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場の研究所メールニュース 2018年4月号

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場の研究所 定例勉強会のご案内 

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  ホームページ:http://www.banokenkyujo.org/ 

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「〈いのち〉を居場所に与贈して〈いのち〉の与贈循環を生み出そう」 

〈いのち〉とは「存在を続けようとする能動的な活き」である。 

                         (清水博) 

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2018日年4月のメールニュースをお届けいたします。   

 

◎2018年3月は従来の通り場の研究所で3月16日(金)
に勉強会を開催いたしました。


15時から、前川理事と場の研究所のスタッフ小林で先月の勉強会での清水先生からの宿題について説明をしました。というのは、先月は清水先生が欠席されたこともあり、宿題がでて、参加者全員で議論をしたので、その内容を紹介。その中で今回は、土井善晴様が参加されて日本料理における、場の理論の話をしてくださいました。日本料理が進化ではなく深化していくのが本来であるという点は、清水先生とも意見が一致して大変有意義な先行ミーティングになりました。

17時からは清水先生から、前回の宿題の回答にも関連する内容で、講義がありました。

★勉強会の内容


◎清水先生からの講義(配布の資料より:なお、前回先生がお休みでしたので、今回の資料は多めになっております。)

テーマ:「認識の時代から存在の時代へ 」

“与贈には、科学至上主義を乗り越える力がある。”


◎エールリッヒ・フロム:From Having to Being

                    (所有の時代から、存在の時代へ)
◎認識と所有の時代:
 (アトミズムの影響を受け、人間を平均可能な粒子と見て)

平均値と差異で人間の精神と身体と社会を数値的に表現科学と資本主義経済を支える人間観(本格的理論で対応)


◎存在と歴史の時代:
場所的世界に位置づけられた唯一で多様な生活体

 Heideggerが主張した死に向かって自己の道を進む存在者

 (志向性を現象学・解釈学的に取り扱う→存在=歴史的時間)

 

◎生活体=現存在←場所的世界(世界内的存在In-der-Welt-sein)

       ・場所的世界 → 自己に存在の見当識

(存在了解)を与える。その志向性と生活史により平均化できない場所的存在者

              ・生活史 → 存在の世界(場所的世界)の地平を広げる。

 

◎場所的世界の居場所化(←〈いのち〉の自己組織 ←〈いのち〉の与贈)

 生活体がその〈いのち〉を自己が存在している場所的世界に与贈する。

→ 場所的世界に場所的〈いのち〉が生まれ、それが生活体に与贈される。

場所的世界を居場所とし、生活体自身はその居場所に位置づけられた
存在として自身の意識に映されてくる。
(安田理深『唯識論講義』春秋社)

 

注:居場所は個体の内部に識として生まれ、個体を包んで生活体としての意識をその個体に与えている。居場所は個体を包む〈いのち〉の活きであり、空間ではない。

〈いのち〉は生活体が生成する「自己の存在を継続していく能動的な活き」
生活体が場所的世界に与贈した〈いのち〉だから、そこで自己組織がおきる。

 

◎生活体の生活とは、場所的世界におけるその「生活のドラマ」: 

居場所は生活の舞台となり、生活体が役者となって、生活のドラマを歴史的に演じていく。生活体は生活のドラマを演じていこうとする志向性を個々に持ち、かつ場所的世界におけるその誕生から死までの歴史を引きずっていくため、その存在は
唯一でかつ主体的。粒としてアトム化したり、平均化したりすることはできず、科学的理論は必要だが、それだけでは対応し切れない。

 

◎相互誘導合致の法則
(科学的自己組織則に相当する生活体の自己組織則)
 生活体から場所的世界に与贈される〈いのち〉が「〈いのち〉の閾値」以上になる 

と、〈いのち〉の自己組織がおきて〈いのち〉が場所的世界に生まれ、場所的世界も一つの大きな生活体となる。そのために、大小の生活体がつくる〈いのち〉の二重構造が生まれ、その二重の生活体の間に次の相互誘導合致の法則が成り立つ。全体は部分の単なる足し算で決まるような寄せ集めではない。全体が決まって部分も完全に決まる。

 

大小の生活体がそれぞれ「生活のドラマ」の「舞台」と「役者」とになって

その間には、鍵穴と鍵の相互誘導合致に相当する活き(表裏の関係のように

互いに整合的でありながら異なる状態になろうとする活き)が生まれる。

両生活体の合致の程度は舞台と役者の間におきる〈いのち〉の与贈循環の大

きさ、すなわち場所的世界における生活者の生活のしやすさの目安を表す。

 

注:誘導合致の程度が大きいほど、〈いのち〉の与贈循環の閾値は実質的に低い。誘導合致が全く起きない場所的世界では、生活体は継続して生活することができない。

 

多数の生活体が同じ場所的世界において生活しているときに、各生活体が他

の生活体を場所的世界の一部分とみなして、その世界とそれぞれ互いに表裏の関係で整合的になろうとすれば、生活体の存在の唯一多様性が生まれる。すなわち、それぞれの違いとその多様性を重んじる形で生活体の志向性がほぼ揃うので、生活のドラマを共に表現できる。そのときには場所的世界を与贈共同体(与贈によって成り立つ共同体)とした
生活体の協力的な生活がほぼ成り立っている。これが生活体の共創の基盤となる。

 

◎生活体の共存在という見方

互いに唯一の存在をもつ多様な生活体が、同じ一つの場所的世界において相互整合

的な状態をつくって共に生活することが生活体の共存在である。共存在は生活体と

その場所的世界の間の〈いのち〉の与贈循環がつくる相互誘導合致によって生まれ

るから、それができるためには、生活体と場所的世界の間に〈いのち〉の二重構造

が生まれていることが必要である。

 

◎共存在の自己組織

(二重構造を反映して、そこにはたらく二種類の力)
 個と全体の鍵と鍵穴的相互誘導合致が全体的構造の自己組織、個と個の間の

相互整合性が部分的構造の自己組織を与える。

前者は共存在の十分条件であり、後者は必要条件である。

◎人々の志向性の方向を揃える〜共存在や共創のためにある集まりの人々の志向性の方向を揃える方法は生活のわざとして
非常に重要である。たとえばホンダにおける専門分野を超えた共創にワイガヤと称して伝統的に用いられているのはその方法である。その方法は相互誘導合致(鍵と鍵穴の相互誘導合致)の法則から考えることができる。結論から言えば、それは二重の〈いのち〉の状態にある生活体をつくればよいのである。

大きな生活体の活きに包まれている小さな多様な生活体の活きは------その活きを決めている志向性は、相互誘導合致によってそれぞれ大きな生活体の活きと整合的になろうとするから大凡揃うのである。それは集まりにおける〈いのち〉の与贈循環を強めようとして与贈されるために揃うのである。

そのためには、〈いのち〉を与贈することが志向性を具体的に示すことになっているから、魅力のある目的を人々に持たせて、閾値を超える〈いのち〉の与贈によって〈いのち〉の自己組織を起こして、集まりを大きな生活体にしなければならない。人々から与贈された〈いのち〉が閾値を越えて一個の大きな生活体を生み出しているということは、人々の志向性がほぼ揃っているということを具体的に示しているのである。


◎個体と細胞〜生活体の二重構造
人間の個体の身体を場所的世界として、約60兆個と言われる唯一で多様な細胞がそこに共存在して生活している。個体としての〈いのち〉と非常に多数の細胞の〈いのち〉というこの身体の二重の〈いのち〉の構造が生まれているのは、これらの細胞から個体へ閾値以上の〈いのち〉が与贈されて、細胞の集まりと個体の間に〈いのち〉の与贈循環が安定して続いているためである。

細胞としての個体に対する志向性に相当する活きが揃っており、その下で細胞の活きが相互整合的になって唯一多様性が出現している。これは任意の一個の細胞が他の細胞を個体の一部として表裏の空間関係に見る捉え方と、細胞として同じ空間関係に相互整合的に見る捉え方の双方が働いていることを示している。


細胞から個体へ与贈される〈いのち〉が閾値を下回ると、個体は〈いのち〉を維持することができず、個体の〈いのち〉は消失する。つまり個体は臨終を迎える。これは極端な例であるが、日常生活では、〈いのち〉の閾値が下がれば楽になり、上がれば苦しくなる。ここに身体とこころの苦楽を関係づける活きが生まれるから、健康の維持や病気の治療にこの現象を積極的に活用することもできる。能のような芸道がそれを見る人々の養生になるという日本の古来からの考えが取り上げられて、一般化されようとしている。


生活体が〈いのち〉の閾値を下回る〈いのち〉しか場所的世界に与贈できなければ、生活体としての場所的世界は〈いのち〉を保つことができずに死ぬ。その死後に閾値以上の〈いのち〉

が生活体から与贈されたとしても場所的世界に再び〈いのち〉が生まれることはない。死者は甦らず、夫婦が完全に離婚して消えた家庭がまた同じ夫婦によって元のように復元されることはない。

それは〈いのち〉の自己組織が歴史的時間という時間的秩序ばかりでなく、空間的構造体を空間的秩序として自己組織するために、その空間的構造が固形化されて新しい秩序の生成を妨げるからである。生活のドラマも、時間的秩序と共に空間的
秩序がこころに生まれる現象であるから、完全に終わったドラマが再び始まることはない。このように生から死への変化が一度起きたら不可逆となる事実は生活体から場所的世界への〈いのち〉の与贈に閾値があることを示している。

人間の身体を構成する細胞が〈いのち〉の二重構造によって大きな生活体における〈いのち〉の与贈循環の中で生まれ、生きて、死んでいくように、人間も大きな生活体である地球のようなその場所的世界に、唯一の存在を与えられて生まれ、生きて、そしてその世界へ死んでいくのであろうか。それとも、その場所的世界は人間が臨終で意識を失う瞬間に消えてしまうのであろうか。臨終の床では、もう場所的世界への与贈はできないから、〈いのち〉の与贈循環も少なくとも同時に終わると
考えれば、死の瞬間に意識するものは何もないことになる。

また、その場所的世界が共存在的世界という形をしていると、他者の与贈によっておきている与贈循環があり、場所的世界から与贈される〈いのち〉によって包まれて、たとえば浄土のような場所的世界へ死んでいくというような意識を与えられる
ことがあるか知れない。

釈尊にしろ、親鸞にしろ、場所的世界における共存在を広げてきた人々の〈いのち〉の影響は、その死後に個体としての空間的な制限から自由になって場所的世界に広くまた深く広がって行ったことは歴史的事実である。またイエスについても、十字架における死後、そのような現象が目立って多くの人々に意識されて「復活」と言われ、パウロやペトロなどの弟子たちによる布教に大きな力を与えた。人間の存在を理解しようとすると、このような現象を〈いのち〉の活きに結びつけて理解していく必要がある。

 

◎進化と深化
地球をはじめ、様々の場所的世界に生活体が継続的に生きていくためには、その生物としての機能の進化以外に、存在の深化が必要である。生物進化は存在の深化をともなった変化なのである。

認識に基づいて自分自身が場所的世界で生きていく形(能力)を、より適したものに変えていく〈いのち〉の活きが進化である。進化は認識の特徴を反映して、旧い能力を捨てて新しい能力をもつ現象に結びついている。これに対して存在の深化は、生きものが場所的世界との関係を深めて、その存在をその世界
にとってより意義あらしめる変化であり、わかりやすく言えば、世界における自分自身の共存在をより深い関係に置こうとするものである。だから、それは「如何にあるべきか」という問いに応えるものである。

たとえば一種類の生物しか食べることができない生活体は、その生物が場所的世界にいなくなれば消滅するしかない。しかし人間という生活体の存在は深化しており、多くの種類の生物を食物とすることができるから、場所的世界に大きな変化があっても、それに耐えて生きていくことができるであろう。つまり人間は生活体として、
それだけ存在が深化している。それを反映してか、人間がつくる料理の味にも深化の次元があって人々を引きつけていることは興味深い。


だが、人間と他の多くの生物の〈いのち〉の関係の多くは力を背景とした一方的な食物的関係であり、共存在的関係ではない。そのために、ここに根本的に深刻な問題が潜んでいる。これが人間の今後の存在問題である。この問題点をどのように修正して、限られた地球における可能性を開いていくかということが、人間にとって、これからの存在の時代における重要な課題になってくるのである。

 

◎大きな生活体としての地域社会
東日本大震災の被災者の方々の生活を拝見すると、地域社会という場所的世界が失われることが、多様な人々が同じ集落や街で生活する共存在を非常に困難にしたり、ほとんど不可能にしてしまうことが分かる。その原因を考えてみると、それは地域社会という場所的世界がなければ〈いのち〉の二重構造が集落や街に生まれないからである。地域社会が大きな生活体となるためには、どうしてもそこに住む住民の生活感の共有が必要である。被災地の場所的世界の範囲を決めていたのは、入り組んだ海岸線にそって生まれたその風土であったと考えられる。

 

現代の社会科学の考えに一体何が足りないかと言えば、現代に機能的な進化の概念はあっても、存在の深化の概念がないことである。地域社会は存在の深化の核であり、それが失われて、被災地に存在の深化がおきないということが、生活体としての人々の生活のドラマを困難にしているのである。地域社会の
消失と人々の存在の消失には密接な関係がある。存在の深化は、人類の今後の非常に重要な課題である。

 

(文責:場の研究所、清水 博:加筆)

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■勉強会のご案内

日時:2018年4月20日(金曜日)大塚の場の研究所で行います。
17時から19時30分までの予定です。
(従来通り15時からワイガヤ的に議論を進めて17時より勉強会を行います。)

テーマ:仮題「生活体とその〈いのち〉についてⅡ」
生活体について、2か月にわたり議論してまいりましたが、これにハイデッガーの考えかたを参考に比較して、場の理論との違いについて議論できればと考えております。

参考文献:
マルティン・ハイデッガーほか『ハイデッガー カッセル講演』
(平凡社ライブラリー)「訳者あとがき」から読んで、ハイデッガーの「カッセル講演」に進むと、分かりやすい。

 

場所:特定非営利活動法人 場の研究所

住所:〒170-0004 東京都豊島区北大塚 1-24-3

Email:info@banokenkyujo.org

 

参加費:会員…5,000円 非会員…6,000円

申し込みについては、毎回予約をお願いいたします。

  (なお、飛び入りのお断りはしておりません。)

 

 

■編集後記
新年の3月は場の研究所で勉強会を実施いたしました。今回は清水先生が2月の宿題に対し、考え方の整理として、資料ベースで、説明をしてくださいました。2月のワイガヤで議論した生活体についてさらに理解が深まったと思います。
また、土井善晴先生のご参加で、違う角度からの場の理論の見方ととして、日本料理についておはなしいただけたことは大変印象深く参加された方々は、良い話が聞けたと考えています。

4月は従来通り第3金曜日の20日に場の研究所で開催します。
みなさまのご参加のほど、よろしくお願いいたします。


 

特定非営利活動法人 場の研究所
住所:〒170-0004 東京都豊島区北大塚 1-24-3
電話・FAX:03-5980-7222
Email:info@banokenkyujo.org
ホームページ:http://www.banokenkyujo.org