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場の研究所メールニュース 2018年6月号

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場の研究所 定例勉強会のご案内 

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  ホームページ:http://www.banokenkyujo.org/ 

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「〈いのち〉を居場所に与贈して〈いのち〉の与贈循環を生み出そう」 

〈いのち〉とは「存在を続けようとする能動的な活き」である。 

                         (清水博) 

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2018日年6月のメールニュースをお届けいたします。   

 

◎2018年5月の勉強会は従来の通り場の研究所で5月18日(金)

に開催いたしました。

15時からは、スタッフの小林剛さんが担当して、勉強会での

清水先生のお話に出てくる言葉や考えで、良く分からないこと

を参加者の皆さんで共有しました。分からないことを分からない

ままに、何が分からないのか、どんなふうに分からないのか、

お互いに聴き合いました。このことは、分からなさの解決には

なりませんでしたが、学ぶこと、理解することへ向かう力が

湧いてくるように感じられました。ここで出た内容を清水先生

に別途説明して、今後の理解度を深められるようにしていくこと

にしました。やはり、哲学的な専門用語の解説は、初めての方

には必要と感じた次第です。

 

17時からは清水先生から、前回ご案内したテーマ:

「Dasein技術としての与贈」

副題「与贈が出現させる隠れた存在次元のイメージ」

に対して、少し内容を変更して

「生活体にとっての与贈の意義」

―生活体の〈いのち〉の与贈と居場所とは対概念 ―

というテーマでお話をいただきました。

これまで同様「場の理論」と「生活体」という概念、キーで

ある「与贈の考え方」を説明してくださいました。

なお、今回は、日本民芸館の学芸部長の杉山享司様のご参加

もあり、民芸と与贈の関係についても説明があります。

少々長い内容ですが、当日の資料をご紹介します。

 

★勉強会の内容

◎清水先生からの講義(配布の資料より)

 

生活体にとっての与贈の意義

2018.5.18   場の研究所 清水 博

 

現存在は生活体として場所的世界に出現する。

現存在の二つの形:「世界に存在する」と「世界として存在する」

〈いのち〉の与贈がつくる二重存在:存在の二つの形を共有する

形で存在二重存在の自覚:世界に存在する(自証分)世界として

存在する(証自証分)

 

「注:仏教の唯識では意識の活きを四分に分けて表現:

相分・見分・自証分・証自証分

1. 相分は役者を包む舞台のように意識される世界の活き

2. 見分はそこで演じる役者のようにその世界を意識する活き 

3. 自証分は役者が舞台の上で役を演じていることを意識している活き

4. 証自証分は役者が役を演じていることを、さらに観客の目線で意識

していく活き

 

〈いのち〉の与贈は、場所的世界を共有して生きている複数の

生活体や集合的生活体が自他分離的な競争を抜けられず、その

存在の継続的な維持が行き詰まったときに、「存在を自他非分離

状態へ移行させる活き」として、生活体に広く本能的に与え

られている「存在の救済」の活きではないだろうか?

 

この存在の救済は、「個の利害に優先して居場所に与贈をする」

という〈いのち〉の活きとしての倫理と結びついている。

〈いのち〉の与贈のないハイデッガーの存在論には、この倫理

との結びつきがないから、証自証分のない自己中心的な存在

感覚(歴史観)が生まれてしまいやすい。

 

居場所とは、〈いのち〉の与贈によって生活体が自他分離的な

競争の行き詰まりからその存在を救済されて、固有の倫理観の

下で自由に振る舞うことができる場所的世界である。

 

宗教的救済の本質も〈いのち〉の与贈循環(信じて与贈する

ことと存在を救われることの循環的関係)による自他分離

状態からの生活体の存在の救済である。浄土教は凡夫の

〈いのち〉の与贈によって生まれる自他非分離的な居場所

(浄土)がもっている大きな治癒力(他力)を活用する宗教。

故に念仏によって存在が回向(与贈)循環の形をとることを

行とする。宗教は、与贈によって自他分離的な状態にある

苦境から存在が救済されることを、示している。

 

場所的世界への〈いのち〉の与贈が、生まれながらに準備

されている生活体の存在救済の道であることを、唯識論から

明らかにできないだろうか。居場所は認識の対象としてでは

なく、与贈によって体験する実在空間として阿頼耶識(身体)

に記憶されていく。そしてその空間に存在することで、記憶

されてきた体験が生活体に蘇る。

 

場所的世界への〈いのち〉の与贈によって生成し、体験的実在

空間として阿頼耶識に記憶される居場所は、唯識論によれば

相分であり、それはフッサールの現象学のノエマに相当する。

またその居場所においてそれを確認していくは自他非分離的

な生活体の志向性はノエシスの活きに相当する。

(安田理深『現象学講義』上、下;春秋社)

 

同じ居場所に共に存在する複数の生活体は共に自他非分離的

な志向性を誘導されることから、居場所は〈いのち〉の

ドラマの舞台として集合的な時間性をもつ。このことから、

同じ居場所に存在する異なる生活体の阿頼耶識の間に自己

組織的な活きがある(ことを仮定する必要がある)。居場所

を共有する生活体の集まりが得た集合的な志向性からドラマ

の舞台としての時間性が生まれて、共創がおこなわれるのだ。

 

ここで与贈による存在の救済が、もともと生活体としての人間

に備わっていることを考えると、資本主義経済の競争によって

人々の存在が行き詰まれば、必ず一度は狭い経験的世界における

自他非分離的な存在の形を通過して、そこで経済の形を創造的

に構築していくものと予想される。そこで必要になるのが地域

社会レベルでの「与贈技術」である。

 

民芸が与贈技術であることは、柳宗悦の書いたもの(たとえば

『南無阿弥陀仏』岩波文庫)からもわかる。柳の民芸における

以下の主張を借用するなら与贈技術とは、大勢の凡夫の参加に

よって生まれる他力技術なのである。

 

「民芸というのは、一般民衆の手で作られ、民衆の生活に用

いられる品物のことである。別に名だたる名工の作ったもの

ではなく、いわば凡夫の手になったものということが出来る。

作られた品物も普通の実用品で、数多く作られる安ものである

から、品物としては下品(げぼん)のものである。

 

ところが、それらの品々に極めて美しいもの、健康なものが数々

見出された。いわば大した往生を遂げ、成仏しきった品物が

あるのである。そうすると、これらの品の美しさは、決して

自力に由来したものではないことが分かる。凡夫の作る下品

の器に救いが果たされるのは、どうしても他から何らかの力

が加わっていることを意味する。他力とは何なのか。そう

尋ねないわけにゆかぬ。これに答えを送っているのは、浄土門

の教えではないか。」(40頁)

 

「ここで浄土教を安全に人から物に行き渡らせることが出来る。

それは広大な宗教哲理なのである。人間の場合だけに終わる

法則では決してない。浄土教は信から更に美へと広まるべき

である。それは美学の一つの原理でもなければならぬ。今まで

の美学者や美術史家がこれをほとんど見過ごして来たのは、

彼らが美を天才の表現にのみ帰してきたからによる。いわば

自力門にのみ美を見ていたのである。凡夫もまた美の世界で、

大きな仕事に与らして貰っていることを認めなかったのである。

今日まで他力美について、誰がよく語ってくれたであろう。」

(46頁)

 

生活体としての生き物の〈いのち〉の活きが地球を舞台にして

おきているのは、生活体の存在が自他分離的であるということ

ではなく、生活体の死もまた、地球のレベルから見れば、居場所

としての地球への〈いのち〉の与贈になっているからである。

もしも「死という与贈」がなければ、〈いのち〉の与贈が有効に

はたらく居場所は、地球の広さよりもかなり狭い範囲になる。

 

他力と与贈技術について

聖道門仏教では自力による救済が説かれるのに対して、浄土門

仏教では他力による救済、すなわち法蔵菩薩(阿弥陀如来)の

四十八願による救済を説く。その四十八願の由来を説明している

経典が無量寿経である。自力の本質は自明であるが、他力の本質

とは何かを、経典に依らずに説明するのは簡単ではなかったが、

〈いのち〉の自己組織が発見によって、それが容易になった。

それによると、他力とは場所的世界に存在している多くの生活体

(凡夫)からその世界へ与贈された〈いのち〉が「世界(居場所)

の〈いのち〉」として自己組織され、〈いのち〉の与贈循環の形で

生活体に与贈されてくる活きのことである。

 

したがって、浄土教は〈いのち〉の与贈循環による生活体の存在

の救済を説く宗教である。柳宗悦の民芸美の説は、民芸品を

つくっている人々(凡夫)が無自覚のうちにおこなう〈いのち〉

の与贈が〈いのち〉の与贈循環の形で民芸品に見事な美しさを

与えているということになる。与贈技術は、凡夫の活きによって

他力を活用する技術である。

 

このような意味で、グローバル化した資本主義経済によって危機

に瀕している地域社会の存在を他力によって回復する「与贈技術」

が、影山知明さんによって示されている(『ゆっくり、いそげ』)。

 

(文責:場の研究所、清水 博:加筆)

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■勉強会のご案内

日時:2018年6月15日(金曜日)大塚の「場の研究所」開催。

17時から19時30分までの予定です。

(従来通り15時からワイガヤ的に議論を進めて17時より勉強会

を行います。)

 

今回は、場の研究所の会員で長年サポートしてくださっている、

仙台在住の徒手療法研究家の本多先生に講義をしていただきます。

東日本大震災における経験や人の治療にかかわるお仕事から、

人と〈いのち〉と与贈に関して現場からのメッセージとして、

中身の濃いお話が聞けると思います。清水先生はコメンテ―ター

をしていただきます。

 

講師:本多直人 仙台徒手医学療法室SORA 代表

テーマ:〈いのち〉の医療「与贈技術としての手当の実践の場から」

 

場所:特定非営利活動法人 場の研究所

住所:〒170-0004 東京都豊島区北大塚 1-24-3

Email:info@banokenkyujo.org

参加費:会員…5,000円 非会員…6,000円

申し込みについては、毎回予約をお願いいたします。

  (なお、飛び入りのお断りはしておりません。)

 

■編集後記

新年の5月は場の研究所で勉強会を実施。今回は日本民芸館の

学芸部長の杉山享司様の参加もあり、民芸と与贈の話に皆様

盛り上がりました。

6月は本多先生に〈いのち〉の医療と与贈についての体験的な

興味深いお話を聞きます。よろしくお願いいたします。

 

なお、今回のメールニュース配信は、これまでご案内させて

いただいた通り、メンバーの削減をいたしております。

今後の、ニュース配信不要の方がいらっしゃるようでしたら、

場の研究所までメールをよろしくお願いいたします。

 

6月の勉強会は従来通り第3金曜日の15日に場の研究所で開催

します。みなさまのご参加のほど、よろしくお願いいたします。

 

情報:「場の研究所のシンポジウム開催」についてのお知らせ

 

9月に従来通りエーザイ(株)と共催でシンポジウムを開催いたします。

日時:2018年9月1日(土曜)13:30-18:00

場所:エーザイ株式会社 大ホール(東京都文京区小石川4-6-10)

是非ご参加をよろしくお願いいたします。

詳細は別途ご案内いたします。(ホームページ含)

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定非営利活動法人 場の研究所

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電話・FAX:03-5980-7222

Email:info@banokenkyujo.org

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