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生命の同等性と〈いのち〉の多様性

人間の身体は約60兆個と言われる非常に多数の多様な細胞から構成されていると言われています。

細胞たちは互いに独立して生まれ、生きて、死ぬという生涯をそれぞれおくっています。

また人間の〈いのち〉はその細胞たちの〈いのち〉を足し合わせたものではなく、その細胞たちの居場所としての〈いのち〉に相当しています。

つまり、多数多様な細胞たちの〈いのち〉は、人間という居場所の〈いのち〉と循環的な関係をつくりながら共存在をしているのです。

細胞たちの〈いのち〉の表現が互いに異なっているのに、細胞たちが共に生きていくことができるのは、人間という居場所の〈いのち〉を共に生み出しながら、その居場所に生まれる場に自己の存在をそれぞれ位置づけながら、その位置にふさわしいしい生き方をしていくからです。

 

このことはサッカーの選手たちが競技場という居場所に生まれる場に、それぞれの存在を絶えず位置づけながら、自己の位置にふさわしいはたらきを主体的に実行していくことにたとえられます。

選手たちが、それぞれの判断で主体的に動くことができるためには、互いに独立していることが必要です。

独立して主体的に動くために、居場所に生まれる場に、それぞれの存在を整合的に位置づけているのです。

 

生命と〈いのち〉は存在者(名詞)とその存在(動名詞)の関係にあります。

また居場所は存在者であり、場がその存在に相当します。存在は「はたらき」を伴っているために、ここでは広い意味での「動名詞」として考えています。

居場所に生まれる場に位置づけられるものは存在者の存在であり、そこで位置にふさわしく主体的にはたらくものは存在者の〈いのち〉です。

居場所に内在している存在者たちが居場所に感じる場は、その存在者たちの〈いのち〉がつくり出している居場所の〈いのち〉であり、そのはたらきが存在者たちの〈いのち〉と循環的な関係にあることが必要です。

存在者たちがその存在を場に位置づけるのは、それぞれがこの循環的な関係をつくるためです。

 

存在者とその存在とがこのように分かれて取り扱われる状況があって、はじめて多くの人びとが主体的にその多様性を発揮できます。

自我を基盤とした個人や市民という概念には、存在者と存在がよく分かれていません。

また、それぞれの存在を位置づける居場所とそこに生まれる場という明確な概念もなく、このために存在の多様性を背景にした共存在がうまくできないのです。

このことが、市民や個人という概念から出発する民主主義の地球社会における適用限界になっていきます。

 

地球という居場所に多数多様な人びとが主体的に生きていくためには、存在者としての平等性と存在としての多様性とが必要であり、そのためには、人それぞれの生命が等価であることを前提にして、〈いのち〉の多様な表現を主体的に実行していくための場づくりが必要になります。

地球社会の平和は、人びとの居場所としての地球の発見と、地球、個人、生命における存在者と存在の分離から始まります。

21世紀は地球という居場所における場づくりの時代なのです。