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「忘れられた日本人」から学んだこと

 宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)を読んでいます。西日本と、東日本では村落の出来事の処理の仕方が違うと言っています。西日本では早く隠居して共同作業などのことは、若い現役世代に任せ、村落内におきる難しい問題は年寄りが集まって知恵を出し合って、黙って処理をしていたということです。これに対して東日本では、年寄りが歳をとっても実権を握っていたために、村落内のできごとの処理は下手であったようです。このこととどこかで関係しているのではないかと思うことは、おたがいさまの運動は、主として中部地方より西で広くおこなわれているということです。おたがいさまは、新しい集落運動なのです。

 

 

 この『忘れられた日本人』から言えることは、「意味を深めると論理が変わる」ということです。論理から出発すると、衝突します。そういうときに、結論をすぐ求めるのではなく、問題に関係のある出来事をいろいろ話していくのです。十分話をし、またそれを聞いていく内に、問題の深い意味が次第に共有されてきます。そのために多くの出来事を共有している年寄りが集まって時間をかけて過去の出来事を話し合っていくのです。すると、問題の深い意味が次第に共有されて、自然に落ち着くところへ落ち着くのです。意味の共有は浅い意味から始まるのではなく、深い意味から始まるのです。私は、これを「相互誘導合致は深いレベルから浅いレベルへ」と考えています。これを相互誘導合致の定義と呼ぶことにします。この順序をひっくり返すと、自己中心的な議論が始ってしまうのです。このひっくり返しの典型がトランプさんです。始めから浅いレベルの自己中心的な議論から始めるわけですね。地球の未来が心配です。

 

  宮本常一の『忘れられた日本人』から私なりに掴んだ真理は、「意味を深めれば論理も変わる」ということでした。この「論理」を「美」や「真実」と置き換えてみることもできると思います。美について考えてみると、「美とは何か」ということは、「生きるところすべてに美がある」と考えることができるほど、大変、巾の広い問題です。そこで、主客分離的な対象美と、場のものとなることによって主客非分離的に生まれる調和美とに分けて、ここでは後者を考えることにします。意味を深めると云うことは、仏教の唯識論の考えを使うと、自己の無意識の置き場を利己的な末那識から、さらにその奥にある利己利他的な(共存在的な)阿頼耶識へ移していくと云うことです。そして阿頼耶識の活きに包まれて感じ取る美が調和美です。

 

 柳宗悦は民芸美の原理を、法蔵菩薩が立てた四十八の本願の内の第四願「無有好醜の願」に求めました。そして真宗の近代化に非常に大きな仕事をした曽我量深は「法蔵菩薩とは阿頼耶識のことである」という重要な発見をしています。このことを組み合わせると、存在の意味を深めて、阿頼耶識が開かれることによって、生成する調和美が民芸美であるということになります。

 同様なことは真実についても言えるのではないかと思います。さらにそれらを総合してみると、「意味を深めることによって人生も変わる」ということにもなります。もしも、何かの不幸にあったときに、すぐに結論を出さず、このことを覚えておくと、生きていく意味を与えられると思います。上のことから分かるように、意味を深めると云うことは、生きものと共に生きていく喜びを発見するということです。その生きものがたとえ雑草であっても、一生懸命生きていくものと共に生きていくことの喜びを発見するということなのです。

 

 高いビルの屋上に上がれば、周囲を広く見渡すことができます。でも、その屋上を支えている多くの階を見ることはできません。私たちの意識もこれと同じで、本当は大変重要なことなのに、意識の陰となって分からないことがあります。

 有名な Gone with the Wind の世界のように、1960年から約18年間続いた日本経済の高度成長の風によって、私たちの視界から消えてしまった世界が日本にもあります。それが『忘れられた日本人』が生きていた日本の歴史の陰になっている「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」の世界です。

 宮本常一は「いったい進歩というのは何であろうか。失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある」と言っています。

 私たちが「進歩という迷信」から自由になることが、本当に必要な時代が来ているのではないでしょうか。槍ヶ岳の頂上だけが槍ヶ岳でなく、その麓にある一つの小石も、一本の樹も槍ヶ岳なのです。