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場の研究所メールニュース 2021年11月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

 

場の研究所の理事の前川泰久でございます。

11月になりました。

コロナの感染も、なぜか急に減少して元の生活へ戻りつつあります。しかし、まだまだ油断は禁物ですので、皆様もマスク・消毒を含めた自衛手段を是非継続していただきたいと思います。

 

実は、10月のメールニュースが発行されていないことに気づきました。

9月の勉強会は中旬に有って、月末まで、私の大学の講義が始まったことや、高齢の母の介護の対応が増えたこともあり、他に気が行っていたと思います。大変失礼しました。10月の勉強会の案内の方は予定通り対応したのですがミスをしました。

そこで、今回は2回分を合わせたメールニュースを配信いたします。今後はこのようなことがおきないようにと反省しています。ご理解のほどよろしくお願いいたします。

 

さて、9月は17日の金曜日に勉強会を開催。資料は2009年に清水先生が作成されたものをベースとして、テーマは「一歩先を踏み出すために --- 相互誘導合致技術」でした。

そして、10月は15日金曜日に、「〈いのち〉即興劇」というテーマで開催しました。

どちらも、「相互誘導合致」という点で内容が共通しておりますので、つながる部分も多いかと思います。少々長めの内容となりますのでよろしくお願い致します。

なお、勉強会にご参加された方々ありがとうございました。

 

そして、今月11月の「ネットを介した勉強会」の開催予定は、従来通り、第3金曜日の19日といたします。基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。毎回コメントしていますが、ネット上でも「共存在」の居場所が生まれていると感じておりますので、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。

 

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを参考にして下されば幸いです。

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。よろしくお願いいたします。

 

ご感想、ご意見は、こちらのアドレスへお送りください。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

理論と現実の行き交うところ。

ネットを介した勉強会は、理論と現実の間に架かった、橋の上のようなところなのかもしれないと思いました。

毎回、メールで交わされることは、もちろん理論である訳ですが、それだけではなく、一人ひとりの生きていく中での現実の欠片であったりします。

それは、ここでは、どこか外側にある答えではなくて、内側にある問いを頼りにするしか理論の理解に近づけないことが直観的に感じられているからではないかと思っています。

そして、それらが、この橋の上で行き交っている。

そのようなことから、自らがやりたかったことがここに在る、そう気がつきました。

ネットを介した勉強会を組み立てること、その案内役を行うこと、それらが、やっていて楽しく、毎回の会が終わる時には、嬉しくて仕方がない気持ちになるのは、こういったことであったか、と納得した次第です。

更に、この場で交わされている場の理論と技術には、肯定的なこと(今を生きていく)を創り出していく思想を構想する活きを感じていることは、言うまでもありません。

このように、毎月、届けられる声をゆっくりと待ちながら、また、こころ躍らせながら生長の畑を耕しています。

 

9月の楽譜のテーマ「一歩先へ踏み出すために――相互誘導合致技術――」を見て、ふと思い出したことがありました。

それは、私が場の研究所の勉強会に参加した直後くらいの「所長ブログ」です。

改めて読んで、「生きていく今」、そう声に出していました。

皆さんにも読んで欲しいな、と思いましたので、引用させていただきます。

(全文は、場の研究所ホームページで読むことができます。 )

 

”「希望は厳しさとの相互誘導合致か」

希望は、生きものの内側に生まれる「生きていく形」だ。その形が、居場所と生きものの相互誘導合致によって生まれる〈いのち〉の活きであることは間違いない。それは、未来に応えるために、生きもののからだの内に与贈されている「隠された活き」──〈いのち〉の願──が形となって引き出されてくる「〈いのち〉の芽」ともいうべきものである。その形を引き出すものは、現在の居場所の厳しさであって、決して、その温かさではない。それは、いま温かければ、それで足りるからである。 “

(場の研究所ホームページ、所長ブログ20160223「希望は厳しさとの相互誘導合致か」から。

URL: [https://www.banokenkyujo.org/2016-02-23-kibou-sougoyuudougatti])

 

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勉強会の内容:

以下の2回の勉強会の内容紹介となります。

◎第16回(09/17)ネットを介した勉強会「一歩先を踏み出すために --- 相互誘導合致技術」

◎第17回(10/15)ネットを介した勉強会「〈いのち〉の即興劇」

 

まず、9月のテーマ「一歩先を踏み出すために---相互誘導合致技術」の内容を紹介します。

資料自身がかなり内容豊富でしたので、ダイジェスト版にさせていただきます。

 

◎第16回「ネットを介した勉強会」の資料

 

<一歩先を踏み出すために --- 相互誘導合致技術>

 

1.未来をつくる構想力について

・目標として:「思想的構想力と実践的構想力の相互誘導合致によって、地球時代における未来の夢を設計する。そして、日本社会に発信し日本からの提案として世界に拡げていくこと。」としたいと考えている。

・未来のためにあるはずの思想や哲学も情報に変えられて、そこからいま役に立つ「ハウツー」を取り出すことに興味がもたれている。このような傾向の裏側には、正解がどこかにあると見なして、その正解を探そうとする心理がはたらいているのである。しかし現在のような時代の大きな転換期を迎えると、正解などはもう存在しないので、「視界ゼロ」の状態になってしまう。

→このような大きな転換期では、未來は探すものではなく創り出すものであり、創り出さなければ、少なくとも明るい未来は来ないのである。そして未来を創るためには構想力が必要なのである。

・「これは正しい」「これは正しくない」と判別する論理的な判断能力が必要だが、これは地図という一つの領域で目標とする点を求めることに相当するので、一領域論理が使われる。

・構想力は、これとは異なり「生きる形」をつくる創造的な能力である。

→未来における「生きる形」を考えるためには、未来には居場所がどのようになるかを知らなければならない。そのためにまずは現在の居場所にどのような矛盾があるから転回を必要とするのかを考えて、その矛盾を解消することができる居場所を想定する必要がある。

・これは現在までの歴史の延長線の上に想定される未来ではなく、無から生まれた純粋未来として現在の自分の方に未来の方から近づいてくるのである。この未来の居場所をドラマの舞台として自分自身がどのように生きたいかを考えることが「生きる形」を構想することに相当する。

→そしてその舞台でドラマを進める生き方が生きる形になる。このように生活の舞台としての未来の居場所とその舞台における新しい生き方を考えることが必要になるから、構想力では二領域論理が使われるのである。

 

2.理論の特徴

・場の理論を研究していけば、当然、日本文化の重要な基盤の一つである大乗仏教と触れ合ってくる。

これまでの科学技術では一領域論理を使うが、場の理論の最も大きな特徴は二領域論理を使う点にある。場の理論には次の三つの柱があるが、それぞれは次のように仏教の思想的特徴と関係している。

二領域思想  (仏教の「空の思想」に相当)

相互誘導合致 (仏教の{即の論理}に相当)

共存在の深化 (仏教の「仏の救済」に相当)

・簡単に書くと、二領域思想を人間の組織に対して相互誘導合致という論理で実践的に実行することによって、「鍵と鍵穴の相互誘導合致」の形で組織と生存環境との間に境界が生成して、人間の組織と生存環境を含む居場所全体に共存在の深化がおきるということである。

→相互誘導合致技術とは、存在者(何を問題として想定するかによって、細胞とか、人とか、企業とか、地域社会とか、国とか、異なる)が互いの差異を前提にして生存環境に対して調和的状態になる形をつくる「在るための技術」である。(人間が何かを「持つための技術」のことではない。)

中略

 

3.限られた空間における問題点(一領域的地球から二領域的地球へ)

:人間のための地球から人間と生きている自然が共存在する地球へ

・人は、ほとんど毎日のように他のさまざまな生き物の生命を多数いただいて生きている。つまり人は生きるために、多くの他者の死を必要とする生き物である。他の動物でもそうであり、植物も動物やバクテリアがいなければ生きていくことはできない。生命体単独、さらには類や種単独では、この地球の上に〈いのち〉を継続的に維持していくことができないことは自明である。

→このことから、地球を居場所として生きてきた多様な生き物たちは、他種の生き物と居場所を共有して生と死の循環的関係(生命循環)をつくって、そしてその循環を維持する一つの小さな要素として生きていくのである。

・人間が自然の中で他の生き物と一緒に個体として生き続けて行こうとすると、非常に大きな困難をともなうために、ほとんどできない。またその逆に自然のなかで生きている多くの他の生き物が、人間の社会で生きていくことも難しいのである。このことから人間が日常的に生活している「人間の社会」と他の生き物たちが住み処としての自然が分かれて二種類の領域をつくってしまう。

→そこで、どのようにすれば、この二種類の領域を調和的に共存させることができるかが課題になる。

・その人間の社会と自然を調和的に共存させるという課題のためには、人間の社会の効果的な膨張に歯止めをかけて、人間によるさらなる破壊から自然を守ることがどうしても必要になると考える。

 

4.地球の時代を発展的に生きる原理

:人間と生きている自然の共存在の原理(二領域的地球の経営原理)

・「人間の社会」とその自然環境の間に双方に開かれた「境界」をみずからつくり、その境界を挟んだ両者がおのずから整合的な関係をつくり出すことを可能にする技術(相互誘導合致技術)が必要になると考えている。

・またその「境界」を人間が共同して維持することによって自然環境が(人間による破壊から)守られるために、境界の内側の「人間の社会」の調和を維持することもできるのである。

・相互誘導合致技術を感覚的に理解するための例として:

人間の住み処としての「里」と動物たちの住み処である「山」という二つの領域の関係をおのずから整合的にする「境界をつくる技術」として、日本で伝統的に用いられてきたものに里山がある。里山という内にも外にも開かれている境界帯を人間が共有して管理することによって、その内側の人間と外側の動物たちとが長期的に共存してきたことはよく知られている。

→内を守るために外を守ることの重要さは、近所の人々が協力して近所――里山に相当する――を守ることが、家庭という人間の居場所を安全に守ることになることが知られるようになってきたと考える。

 

・これを即興モデルで考えてみる

このモデルでは、人間の生活の舞台がドラマの舞台、人間がその舞台でドラマを演じていく役者、そしてこのドラマが演じられる劇場が人間の領域、その劇場の外の世界が自然に相当する。

ここでの課題は劇場の内部で演じられていくドラマをその外側の世界のドラマと相互整合的にするためにはどうすればよいかということである。

里山で考えると、観客席から動物たちは舞台の上でどのようなできごとが進んでいるかを知り、また役者としての人間は観客が何を希望しているかを知ることができるのである。

→内外の状態が相互整合的になるようにドラマのあり方を調整することが重要になるのである。

 

・考え方の拡大:

上記のことを、たとえば金融とか、企業経営とか、人間のさまざまな活動分野に一般化して地球時代における場の設計原理を考えることが出来る。

→その原理とは、「人間の活動の場とその外側の環境の間に内外に開かれた境界帯をつくって、場で活動する人間が共同してその境界帯を維持していくこと」である。

・人間の活動の場を地球における生命循環のなかに置くことがまず基本的な要件になり、そのためには里山のように内外に開かれた安全な境界帯をつくることによって、人間の活動の場を外側と相互整合的な状態になるようにすることが必要になる。

・提案しているのは、市場とその外側の生活世界の間に内外に開かれた境界帯をつくって、その境界帯(地域社会や地域の自然)の安全を維持することを含めて市場活動とすることによって、自然環境との調和が可能になり、内側で市場活動を継続して続けていくことができるとするものである。

(分かりやすく言えば、コミュニティに受け入れられない企業は続かないということである。)

 

5.科学的生物学の公理として

・このように、外との境界帯を守って安全にすることによって、その境界帯をはさんだ内と外の世界が相互整合的な状態になることは、次の科学的生物学の公理と関係があるように思われる。西田幾多郎は「生命」という論文に次のように書いている。

「生命とは如何なるものであるかに関するホルデーンの説(J.S.Haldane, The Philosophical Basis of Biology, 1931)は、私は自分の考えに最も近い。彼によれば生命の特徴は形が形自身を維持していくように生命体と環境とが相互整合的にはたらくところにある。この形の能動的維持active maintenanceが我々の生命である。このように自己自身を限定する形を見ることが、生命の直観である。そしてこのような生命そのものとしての存在が、科学的生物学の公理となるのである」。

 

・「形が形自身を維持していくように、生命体と環境とが相互整合的にはたらく」ということは、たとえば生命の例として家族という生命体と、家庭という環境とを考えると、理解しやすい。

・家族がいなければ家庭は維持されず、また家庭がなければ家族は維持されない。そこで家族が家庭に整合的になるように生活すれば、家庭も家族にとって整合的な状態となって家族を包み込む。そして家族と家庭が相互整合的にはたらく形が能動的に維持されていくのである。相互整合的なはたらきが消えると、家庭は崩壊して、家族はばらばらになって形が形自身を維持していけないことになる。家族のメンバーと家庭の間に、目には見えないが境界があって、それぞれが家庭と整合的な状態をつくりながら、メンバーが個人として主体的に行動することを可能にしていて、この境界が壊れると家庭は崩壊するのである。

・このように、生命体と自然環境の間に相互整合的なはたらきが現れて形(生命体と環境の間の境界)が能動的に維持されていくことが生命の原理(公理)であると指摘していることになる。

→生命体(鍵)と環境(鍵穴)の双方からのはたらきが相互整合的になるように形(境界)が生成することを、『「鍵」と「鍵穴」の相互誘導合致』と名づける。

・個体の生命に相当する「鍵型の生命」(局在的生命)と居場所の生命に相当する「鍵穴型の生命」(遍在的生命)とがあり、その二種類の生命が鍵と鍵穴の相互誘導合致の形で整合的な状態をつくるように交互にはたらくことによって、居場所において歴史的に生命を継続していく創造的な〈はたらき〉(「ドラマ」)を生み出していく。

→「鍵型の生命」のことを生命と呼び、「鍵穴型の生命」に括弧をつけて〈いのち〉と表すことにする。生命は個体の死によって消滅するが、〈いのち〉は個体の生と死を越えて居場所に歴史的に継続される〈はたらき〉となるのである。

・近代科学の大きな問題点は「鍵穴型の生命」を考えていないために、相互誘導合致によって鍵型の生命の拡大を止めて、人間と自然とが相互融合的に存在する形をつくる論理――仏教の「即の論理」に相当する論理――をもっていないことであり、つまり場の理論をもっていないのである。

 

中略

 

6.交換と贈与

・二重生命状態では、「個としての生命体」と「全体としての居場所」との間に「贈与することによって贈与される」という(明在と暗在の間の)境界を越える〈はたらき〉が循環的に生まれて相互誘導合致がおきている。

→このようにして居場所に記憶されていく〈はたらき〉は他の生命体にも開かれているために、同じ居場所に生活する多くの生命体に共有されていく。そしてさまざまな生命体の存在に影響を与えながら新しい相互誘導合致を生み出して継続的にその影響を続けていくのである。

・居場所への贈与の〈はたらき〉を忘れて、現代の資本主義経済がシステムとして発達していくと、この個と個の間の〈はたらき〉の交換が人間の生活全体に大きな影響を与え、また方法的にも高度化されて世界的にもれなく広がっていくために、もはやその交換という方法から離れて生活することが難しくなる。しかし、〈はたらき〉の交換は当事者の間だけに閉じた利害関係をつくることから、贈与のように個と全体の間の境界を越えることはできない。

・その結果として、人の行為をすべて利害関係を通して見ようとする心を強めるばかりでなく、心の自由を失われて自己の行為そのものも利害関係にとらわれてしまう状態が、家庭、近所、組織体、地域社会、国、世界、地球などさまざまな居場所に広がるのである。どんな居場所を見ても崩壊現象が見られ、人間がこの地上で生きつづけていくために必要な生命的基盤が急速に失われている。

→現在、人間が陥っている危機的状態から抜け出すためには、利害関係を越えて贈与し贈与される〈はたらき〉を喜びとする生き方を広める以外には方法がないと思われる。

 

7.贈与の喜び

・仕事することを喜びとする生き方と、苦しみとする生き方があるが、これは仕事の内容に関係しているのである。労働が居場所への贈与の形となるか、それとも他者の占有欲を充すためにおこなわれるかに関係している。また贈与の喜びと自己の占有の喜びとでは充足感が異なる。この喜びは贈与の循環から生まれてくるのである。

・したがってその労働意欲が非常に異なってくる。自己の占有欲を満足するための労働は競争を呼んで欲望がかぎりなく広がって行くために、常に満たされず、晴れ晴れと充実した日々を送ることはできない。

 

8.相互誘導合致技術の活用分野

「もつための技術」から「あるための技術」へ

1.自然環境と調和をするさまざまな場づくり

2.自然環境と調和をする経済、産業、農業の型の創出

3.地域社会における医療と介護

4.場の表現とコミュニケーション

5.場の文化の展開

と考える。

 

9.次の時代を拓く思想

:相似思想(一領域的思想)から相補思想(二領域的思想)へ

・近代において人間は〈いのち〉の居場所としての地球の遍在的生命を急速に破壊して、人間のための一領域的世界をつくってきた。

→この思想は、地球の形を人間の(自己中心的な意識の)形と「相似形」にしようとするものだから「相似思想」と呼ぶことができる。

・この「相似思想」に対して、人間と自然環境という二領域の形を能動的に継続して行くことを善とする思想を「相補思想」と呼ぶことにする。

→この思想は、居場所としての地球の〈はたらき〉と、その居場所における存在者であるさまざまな生きものの〈はたらき〉とが相互に誘い合って「鍵穴」と「鍵」のように合致する形をつくってはるばると〈いのち〉を私たちに伝えてきたと考える。

 

・そして自分がその〈いのち〉を受けた存在としていまここに存在していると自覚して、自分なりの努力によってその〈いのち〉を未来へつたえることが「要請」されているし、またそのように生きることが限られた一度だけの人生を甲斐あるものにすると考えるのである。

→相補思想はこのように生命倫理を根源から明らかにしていくと考える。

 

 

★終わりに(21年8月25日)(清水博からのメッセ―ジ)

〈いのち〉は生命と異なって、「存在を継続しようとする能動的な活き」ですから、生きている生きものが他の生きている生きものに、自己の〈いのち〉の一部を一時的に受け渡すことができます。ここから存在の非分離(共存在)という概念がでてきます。しかし生命では、自己の生命を他の生きものに渡すためには死ななければなりません。

この差を表現することから「与贈」という言葉が考えられて、「〈いのち〉の与贈」と「〈いのち〉の与贈循環」という言葉が出てくるのです。生命の場合は「贈与」の形でしか受け渡すことができないので、「生命の贈与」と、「生命の贈与循環」ということになります。もちろん、このような現象も起きますが、両者は現象としては区別されるべき異なる現象です。また、この差は、 相互誘導合致にも影響を与えます。

「贈与」と「与贈」の差の背景にあるのは、生命と〈いのち〉の差に対する理解であり、その差には場の研究所としての約10年余の歩みがあります。この論文には、まだ〈いのち〉の内容についての具体的な説明はありませんから、「論文中の贈与を与贈という言葉で置き換えて下さい。」とは言えないわけです。

しかしこの論文では、暗黙の直感がはたらいて、「贈与」が「与贈」の意味で使われていますので、そのまま読んでも誤りはおきないと思います。〈いのち〉という概念は、場の研究所として守らなければならない幹になる思想的概念であることをご理解いただければ幸いです

 

以上  

(資料抜粋:前川泰久)

               

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続いて、10月15日金曜日に開催された、「ネットを介した勉強会」の内容を配信いたします。

テーマは「〈いのち〉即興劇」でした。

 

◎第17回「ネットを介した勉強会」

 

<〈いのち〉の即興劇>

 

1.生きものが生きていく原理をあらわす法則

★相互誘導合致について:

・「鍵穴と鍵が互いに相手の形を自分の形に合うように誘い込みながら合致していく」ということ。

・生きものの身体の中の化学反応では、基質分子はそれを特異的に分解する酵素分子と互いに整合的に結びつくことが知られている。その結びつきをつくる活きをするのが相互誘導合致である。

・両者の結びつきは、単に立体的であるばかりでなく特異的であることから、「鍵」と「鍵穴」の関係に喩えられているのである。(免疫の場合も、抗原と抗体が相互誘導合致によって特異的につながる。)

 

2.「鍵」と「鍵穴」の発想について

・40年以上も前の話になるが、存在している場所に場が生まれて、人びとがその場の活きを受けているときには、人びとの〈いのち〉の活きとその場所に自己組織的に生まれる〈いのち〉の活きの間に、前者を「鍵」とし後者を「鍵穴」とする特異的な関係が生まれることに気づいて、私は「場は両者の間の相互誘導合致によって生まれる」と考えた。

・大まかに言えば、「鍵穴」としての場所の〈いのち〉が「鍵」としての人びとの〈いのち〉に与える活きが「場」に相当する。

→家庭や職場などの居場所に私たちが場を感じるのは、両者の間に相互誘導合致の法則がはたらいているからである。

 

3.相互誘導合致の法則について(全体と部分)

・機械の製造では、さまざまな「部分」を集め、そしてそれを適切に組み合わせて、「全体」をつくる。つまり「部分」から出発する。

・しかし生きものの世界では、その逆に、まず「全体」が生まれて、次にその「全体」のなかに「部分」が生まれ、そして相互誘導合致によって両者が統合すると同時に、「全体」が成長していくのである。

・最初にまず「全体」が生まれ、次にその全体のなかに「部分」が生まれて、相互誘導合致によって統合されながら「全体」が成長していくのが、生きものが生きていく姿である。

つまり、これまでの「全体」を「鍵穴」とし、新しく生まれた「部分」を「鍵」として、両者の相互誘導合致によって統合的に生まれるのである。

 

4.生きものの継続的存在について

・相互誘導合致によって成長を生みだしながら生きていくのが生きものの存在の姿であり、相互誘導合致は絶えず新しい「全体」をつくってその活きを新しくするが、同時にまたその「全体」では、「部分」の活きも矛盾的自己同一の形で、それぞれ新しく変っていくのである。

・生きものは、相互誘導合致によって新しい矛盾的自己同一を絶えず生み出しながら生きていく。それは相互誘導合致によって旧い「全体」が新しい「全体」に絶えず変わっていくということであるから、生きものが生きている場所には、絶えず旧から新への変化がおきていく。そのために生きものが存在している場所には歴史が生まれ、それを反映して歴史的時間が生まれていくのである。

・このように考えてみると、「歴史的時間が生まれつづける」ということこそが、生きものが継続的に存在している場所の最も重要な特徴である。 

 

5.〈いのち〉の即興劇について

・生きものがこのように生きている場所では、さまざまな〈いのち〉の活きが相互誘導合致的に統合されて時間とともに進んでいき、逆戻りしない。そして〈いのち〉の法則が相互誘導合致であることから、存在が不可逆的に進んで逆戻りしないという性質が生まれて、生きものが生きている場所に歴史が現れてくる。

・老化や死も、この不可逆な歴史的変化のなかで現れる生きものの存在の性質である。生きものの存在がこのように歴史的に進んでいくことを、私は「〈いのち〉の即興劇」とか「〈いのち〉のドラマ」とかと呼んできた。⇒それは〈いのち〉がシナリオをつくりながら進んでいく変化であることから、「〈いのち〉の即興劇」という名の方がよいかも知れない。

・その「即興劇」を演じていく生きものを「役者」、その「即興劇」が演じられている場所を「舞台」、そして、その場所とその周囲の環境を含めたところを「劇場」と呼んでいる。

→言いかえると、「劇場」は「役者」がいる「舞台」とその周囲の「観客」(環境)とからなっていて、「舞台」には「役者」が多数いて、それぞれが自己の〈いのち〉の活きを「舞台」に向けて表現するのである。

★この表現を「〈いのち〉の与贈」と呼ぶ。

・またこの与贈によって、「舞台」には「舞台」としての〈いのち〉の表現「一」が生まれて、その表現によって「役者」たちの〈いのち〉の表現「多」を包むから、全体としてみると矛盾的自己同一「一即多、多即一」が生まれていることになる。ここで「舞台」の〈いのち〉が「役者」たちの〈いのち〉を包むことを「〈いのち〉の与贈循環」と呼ぶ。

・まとめて考えると、〈いのち〉の与贈循環によって「即興劇」を進める歴史的な推進力が生まれ、相互誘導合致の法則によって矛盾的自己同一が歴史的に進んでいくことになる。

 

6.即興劇が生まれる条件

・この推進力の活きを受けるだけでは、まだ「即興劇」は生まれない。さらに「舞台」の上で「シナリオ」が自己組織的に生まれて、不可逆的に「即興劇」が進行していくことが必要である。つまり「即興劇」が進んでいくルートを決める活きが必要なのである。

・そのためには、「役者」がそれぞれ互いに異なる独自の「役」を演じていかなければならない。たとえば家庭における「即興劇」が歴史的に続いていくためには、夫婦の「役」が異なっていることが必要。

・「即興劇」が「舞台」で演じられていくためには、「役者」としての役割がそれぞれ「舞台」で唯一の存在になっていることが必要。

・つまり、「役者」それぞれに「舞台」における唯一の位置づけがあることが「即興劇」のためには必要である。そのことが「役者」の〈いのち〉の活きを主体的にするので、それぞれが自己の判断で〈いのち〉の活きを表現することができるのである。

・「役者」がそれぞれの存在を「舞台」という「鍵穴」に主体的に位置づけることによって、その「鍵穴」と相互誘導合致する一個の「鍵」を自己組織的に生み出していくのである

 

7.即興劇の拘束条件(内在的拘束条件と外在的拘束条件)

・シナリオが自己組織的に生み出されて「即興劇」が進んでいくためには、「舞台」の内在的拘束条件(内在的ルール)と外在的拘束条件(外在的ルール)とが共に満たされていく必要がある。

・内在的拘束条件とは、「〈いのち〉のドラマをこのように進めたい」という「役者」たちの思いに相当する。人びとの人生観も内在的拘束条件であり、人びとの生き方のシナリオをある程度限定する。

・外在的拘束条件とは環境から場所が受ける限定である。それは「舞台」における「役者」たちの表現に対する「観客」の反応に相当する。

・内在的拘束条件にどれほどかなっていても、「観客」が認めない、つまり外在的拘束条件に合わない「即興劇」を「役者」が演じ続けることはできない。

・またどれほど「観客」の反応がよくても、「役者」の構想に合わないドラマを即興的に続けることもできない。したがって内在的拘束条件と外在的拘束条件によって限定されたルートが「即興劇」を導くシナリオになるのである。

 

(以下、具体例として、樹木の生長や彫刻や民藝などを挙げて説明されました。)

 

★まとめ:

・相互誘導合致という階段を一歩上がって〈いのち〉の与贈循環を捉えることで、矛盾的自己同一の段階では未だわからなかった「〈いのち〉の即興劇」の姿が見えてくる。

・「〈いのち〉の即興劇」を生み出していくためには、たとえ小さくても先ず「全体」となる場所(〈いのち〉のオアシス)をつくり、そこに集まっている人びとの与贈によって新しい「部分」を生成し、与贈循環をともなう相互誘導合致によって「全体」の活きを大きくしていくことが始まりである。

・そして各人が場所における自分の役割を見出しながら、皆で内外両種の拘束条件を発見して、「〈いのち〉のドラマ」を先へ進めていくのである。活動が継続するためには両拘束条件の発見が重要なのである。

 

以上。

(抜粋:前川泰久)

              

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◎11月の「ネットを介した勉強会」開催について

 

11月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第3金曜日19日に開催予定です。

よろしくお願い致します。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

なお、今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2021年11月1日

場の研究所 前川泰久