていこうとする、それが<いのち>の活きですね。

 

「生命」というのは、外から生きているものを見た時に、「これは、物質とは違うんだ」と、そう言う一つの区別として出てきた概念ですから、まあ、そう言うものは無いと、ほんとは無い、と。

 

そうしますと、自己とはこう言うものだ、と言うことですね…。

一つの自己がありますと、そこに<いのち>が生まれている、と。

自分は、自分の外側の世界とも関係を持っている。

これ、外側の世界は、目に見えるから明在的な世界である。

それから、自分の内側には、目に見えない世界がある。

だけど、その世界の影響を非常に受ける訳ですねぇ。

で、それは暗在的な世界である、と。

例えば、「場」なんてものは、いったい目に見えますか?

目に見えないとなると、これは、暗在的な世界。

 

そう言うことになる訳です。

 

仮説の説明(b)

【3)生活体には、生み出した<いのち>を、自己が存在する居場所に与贈する与贈主体がある。】

生活体には、生み出した<いのち>を、自己が存在する居場所に与贈する与贈主体がある。

これを見ていただいたらよくわかるんですけど。

「家」というのは物質ですから、これだけでは<いのち>が無いんですね。

ここに「家族」が入ることによって、ここに「家庭」という生活体ができます。

一人が生きていくだけじゃなくて、何人かが一緒に生きていく、大きな生活体ですね。

そこ(家庭)へ、お父さんが、ケーキを買って帰ってくる…。

お父さんは、誰か特別な人に、ケーキを”贈与”しようと思っている訳じゃないんですね。

これを買っていくと「家族が喜ぶなあ」「家庭があったかくなるなあ」ということを楽しみにして持ってくる訳ですね。

「お父さんが買ってきてやった」「そうだろ?そうだろ?」とは言わないですね。

家族が喜ぶのを自分も喜ぶ訳です。

これが「与贈」です。

 

「与贈」とは、居場所のために<いのち>を使うことです。

自分の<いのち>は、自分が生きるだけじゃなくて、その<いのち>を居場所のためにも使うことができるという…。

…素晴らしいことですね。

居場所のために自分の<いのち>を使う。

で、そのことを誇りに思ったり、俺がやってやった、そういう風には言わないですね。

そういう風に言うのは、贈与であって、「与贈」では無いです。

 

 

仮説の説明(c)

【4)複数の生活体から居場所に与贈された<いのち>の活きが一定の閾値を越えると、<いのち>の自己組織がおきて居場所の<いのち>が生成する。】

最後の、複数の生活体から居場所に与贈された<いのち>の活きが、一定の閾値を越えると、<いのち>の自己組織がおきて居場所の<いのち>が生成する、と。

これは、いったいどう言うことか。

これは、要するに、一口に言えば「場ができる」と言うことなんです…。

 

\### 居場所に<いのち>が生まれる

家族の中でも向こう向いているような人がいて、与贈するのは、いつも決まった数だ。

と言うことになると、ここの居場所に与贈される<いのち>は少ない訳です。

言ってみれば、冷たい雰囲気ができる…。

 

これが、与贈が増えていって、どこかのレベルを超える(これが閾値と言う)と、実は、今度は、ここ(居場所)に<いのち>が生まれて、居場所の<いのち>が自己組織されて、(自己組織と言うのは、<いのち>が創り出される…)逆に、与贈している人に戻ってくる。

これが、<いのち>の与贈循環と言うのです。

 

それから、あったかい雰囲気が生まれて、居場所の<いのち>に包まれると言うことは、<いのち>の与贈循環が起きていることで、ちょうど、これは、レーザーに似ている訳です。

レーザーも光が少ししか出ていないときは、こう言う蛍光灯やランプと同じ光り方をする。

ところが、あるレベル以上に光を出すアトムが増えてくると、ちょうどこれと同じように、全体を包むようなレーザーの居場所の<いのち>に相当する居場所全体が光るようなことになる。

それがレーザー光ですね。

それと同じような現象が、実は、生命体においてもあるんだって言うことなんですよ。

 

…後で申し上げたいんだけれど…。

私が思っている人間の望みというのは、ここにあるんです。

今の社会は、こういう社会なんです。(「与贈が少ないとき」の図を指す)

それを、こういう社会にできないだろうか。(「与贈が増大していく」「ある閾値を超えると」の図を指す)

 

 

もう一度、自己

だいたい今のようなことを考えて、もう一度、自己ということを見ると。

自己の存在から離れた外側の世界。(確かに我々は、そういう世界と接触しています。)

しかし、自己の内側にも、<いのち>を創り出していたり、与贈したりする活きが、実は内側にある訳ですね。

外から見ていても良くわからないのだけれども…、本人にとってみれば、これは自覚できる訳です。

そうして、もしも、そこで、<いのち>の自己組織が起きますと、居場所というものができてくる、で、その居場所が、(自己組織がどんどん進んでいけば、)どんどん大きくなってくるんです。

これまでの文明は、自分の外側の世界を大きくすることだけを一生懸命になっているんですね。

だけど、これは、もう既に過去の問題なんです。

大切なことは、ここの世界(<いのち>が存在している内側の世界)をどこまで広げることができるか、ここがあるかどうかが、人類が救われるかどうかという、ポイントだと私は思います。

 

 

<いのち>の自己組織

…<いのち>の自己組織ってどういうことだと、言葉だけじゃわかんないんじゃ無い、ってことになると…。

こういう楽器を持った人がね、何人か集まって、何か即興的に、何か演奏しよう、と。

モーツアルトのあれがいいんじゃない、とか言って、演奏いたしますね。

…それで、これが、ちょうど、うまく、お互いの、演奏っていうのが、この、いる居場所に与贈していることです。

自分の<いのち>の活きを自分のためだけに使うんじゃなくて、居場所のために使う。

これが、演奏です。

この演奏が、うまく、合わさってくる。

何かそういう、てんで勝手にバラバラにやるんじゃなくて、何か繋がってくるという、繋がりの問題があって、それが(後で言いますけれども)繋がって来ますと、このことが居場所全体に与贈することになって、ここに<いのち>の自己組織というものが生まれてくるんです。

そうすると、楽団全体として、一緒に演奏しているっていう状態になってくるんですね。

それで楽団の演奏が、それぞれにまた、戻って来て、それに合わせてみなさんがまた演奏を続けていく、と。

…音楽というのは、こういうものだと思うんです。

みんなが一つにこういう、<いのち>の与贈循環を作りながら、そこで演奏している。

だから、複数の生活体から居場所に与贈された<いのち>の活きが一定の閾値を超えると、<いのち>の自己組織となって、楽団が生まれる、と。

こういうことが起きる訳です。

 

 

二領域的理論

…先ほど言った、2つの領域を一緒に取り扱う理論…、「相互誘導合致」という理論を私は考えているんですけど…。

これ(図を示して)は、ですね、「居場所」と、それから、「居場所の中で活くもの」ですね。

これが、鍵穴と鍵の関係だっていう風に考えるんですね。

居場所(鍵穴)の中で活くもの(鍵)が、鍵穴になるべく合わせようとする、と、鍵穴の方も鍵に合わせようという活きが生まれて来て、両方から相手に合わせようという風な活きになる。

そうすると、最終的には両方が合致する。

異なる論理。

これ、ロジックが異なっていますけど、異なりながら、この2つのものが矛盾がない状態になる、と。

「自ずからと自ら」と、日本では言いますけれど、これ(鍵)が自らとすれば、これ(鍵穴)は自ずから、という。

これが、合致した状態ができる、ということですね。

…本当は、二領域の科学の根本がなくちゃいけないんで、こうとこから科学を作っていく必要がある訳です。

 

 

<いのち>の与贈循環

で、今のことを振り返りますと…。

私たちは今、いい状態にあると…。

…<いのち>の与贈循環によって、居場所と繋がっている。

居場所の<いのち>に包まれている。(家族が包まれているように包まれている。)

…そういう状態で、家族に何かプレゼントするということは、家族と居場所は繋がっていますから、居場所にプレゼントすることですね。

 

…私の自宅に犬がおりまして、可愛がっていた訳です…。

スーパーへ行きますと、人間のことは、まず、第二ですね。

第一に犬が喜ぶものは何かないかって、こう探す訳です。(笑)

犬の機嫌を取ろうって訳じゃないんだけど、犬が嬉しがるってことは、家族が喜ぶんですね、家庭が暖かくなる…。

そういう意味で、これは、ある人にプレゼントするような形なんだけれども、実は、居場所全体にプレゼントする。

こういう与贈の仕方ってのはありますよ。

 

それで、そのことと、それぞれが与贈しながら(つまり、与贈主体を持っていて)、それが自分の未来に向かって自分の<いのち>を使っていく、ということで、自己組織される未来の居場所…。

それから、自分が、また居場所の中で、また与贈すると…。

こういうことを<いのち>の与贈循環と言います。

<いのち>の与贈循環によって、この中に一つのドラマが生まれてくる、という、こういう状態になります。

 

 

仮説から言えること

 

 

 

 

 

 

 

…仮説から言えることをまとめさせていただきますと…。

 

与贈が少ないとき。

自己の<いのち>だけが活く一領域的世界を生きていく。

(辛いですね。)

 

与贈が多いとき。

自己の<いのち>と自己を包む(自己組織された)居場所の<いのち>と繋がって活く二領域世界を生きていく。

 

この居場所の<いのち>に包まれるってことが、場に包まれるっていう風に、我々が言うことです。

 

それで、二領域的世界では、生活体の<いのち>の活き(鍵)と居場所の<いのち>の活き(鍵穴)が相互に誘導合致して整合的に繋がることによって、居場所に「<いのち>の与贈循環」が生成して、生活体が共に生きていく「与贈共同体」が生まれる。

こういうような与贈共同体みたいなことをライプニッツが、”包まれつつ包み、包みつつ包まれる”と表現しています。

これは、池田善昭さん(ライプニッツの研究者)が、繰り返し言われていることです。

 

与贈共同体では、<いのち>の与贈循環によって居場所を「舞台」にした「即興劇」が生まれ、生活体はその「役者」として、唯一の存在としての自己の存在を与贈によって表現し始める。

 

こういう風に、まあ一種の寸劇が生まれます、ね。

家庭なんかでも、家庭のちょっとしたドラマが生まれて、続いていく、と。

 

…ここで非常に大事なことは、ですね、<いのち>の自己組織が起きるときには、次の制限が必要な訳です。(これを拘束条件と言います。)

  

【<いのち>の自己組織の拘束条件:】

居場所の<いのち>が自己組織されるためには、

居場所の空間が限定されていること、

(空間の中で起きる出来事の)筋道が限定されていること、

こういうことがあったときに、<いのち>の自己組織が起きます。

 

家庭の場合でも、家庭でみんなが喋っていることが、内容が違うことをワーワー喋っているだけだったら、家庭の雰囲気になりませんね。

そこに一つの筋道が生まれてくることが大事です。

 

それから、家庭という空間が限定されてることが大事で、それが、突然、こう、台風で壁が倒れちゃった、と言ったら、とてもそこで<いのち>が生まれる状態になってないですね。

 

(後で話される影山さんのクルミドコーヒーでは、この<いのち>の自己組織の拘束条件がちゃんと守られているんですね。ブンジという地域通貨ですね。地域通貨があるってことは空間性を限定していくんですね。それが、成功する一つのやり方ではないかという気がするんです。)

 

 

<前半終了>

 近日、後半を追加予定です。