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場の研究所メールニュース 2021年07月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

 

場の研究所の理事の前川泰久でございます。

もう7月になりましたが、コロナのデルタ変異種の感染力の強さもあり東京を中心に患者数が増大してきてしまいました。ワクチンは高齢者の約6割が1回目接種を終了したとのことですが、64歳以下の方々への拡大には時間がかかりそうです。また、オリンピックによる感染拡大も心配な状況です。このような厳しい状況が続く中でも、場の研究所は「共存在の世界」の議論を継続していきたいと思います。

 

場の研究所が開催している「ネットを介しての勉強会」がお陰様で1年を超えました。関係されている方々に感謝いたします。6月の第13回目の「ネットを介した勉強会」は第4金曜日の25日に開催いたしました。テーマは「〈いのち〉の与贈がつくり出していく世界」でした。

今回も参加の方々の協力で、多くのコメントを送って下さりありがとうございました。昭和の時代と令和の時代における文明の形が聴覚型から視覚型へ変化したことについて改めて考えることから始まり、皆さんの時間に対する経験や考えなどが紹介されて、なるほどと共感する内容も多く、有意義な勉強会でした。

 

7月も「ネットを介した勉強会」を開催します。(今月は第4金曜日が23日を予定しております。)

基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

毎回コメントしていますが、ネット上でも「共存在」の居場所が生まれていると感じておりますので、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。

 

なお、「ネットを介した勉強会」の内容については、メールニュースで資料をわかり易くご紹介してきております。参加されなかった方も、参考にして下されば幸いです。

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。

今後の進め方に反映していきたいと思います。よろしくお願いいたします。

 

ご感想、ご意見は、こちらのアドレスへお送りください。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

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2年目に入った「ネットを介した勉強会」は、「場の理論」の学習の場を広げていきたいと考えています。

そこで、今回は、このメールニュースをお読みいただいている皆さまへ声かけさせていただこうと思いました。

 

(対面の)「勉強会」が、場の研究所で開催できなくなっておりますので、今、唯一の活動となっているのは、毎月、オンラインで実施している「ネットを介した勉強会」です。

(注:オンラインと言っても、ビデオ会議のような方法ではありません。)

この勉強会の概要は、メールニュースを通してお伝えしておりますので、様子は伝わっていると考えていますが、いかがでしょうか。

 

これまで、この勉強会は、積極的に参加者を集めてはいませんでした。

理由としては、急に参加人数が増えてしまった場合、勉強会として成り立つか、など不安要素があったからです。

また、対話的要素の多い「ネットを介した勉強会」は、勉強会の内容について紹介しにくいという特徴もありました。

そのため、どのような会なのか見えにくく、参加してから「思っていた会とは違う…」ということになることも考えましたし、実際、そう言った声もお聞きしました。

これらのことから、集める側も参加される側も心理的なハードルが高くなってしまっていたように思います。

 

しかし、そんなことばかりも言ってはいられません。

どうしたら「学習の継続」が出来るだろうか、そのために、今、何が出来るだろうか…。

問いかけに答えるように、少しづつでも進めていければ、と思います。

 

そのために、今回、一つの資料を用意しました。

「場の理論の基礎」です。

先月のメールニュースにも書きましたが、勉強会参加のための基本資料として、電子書籍「共存在の居場所:コロナによって生まれる世界」(清水博)があります。

しかし、「この本をいきなりは、少し難し過ぎるのではないか、もっと易しい入門的な資料があって良いのではないか」と清水先生が仰り、資料を作ってくださいました。

それが、「場の理論の基礎」です。

 

今月のメールニュースでは、この「場の理論の基礎」を紹介させていただきます。

 

また、勉強会に参加するためには、どこへどのように申し込めば良いのか、というご意見もいただきましたので、合わせて紹介します。

 

 

>>資料「場の理論の基礎」

※ Webページを用意しました。以下がそのURLです。

https://www.banokenkyujo.org/netbenkyokai/ba-basic/

 

>>「ネットを介した勉強会」への参加方法について

以下のページに参加方法についての説明を用意しました。

https://www.banokenkyujo.org/netbenkyokai/

 

 

以上。

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◎第12回「ネットを介した勉強会」の資料(清水先生)について

6月のテーマ「〈いのち〉の与贈がつくり出していく世界」のダイジェストを紹介します。

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<〈いのち〉の与贈がつくり出していく世界>

 

1.時間の差を考える

・昭和の時代の写真と現代の写真の比較:

カメラやレンズの差だけでは表現できない何か本質的な差がある。

 ⇒その世界の背景になっている時間の性質の差が生まれるように思える。

◎その時間の差をこの勉強会で紹介していくが、先に結論を簡単にまとめると

1)昭和の時代:「聴覚的な文明」の時代

2)令和の時代:「視覚的な文明」の時代

 と言える。

・この文明の基本的な形を変えた原因:

コンピューターやスマホによるSNSの著しい発達が社会の在り方を変化させたのである。

 

2.居場所に生まれる音について

・昭和20年代とそれ以前(清水が子供のころ)の生活:

 世間は圧倒的に静かで、また夜は足がすくんで前へ出ないほど真っ暗で、地には虫の声がし、空には沢山の星が輝いていた。夜が明けてくると、あちこちから「がらがら」と雨戸を開ける音と共にしわぶきの音などがきこえてきた。地域社会の1日が始まり、様々な生活の音がして、やがて道路に物売りのラッパの音や声がして豆腐や食材が売られます。陽が高くなっていくと、下駄や傘の修繕、そして物干し竿を売る声が聞こえてくるといった状態であった。

 

◎まとめ:昭和の世間の人びとは「沈黙の世界」としての居場所を共有して生きていて、その居場所に生まれる音とともにつながって生活しているという状態であった。

⇒「聴覚的な文明」の時代

 

<分析>

・聴覚は、先ず場所全体の音を捉え、先ず場所におきているできごとを知る。そして次にその音を聞き分けてできごとを詳細に知る。

⇒音を大きな場所の音のなかで音源ごとに小さな音を聞き分けていく活きを「カクテルパーティ効果」と言う。

(騒音で賑やかなカクテルパーティにおいても、人びとが会話をすることができることから)

・ここで聴覚の大切なことは、その順序である。

1)まず居場所全体を捉える。

2)次にそれぞれの位置を確かめながらそれを部分に切り分けていく

 

3.聴覚的時代(昭和)と視覚的時代(令和)の違い

・聴覚:まず場所全体を捉えて、つぎその全体を部分に切り分けていく

・視覚:まず様々な部分を捉え、次にその部分を合わせて場所全体の認識をする

注:視覚の老化現象⇒様々な部分を一つに描き合わせて場所全体のイメージをつくり出していくカンバスに相当するのが大脳旧皮質の海馬である。この海馬がうまくはたらかなくなるのが認知症である。

 

まとめ:聴覚のトップダウンの活きと、視覚のボトムアップの活きが一緒になってはたらくことで、

1)場所と存在者(生きもの)の相互誘導合致(〈いのち〉の与贈循環)の形が生まれ

2)場所をドラマの「舞台」とするドラマ的時間(居場所の歴史的時間)が生まれる。

 

◎昭和という時代の特徴:

・人びとの視覚と聴覚の活きが分離していなかったために、〈いのち〉を基盤としたドラマの時間が居場所に存在して、「〈いのち〉のドラマ」(場所の歴史)を進めていたという点にあったと考えられる。

⇒昭和では、場所に歴史的時間が継続して生成していたのである。

・言い換えると:生きものの生長は、これまでの「全体」に新しく生まれた「部分」が加わって一体化していく相互誘導合致(〈いのち〉の与贈循環)によって歴史的に進んでいくという形でおきる。このことが場所=「全体」、できごと=「部分」としておきるのが「場所の歴史」である。

 

◎令和という時代の特徴:

・コンピュータやSNSの著しい進歩によって社会の視覚的な活きが飛躍的に進んだために、視覚と聴覚の分離がおきて、聴覚を置きざりにして、視覚だけが支配的に社会に広がっている。

⇒令和ではそのために、見えるものに関心が集まり、場所という目に見えない〈いのち〉のドラマの場所「舞台」が失われ、歴史的時間が社会から喪失している。

・言い換えると:機械は部分に部分が組み合わさって全体が作られていくように、何時も部分から変化が始まるから相互誘導合致の形にはならない。

 

<分析>

文明の視覚化によって、「舞台」(「全体」)が「役者」(「部分」)から切り離されて、「舞台」(「全体」)をそのままにして「役者」(「部分」)だけがどんどん新しくなっていくという形で文明の機械化がすごい速さで進み、それまで歴史をつくってきた場所における存在の時間が部分に分解されていき、人間の場所的存在が消えて部分的な意味しかもたない機械的な存在に変わっていく。

 

4.ミヒャエル・エンデの「モモ」という童話における時間の考え方

<「モモ」の童話の内容(前半)>

・人びとから時間を預かる時間貯蓄銀行の灰色づくめの服装をした銀行員が、しゃれた形の灰色の自動車から降りて葉巻を吹かしながら人ごとに時間の貴重さを説明し、「貴方の時間を時間貯蓄銀行に預ければ利子としての時間がつく」と説明。

・人びとは「利子」としての時間を期待して、ある限りの時間を時間貯蓄銀行に預けてしまう。本当は時間の「利子」は戻ってこない。

<分析>場の思想での考え方

・預けた時間は、人びとの生活の場所における日常的な「〈いのち〉のドラマ」によって生まれる「ドラマの時間」(歴史的時間)なので、その時間をすべて預けてしまうことは、〈いのち〉のドラマの「舞台」(「全体」)を失うことを意味している。これが視覚的世界における重要な問題点である。

・生きることの楽しみやその余力を失った人びとは、目に見える目標である世間の視覚的な評価とマネーを目指して脇目も振らずに(それこそ時間を惜しんで)機械のように働く存在に変わっていく。

⇒人びとは、相互誘導合致(与贈循環)によって生まれるドラマの時間(歴史的時間)を失ってしまうので、結果として、時間貯蓄銀行に時間を預けた人びとは、世間の視覚的評価とマネーを目指してひたすら日常的な結果(「部分」)を積み上げていく「働く機械」となってしまうのである。

 

<「モモ」の童話の内容(後半)と〈いのち〉の与贈の活きの重要性>

・モモという女の子は、廃墟になった円形劇場の跡に一人だけで生きていて、彼女はどんな人の話にも耳を傾けて聴くことができる〈いのち〉の与贈の活きに格別に優れている存在。

・そのために彼女の周囲に与贈循環(相互誘導合致)が生まれて、いつの間にか世間的に恵まれない大人や子供たちが円形劇場の跡に集まって「〈いのち〉のドラマ」を生みだしていく。

・モモの存在は時間貯蓄銀行にとって許せないものとなってしまい、そこで時間貯蓄銀行によって生まれる存在の危機を、僅かな協力者によってモモが乗り越えていくことが『モモ』のストーリーの骨格。

 

◎これと似た現在のできごと

・現実的におきているのがオリンピックなどのように巨大化した現在のスポーツ界である。

・アスリートたちの生活の時間(歴史的時間)がメディアに買われるようになって、時間貯蓄銀行に相当する大きな組織が世界に現実に生まれているのである。

・そして世間的な評価とマネーを目指して、アスリートたちは〈いのち〉のドラマの時間をすべて「時間貯蓄銀行」に「預けて」、自己中心的意識にしたがって先を争って生きているように見える。

⇒「時間貯蓄銀行」は人びとの〈いのち〉のドラマに優先して世界を支配しているように、少なくとも日本では見える。しかしアスリートたちが目指すのは、所詮、「人間が決めたルール」の上に成り立つ競争であり、さらにそのルールもときどき変化をすることから、アスリートたちの存在は歴史的な意味では居場所に残らない。アスリートたちは、すでに歴史的時間を失っているのである。

 

5.〈いのち〉の与贈の活きと機械の競争の活きの対立

・前者が勝てば、ドラマ的時間(歴史的時間)とドラマという共存在の形が生まれる。

・後者が勝てば、コンピュータを動かしている時計の時間を生み出す機械的な運動が生まれまる。

⇒これは〈いのち〉の時間(歴史的時間)と機械の時間(時計の時間)の競争であり、共存在と単存在の競争である。

◎もともと生きものは、自己中心的な単一の存在者としては地球上に存在できず、他者の存在を必要とする。そのために〈いのち〉のあり方は、その根底において共存在的なのである。

例:親が子を慈しんで育てるのも、深く考えれば、このことと関係している。

 

6.場所的意識について

・「阿弥陀如来」は、それぞれの人(生きもの)の最深層に存在して、その意識を「いま、ここ」に生成し、そしてその存在を支える活きをしている場所的意識であると思う。

・その活きがもたらす〈いのち〉の与贈循環によって、地球の上に〈いのち〉の共存在がもたらされていると考える。

・それぞれの意識の深層に「モモ」がいる。西田哲学の矛盾的自己同一「一即多、多即一」の「一」は場所的意識に相当する活きを表す。

注:ここで「多」はその場所に存在する個としての意識の活きを表し、この矛盾的自己同一は、それぞれの家庭という場所においても、また共同体的な組織や国家を場所としても成り立ち、さらに地球を場所としても成り立ち、個にその場所における場所的意識を与える。(西田幾多郎は彼の有名な宗教論でこの矛盾的自己同一は絶対者の自己否定によってもたらせると考えているが、ここでは、人間以外の生物を含む生物進化や遺伝子に関する科学的な事実とも両立することを重視するので相互誘導合致(与贈循環)の考え方をとる。)

・場所が大きくなるほど、その場所的意識は深層に存在する。

・自己が「いま、ここ」に存在しているという宇宙的な地球における自己の存在意識は、最も深層にある矛盾的自己同一の活きによって生まれてくる。

・その逆に最も表層にあるのが自己中心的な自己意識である。

⇒このことは家庭という場所における家族としての自己の共存在的意識の活きを抑えて自己中心的に自己がはたらく場合を考えてみれば理解できる。

 

◎まとめ:

・自己に、宇宙の「いま、ここ」に生きて存在しているという意識を与えるのは、このように最も深層にある場所的意識「一」であり、その場所的意識は地球上のすべての存在「多」を共存在的に包む活きをする。

・その最深層の場所的意識の活きは、人びとが自己中心的な心の活きから離れて無心になることによって、〈いのち〉の与贈循環を生み出す「仏の活き」として現れてくる。

・この最深層にある場所的意識「一」が浄土真宗でいう阿弥陀如来に相当している。

・そして南無阿弥陀仏の念仏は、自己の存在意識をこの最深層にある場所的意識「一」に向けて相互誘導合致(〈いのち〉の与贈循環)を生みだす活きなのである。

・もしも、自己の〈いのち〉の与贈ができれば、そのことによって、自己の存在は阿弥陀如来の〈いのち〉の活きに包まれる。この与贈循環は「聖なるもの」とつながる〈いのち〉の行なので、ただ知っているだけでは何もおきず、実践としての行動の形が必要になる。

 

7.民芸美と場所的意識

・柳宗悦が発見したように、物づくりをする人びとが無心になって物をつくるときに、この最深層にある場所的意識がはたらいて生まれてくる美が民芸美である。

⇒世間的な評判をあげようとする意識から離れて、自己が他者の〈いのち〉を心にとめて無心に物をつくるときにおきる深層意識の活きを、柳が阿弥陀如来の本願の活きに結びつけたことは、阿弥陀如来を共存在のために最深層ではたらく場所的意識と考えれば納得できる。

(土井善晴が家族のための家庭料理に民芸美を発見したことも納得できる)

・阿弥陀如来の活きを、このように最深層における矛盾的自己同一に結びつけることは、科学と矛盾しないし、西田哲学の矛盾的自己同一にも合うので哲学的な説得力も持っていると、私は考えている。

 

8.新しい希望を生むために

・課題:「時間貯蓄銀行」が人びとの存在を機械的にはたらく「時計の時間」に縛り付けて、その存在から〈いのち〉のドラマを奪っていくような文明の視覚化の流れにどのように抵抗して、私たちの〈いのち〉のドラマを守ればよいか?

 

回答:結論から言えば、地球という共存在の場所への無心な与贈こそが最も有効な抵抗になるはずである。その与贈を活かすためには、ドラマの「舞台」となる場所における私たち自身の共存在によって、ドラマの形をつくっていくことが必要である。

 

例:ネットを介しておこなってきたこれまでの「勉強会」における私たち自身の経験から、その「舞台」への登場はネットを介しても、ある程度可能であると考えられる。

⇒それは、私たちの深層意識にはすでに場所的意識が存在しているからである。

・その意識を高めることを目指して、それぞれが「舞台」への与贈をおこない、「〈いのち〉のオアシス」という〈いのち〉のドラマの劇場をネットの上につくっていくのである。

・「楽譜」はそのドラマの「舞台」での活き方を具体的に与える。その「舞台」の上で、私たちは民芸的に共存在してきたのかも知れない。

・〈いのち〉の「与贈」によって生まれる「舞台」を広げていくことから、新しい希望が生れてくることは間違いない。

 

9.矛盾的自己同一の考えと共存在の考えについて

・ある一つの場所に、生命的に独立した多くの個体が共存在しているとする。

その状態を西田哲学では、矛盾的自己同一「一即多、多即一」によって表わす。

全体としての場所的意識が「一」であり、個体のそれぞれの個としての意識が「多」である。

・この共存在状態をクローズアップして見ると、個体の存在がそれぞれ場所に位置づけられているために、その独立を守っていくことができる。もしも存在が位置づけられていなければ、個体の活きの間に競争や衝突がおきる。

・しかし、矛盾的自己同一には、どのようにして個体の位置づけがなされているかが示されていない。つまり、どのようにして多様な個体が場所に位置づけられて矛盾的自己同一の状態に到達したかという過程が示されていないから科学的な問題には使うことはできない。しかし宗教的な存在論のようにその存在のみを問い、その位置づけまでを問わない場合、たとえば、絶対者「一」の存在の自己否定によって自己の存在が矛盾的自己同一の形で生成したというように、自己自身の存在原理として大きな意義をもっている。

⇒科学的に言えば、既に場所が存在しているときには位置づけの方法がわからないと、たとえば多様な人びとや、多様な国家が、どのようにして地球という場所(舞台)において「〈いのち〉のドラマ」を演じて、歴史的時間を生み出していくかを示すことができない。

 

10.「居場所」と「場所」について

・場の研究所でこれまで考えてきたことは、「〈いのち〉のドラマ」を頭に置いて、多様な個体の間にどのようにして秩序をもたらすかということであり、そのためには、場所における個体の位置づけが重要になる。

⇒この個体の存在が位置づけられた場所のことを、私は「居場所」と呼んできた。

・その個体の存在の位置づけは、〈いのち〉のドラマへの他者の与贈を妨げないという条件の下で、自己の与贈を最大にするということ---共存在原理---である。

・今回は矛盾的自己同一に話をとどめて、そのことでできることを具体的に考えたので、これまでの「居場所」の代わりに西田哲学の「場所」を使ったところがある。

・位置づけの問題にとらわれず、矛盾的自己同一を応用することでできることがいろいろあり、その一つとして日常的な生活に民芸の考えを活かして、文明の機械化の波に抗したいと考える。

 

(場の研究所 清水 博)

以上                               

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以上の資料をベースに議論を行いました。

 

場の研究所では、哲学や精神から知識を切り離さないための努力をこれからも重ねていきます。

 

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◎7月の「ネットを介しての勉強会」開催について

 

7月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第4金曜日23日に開催予定です。

場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただきます。

(参加者の方には勉強会の資料を早めに送ります。)

参加されない方にも、これまでの様に翌月のメールニュースでテーマ資料など内容の説明を致します。

 

なお、今後、状況の好転があれば、イベントの開催について、臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたしますので、今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2021年7月5日

場の研究所 前川泰久