場の研究所メールニュース 2017年1月号

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場の研究所 定例勉強会のご案内

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ホームページ:http://www.banokenkyujo.org/

 

 

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「〈いのち〉を居場所に与贈して〈いのち〉の与贈循環を生み出そう」

〈いのち〉とは「存在を続けようとする能動的な活き」である。

                         (清水博)

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2016年も残り僅かとなりました。

 

本年は研究所の引っ越しも有り、大きな節目の年となりました。

 

お陰さまで、活動も一歩一歩ですが、ホームページの改良もふくめ

前進できたことに感謝しております。

 

2017年も皆さまのご支援を賜りながら、これからの時代の指針を共に

創りあげて行きたいと考えています。

 

今後ともよろしくお願いいたします。

 

◎12月は勉強会テーマ:

「場の研究所の今年の総括と来年の展開について」を、

12月16日(金曜)に開催しました。

 

15時から17時までは、ワイガヤということで、

初めて参加された方々3名いらっしゃったこともあり、

場の研究所のここ2年くらいの活動内容の紹介

をしながら、場の考え方を説明。

 

特に、勉強会や共存在企業研究会のダイジェスト、

シンポジウムなどでのキーとなる考え方の紹介をしました。

 

実際の写真や資料を使いましたので、理解されたと思います。

 

このプレゼン内容は前川理事がアレンジして説明いたしました。

 

17時からは、実績のレビュ-として再度まとめて説明。

 

説明内容:

1.理事会・総会

2.講演会

3.共存在企業研究会及びシンポジウム(場の研究所主催)

4.場の勉強会 

5.与贈の会

6.著書 

7.メールニュース 

8.ホームページ

9.場の研究所の引っ越し

10.場の研究所のスケジュール

 

10番目にある、スケジュールの中で、2017年も勉強会、

シンポジウムなど今年と基本同じ、内容を展開する予定を

報告しました。

 

特に追加情報としては、下北沢にあるダーウィンルームさん

との共創会を検討する話もいたしました。

 

その後、清水先生からの資料をベースに議論して行きました。

 

清水先生の資料:共存在原理と与贈共同体

(少々長いですが、当日の資料をそのまま載せます)

 

 マスコミの予想に反して、トランプ氏が米国の

次期大統領に選出された原因が明らかになってきた。

 

それは、資本主義経済のグローバル化が実体を超えて

進んだために、近代的な国民国家 nation state の

主体となってそれまで国家を支えてきた中流の人々の

存在が圧迫されて国家の基盤が傾いたことによって

おきた国民国家のグローバル化経済に対する揺り戻し

であった。

 

近代的な国民国家の揺り戻しを暗示するような変化が、

英国を始め他でも幾つか見られるし、今後もそのような

動きが増えていくと思われる。

 

 21世紀は地球文明の時代、すなわち地球全体を一つの

システムと考えなければならない時代である。

 

しかし、この21世紀のシステム論は、20世紀の

システム論──近代的な国民国家を基盤にした民主主義の

多数決原理と資本主義経済の競争原理──とは、全く

異なるものであることは明らかである。

 

少し考えてみれば分かるが、21世紀には多様性と主体性

が重要なテーマになる。

 

そこで必要になるのは力の弱いものの存在への配慮である。

 

多数決原理の裏には競争原理があるから、存在しているものの

主体性が競争原理を超えて重んじられなければならないのである。

 

この点に十分な配慮がされないまま、20世紀のシステム論が

そのまま21世紀に使われてきたために、内部矛盾が生まれて

行き詰まりが生じたのである。

 

つまり必要なのは、旧いシステム論を乗り越える具体的な

方法である。

 

 20世紀の国民国家の基盤は近代社会であり、その

システム論は近代における「近代人の発見」(自我の発見)

と結びついて発展してきたものである。

 

したがって、この人間像を変えないかぎり、その上に

つくられてきたシステム論を変えることはできない。

 

地球文明の時代の人間像は、人間ばかりでなく、

人間とそれ以外の多様な生きものとの共存在が自然に

できるものでなければならない。

 

一つの時代の人間像を決めている活きは一体何だろうか。

 

日本の近代社会に住んでいる自分自身のことを考えてみると、

私が日常的に生活しているときに、「この振る舞いは

近代人らしいだろうか?」などと、自分の行為を一々

自分の意識で判断しながら生きているわけではない。

 

近代社会という居場所のなかに生きていることによって、

無意識のうちに近代人として振る舞っているのである。

 

従って人間像としての近代人を越えて地球文明の人間に

なることは、たとえ小さくまた不完全であっても、

共存在の居場所をつくって、そこで無意識のレベルから

共存在的に振る舞うことができる状態をつくり

ださなければならないことになる。

 

 近代社会というシステムでは、個人は互いに分離している。

 

またそればかりでなく、その個人の存在が居場所とも切れて、

「我とそれ」の関係になっているから、個人は互いに独立している。

 

そしてその個人の存在の間には競争原理がはたらいているから、

その近代社会というシステムのなかで生きていくためには、

基本的に独立して相互に競争しなければならないという原理に

縛られてしまうことになる。

 

しかし21世紀になって、それまで社会を主体的に担ってきた

人々が大量に弱者となって、社会の基盤としてはたらいてきた

競争原理を否定する活きをしているために、内部矛盾が生まれ、

どうしても競争原理に代わる共存在原理を柱にする新しい時代の

人間像を発見することが必要になってきているのである。

 

そのためには、無意識のレベルから変わらなければならない。

 

 

 人間の無意識を系統的に詳しく研究してきたのは仏教の

唯識論しかない。

 

それによると、人間の意識の奥底には、無意識がはたらいていて

意識の活きをコントロールしている。

 

しかしその活き方は一方的で、意識の方から逆に無意識を

コントロールすることはできない。

 

また無意識は性質の異なる二つの層からできており、

表層的な無意識を末那識(まなしき)、深層の無意識を

阿頼耶識(あらやしき)という。

 

末那識の活きは利己的であるが、それによって人間は

自立することができる。

 

また阿頼耶識の活きは利己利他的(共存在的)であるが、

それは末那識の活きを通して、それを超えるという

形でしか現われることがない。

 

 末那識の影響を強く受けているのが近代人の意識であるが、

多くの弱者との共存在という現実的な課題が、阿頼耶識に

支えられた意識をもつ新しい人間像の出現を必要として

いるのである。

 

ここで誤解を避けるために指摘しておきたいことは、

20世紀のシステム論を基盤にしたこれまでの社会では、

強者が弱者を支えるという構図になっていたが、そのことが

破綻したのが現状であり、それとは別の共存在的な方法が

必要になっているのである。

 

その方法は、強者も弱者も共に居場所につながる

「生活のドラマ」の役者として、それぞれ存在を主体的に

表現することができるように、互いに支え合うという方法である。

 

言い換えると、21世紀の共存在社会のシステム論にはいわゆる

「おたがいさま」の関係が必要になるのである。

 

 共存在社会のシステム論が近代社会のシステム論と

異なるのは、後者の深層基盤となってきた末那識よりも、

さらに深層にある阿頼耶識の活きに基盤を置かなければ

ならない点である。

 

これは末那識の活きを捨てて阿頼耶識の活きを選択する

ということではなく、阿頼耶識に達するまで無意識の活きを

深めるということである。

 

結論から言えば、そのために必要な行為は与贈──見返りを

求めずに、自己の活きを居場所に差し出すこと──である。

 

だから、おたがいさまがつくる共存在社会は与贈に

よって生まれる与贈共同体なのである。

 

この内容に対して、いくつか意見が出ましたので、紹介します。

 

 

<勉強会での意見・コメント>

 

・グローバル化した社会がこわれつつある。 

 

英国、アメリカ・・・経済が社会や政治をささえてきたのが、逆転。

 

・地球を一つとして捉えるべき。20世紀のシステム論は成立しない。

 21世紀は多様性と主体性が重要になる。

 弱者が生きていける世の中へ!

 

・小さな領域での存在の考え方。クルミドコーヒーの様なもの。

 弱者との共存在が重要。

 

・地球文明の時代である21世紀を、20世紀のように利己的な

 末那識の活きだけで生きていくのは難しい。

 末那識に留まるのではなく、さらにその深層にある共存在的な

 阿頼耶識の活きが必要。

 

・相撲で言えば、末那識の活きで相撲をとって、すでに

 土俵の外に出ているのに、まだ残った!残った!はない。

(皆さんが共感を呼んだ言葉:土俵の内外のない共創が必要では?)

 

・身体が存在して居る場に他者の身体も存在。

 内側から一緒になる。

 他者にあげているように見えるが、場に与贈している。

 与贈主体の目は内側にある。

 

ここで、清水先生の唯識の説明が入りました。

 

「人間が何かを認識するという行為を、唯識論は次のように

四段階に考えて四分と呼んでいます。

 

先ず認識の対象になるもの相分(そうぶん)

があって、それを見ている自己すなわち見分(けんぶん)があり、

相分と見分の間には、「見られている見ている」という客と主の

関係が成り立っていると考えます。

 

私たちが、次々とフェイスブックを見て「いいね」とボタンを

押している状態がこれです。

 

しかしそのようにフェイスブックを認識してボタンを押している

自己をさらに見ている(自覚している)自己があり、それを

自証分(じしょうぶん)と言います。

 

ポケモン・ゴーなどに夢中になっているときには、この自証分が

はたらいていませんから事故にあったりします。

 

しかし唯識論によると、自己の活きは自証分で終わりではなく、

その自証分の活きをさらに見ている自己があり、これを

証自証分(しょうじしょうぶん)と名づけています。

 

これは認識している自己の行為がもっている真実味を広い人生の

居場所から捉えていることに相当します。

 

学者というものは、この証自証分による反省を経た真実を

世に知らせる活きをしなければならないのですが、最近は

業績を積み上げるのに忙しく、そのようなことをする人が

減ってきたと言われています。」

 

・良い学校に入れば、良い大学にはいって、良い企業に

 はいって、老後も楽に生きる。

 このおどしにあおられて生きているのはおかしいのでは?

 普通の人になってほしいということはマイナスでは?

 

・経済を引っ張るのは普通の人で無く、ユニークな

 メンバーがいないと、みんな同じでは行き詰まるのでは?

 これからは唯一の人が経済を引っ張るのでは?

 

・自分に与えられた、いのちを大切に生きる。

 他人もそうであると理解すること。

 

 

以上のように、密なディスカッションとなり、

有意義な勉強会でした。

 

ご参加頂いた方々有り難うございました。

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■勉強会のご案内

 

テーマ:「内側から見た自分と外側から見た自分」

    (情報の氾濫と浦島太郎)

 

日時:1月20日(金曜)17時から19時30分までの予定です。

 

2017年最初の勉強会ですので、清水先生を中心に、

新しい時代にむけて、場の議論をしたいと思います。

 

従来通り15時からワイガヤ的に議論を進めて、

17時より勉強会を行います。

 

場所:特定非営利活動法人 場の研究所

 

住所:〒170-0004 東京都豊島区北大塚 1-24-3

 

Email:info@banokenkyujo.org

 

参加費:会員…5,000円 非会員…6,000円

 

申し込みについては、毎回予約をお願いいたします。

  (なお、飛び入りのお断りはしておりません。)

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■編集後記

 今回は初めての参加の方も多く、初歩的な部分も説明し、

現在の世界的な問題を捉えて、場の理論での分析、

今後の方向性の議論出来ました。

 

また、質問や考え方の提案も活発で、場の理論の基礎的な

考えのレベル合わせもできたと思います。

 

とても参加して良かったと言う声をいただきました。

 

 2017年1月は従来通り第3金曜日の1月20日(金曜)

 に開催いたします。

 

 よろしくお願いいたします。

 

 

特定非営利活動法人 場の研究所

住所:〒170-0004 東京都豊島区北大塚 1-24-3

電話・FAX:03-5980-7222

Email:info@banokenkyujo.org

ホームページ:http://www.banokenkyujo.org