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場の研究所メールニュース 2018年2月号

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場の研究所 定例勉強会のご案内

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ホームページ:http://www.banokenkyujo.org/

 

 

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「〈いのち〉を居場所に与贈して〈いのち〉の与贈循環を生み出そう」

〈いのち〉とは「存在を続けようとする能動的な活き」である。

                         (清水博)

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2018日年2月のメールニュースをお届けいたします。

 

◎2018年1月は従来の通り場の研究所で1月19日(金)に勉強会を開催いたしました。

15時から、前川理事と場の研究所のスタッフ小林から先月の勉強会の復習として、清水先生が説明された内容を紹介。参加の方々との議論を進め、理解度を向上させました。17時から清水先生の勉強会に入りました。そして、最後に以前勉強会の講師をお願いした、元NECの松田雄馬博士に黒田亮『続 勘の研究』の一部を丁寧にご紹介いただきました。

勉強会の内容ダイジェスト:清水先生の勉強会の内容

◎生活体の存在とその自覚

「存在とは何か」という謎は、ギリシャ時代から哲学の推進力でした。そしてプラトンは存在しているものは形相(形をつくる因)と質料(共通の材料)からできていると考え、その考えがアリストテレスに受け継がれて広められて、西洋における自然の考え方の基本をつくりました。実際、物理科学は、生物を含むさまざまな物を質料から数学的厳密性を重んじながら実証的に説明する客観的な方法を確立してきたわけで、実際、その上に現在の生命科学もつくられています。

しかしこのような考え方によって、一度しか宇宙に現れることのない私たちの存在や人間の歴史のようなものまでを決めることができるのでしょうか、それは自明ではありません。仮に、もしもできないとすれば、宇宙にはさらに別の存在の原理があることになり、それは何故なのかを問われなければならないことになるばかりでなく、人間は何を信じて進めばよいかが分からなくなります。このようなことから、第一次世界大戦の後で、存在の哲学は人間にとって非常に大きな問題となってきたのです。

そこで存在するものすべてに共通する質料にまで遡る前に、現実の現象そのものの法則性をしっかり捉えることによって存在に迫ろうとする現象学がフッサールによって考えられ、その後、その現象学の考えがハイデッガーによって存在の問題一般に結びつけられ、存在者(存在している者)と存在(存在という活き)とが区別されて、自己の存在(現存在)をその存在によって歴史的に生まれる時間と結びつけて考える「存在と時間」という考えが提唱されました。

ハイデッガーの『存在と時間』は20世紀の哲学界に大きな衝撃と影響を与えましたが、自己の存在についての考え方を広げて、他者の存在に拡張するところで行き詰まっています。このままでは、社会や地球の歴史の問題に活用できないことになります。

生命という質料の上で人間や生きものの存在を考える代わりに、存在を継続しようとする能動的な活きを〈いのち〉と名づけて、その〈いのち〉の自己組織を含む与贈循環を「存在と時間」の代わりに考えることによって、さらに先を考えようとする現象論的な考え方が清水 博によって「〈いのち〉の科学」と称して提唱されています。

[注:質料(しつりよう)は古代ギリシアの概念で、形式をもたない材料が、形式を与えられることで初めてものとして成り立つ、と考えるとき、その素材、材料のことをいう。]

この裏にあるのは、現在の「時間」は、古典天文学によって導入された数学的な概念であり、存在ということを本格的に考えてみると、生きものの世界には、誕生から死へ向かう〈いのち〉の活きと、居場所におけるその自己組織的な与贈循環があるだけではないかという考えです。このようなことは生物進化の本質を考えたり、これからの地球文明を考えたりする上で、極めて重要です。

 このようなことを、特に現象論的に確かめる上で、ギリシャの影響から離れて行われた東洋で行われた仏教の唯識論の思索がどのように進んだかは非常に参考になります。安田理深の『唯識論講義 上下』は、西洋の哲学も少し意識して書かれた唯識論の本ですので、比較しながら考える上でも、とてもよい本です。

唯識論では、有るということ、すなわち存在は意識の活きであり、その活きを便宜上、意識を向けるもの「相分」の活きと意識をするもの「見分」の活きに分けて考えることができると考えます。安田は、この相分と見分は、フッサールの現象学のノエマ(意識を向けるもの)とノエシス(志向する意識の活き)にかなりよく対応していると指摘しています。つまり、私たちの意識そのものの活きから、私たちの存在が生まれていると結論されるのです。

そこでどのようにして、意識の活きに歴史的な時間あるいは、相分と見分を巡る循環的な活きが、どのようにして生まれるかを考えてみることになります。清水の「〈いのち〉のドラマ」という現象論的な理論では、相分が「舞台」(居場所)、見分が「役者」」ということになり、役者たちの〈いのち〉の舞台への与贈によって、役者たちは舞台を共有してドラマを共演できること、つまり時間を共有して共に歴史をつくることができるようになります。

そこで重要なことは、〈いのち〉の居場所への与贈による居場所に共有とそのドラマということになりますが、それを具体的に知る上で、場の文化と言われる伝統的な日本文化は、まさにその宝庫です。今回は、その有力で具体的な手がかりとして、黒田亮の『勘の研究』と、『続 勘の研究』をテキストに選んで勉強会をいたしました。

何れもこれからの私たちに密着する問題でありながら、20世紀の知が解決を残してきた存在と〈いのち〉に関係する深い問題ですので、このニュースで解説することはできませんが、勉強会でのできごとの指摘をさせていただきます。

まず、存在の問題をハイデッガーとは異なる「〈いのち〉のドラマ」という形で捉えようとして、『勘の研究』を参考にしていくと、その基本になる新しい法則として「逆対応的合致」があるという指摘が清水

博からなされた。

黒田亮が『続 勘の研究』で世界を自己の生命圏(身体的に非分離な範囲)でおきるできごとと、それから離れた範囲で起きるできごとに分けて考えて、科学は非生命圏のできごとに当てはまるが、生命圏でのできごとは別の記述の方法があると指摘している。「逆対応的合致」は、このような場合にも活動できると考えられる。

『続 勘の研究』は人間の知的な能力が同時に多面的にはたらくことができるのみでなく、また人間の〈いのち〉の活きから、学習を切り離さずに人間の全体的な能力のドラマ的進歩として総合的に捉えており、学習者に学習のあり方を教える本としても興味深いことが松田雄馬氏から指摘された。

(文責:場の研究所、清水 博:加筆)----------------------------------------------------------

 

 

■勉強会のご案内

日時:2018年2月16日(金曜日)大塚の場の研究所で行います。

17時から19時30分までの予定です。

テーマ:仮題「続・逆対応的合致」について清水先生にお話をしていただきます。

参考文献:黒田亮『勘の研究』、『続 勘の研究』(講談社学術文庫)マルティン・ハイデッガーほか『ハイデッガー カッセル講演』(平凡社)「訳者あとがき」から読んで、ハイデッガーの「カッセル講演」に進むと、分かりやすい。従来通り15時からワイガヤ的に議論を進めて、17時より勉強会を行います。

場所:特定非営利活動法人 場の研究所住所:〒170-0004

東京都豊島区北大塚

1-24-3Email:info@banokenkyujo.org

参加費:会員…5,000円 非会員…6,000円申し込みについては、毎回予約をお願いいたします。 

(なお、飛び入りのお断りはしておりません。)

■編集後記

新年の1月は場の研究所で勉強会を実施いたしました。

多くの方に参加いただき、感謝いたします。

前半部分では、12月の勉強会の内容をもう少しブレークダウンした形で、参加されなかった方にも、理解度を向上していただこうと、パワーポイントを交えて説明いたしました。

清水先生の講演も、新しい「逆対応的合致」という言葉も提示されましたが、ご理解いただけたかと思います。

なお、今回は最後に松田雄馬博士から、勘の研究の一部を紹介いただき感謝いたします。

2月は従来通り第3金曜日の16日に場の研究所で開催します。

みなさまのご参加のほど、よろしくお願いいたします。

特定非営利活動法人 場の研究所住所:〒170-0004

東京都豊島区北大塚

1-24-3電話・FAX:03-5980-7222Email:info@banokenkyujo.orgホームページ:http://www.banokenkyujo.org