場の研究所メールニュース 2022年06月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

6月になり、すがすがしい初夏の季節となりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

コロナの感染者数もだんだん減少し良い方向になってきておりますので、少しでも自由に動ける環境になることを期待しています。

しかし、ロシアのウクライナ侵攻は相変わらずで、まだまだ先が見えない状況で心が痛みます。

 

さて、5月の「ネットを介した勉強会」は5月20日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『老化と認知症』でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催は、従来通り第3金曜日の6月17日に予定しております。清水先生からの「楽譜」のテーマは『場所的存在感情』の予定です。

基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

 

今朝、とあるやりとりから、ふと、「ネットを介した勉強会」立ち上げ当時の感情が蘇ってきました。

それは、とても心地よく、暖かく、優しい気持ちにしてくれました。

 

2020年3月、大塚の研究所での勉強会の場をコロナ禍によって失った後、場の研究所の皆さんと、この後どうしたら良いものか、勉強会はどうしようか、などと、その後の活動の見当がつかず困っていました。

結果から書けば、どうやって学習を継続しようか、と考えてこの「ネットを介した勉強会」と繋がることになる訳ですが、この時、失うことになるのは「(大塚での)勉強会の機会」だと思っていましたし、何度か、ここでも書いたことがあったかと思います。

しかし、なんとなく、なのですが、そう言った使命感のようなものに動かされただけでは無いような気もしていました。

 

そのような中、今朝、清水先生からのメール(この文章の内容とは関係ない別件です。)を読み直していて、ある一文を読んだときに、ふと、唐突に、当時の気持ちが蘇ってきたのです。

それは。

「ああ、(大塚の研究所での)勉強会ができなくなってしまうと、清水先生に会えなくなる、声を聞けなくなる、前川さんや本多先生、他、勉強会に参加してくださっていた方々と会えなくなる、勉強会の後の食事会もできなくなる…」

そんな寂しさが、です。

そして、「そんな状況は嫌だな」、なんとしても学習の場を続けたいな、この後もこの出会いの場があって欲しい、そう感じていたことが思い出されました。

本当の意味でのネットを介した勉強会への動機は、ここにあったように思います。

 

そうして、実際、この想いは適って、場は継続して、そして更に、ネットを介したからこそ出会えた人もいるくらいの場に育ってくれています。

ありがたい気持ちでいっぱいです。

そして、今、このことを思い出せたことがまた嬉しいです。

 

以上。

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5月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第24回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

★テーマ:「老化と認知症」

◇老化という現象における新しい体験

・青春は、自分自身が思春期を越え、そして青年になって、はじめて本当に味わうことができる新しい体験であるように、老年も自分自身が本当に老化することによって、新しい体験として理解されるものである。

・しかも70歳代と80歳代後半(私(清水)の場合は88歳の後半から)とでは、その老化の程度が大きく異なる。私は今年の秋には90歳になるが、本当の意味で老化をはじめて味わったのは、88歳後半からである。

・何がどう変化をしたかだが、「自己とは何か?」そして「自己と居場所の相互誘導合致はどのようにしておきるのか?」ということが見えてきたのである。

 

◇「鍵」と「鍵穴」と「くり込み相互誘導合致」と自己

・「鍵」と「鍵穴」の「くり込み相互誘導合致」を分かりやすく理解する例えとしては、役者と舞台で考えるドラマの例えがよいと思う。

・その例えによると、

(1)「鍵」は役者に例えられ、「鍵穴」は舞台に例えられる。あるいは「鍵」をオーケストラの楽団員、「鍵穴」をオーケストラに例えることもできる。

(2)そして舞台やオーケストラは役者や楽団員の居場所であるが、その居場所はさらに大きな居場所があり、そしてその大きな居場所を代表しているものとして観客がいる。

(3)役者(楽団員)の表現と舞台(オーケストラ)の表現とは円環的時間によってつながっている。

(4)そして役者(楽団員)の〈いのち〉の表現は次々と舞台(オーケストラ)の〈いのち〉の表現(居場所の〈いのち〉の表現)にくり込まれて居場所の「歴史」を進めていく。そのことが「大きな居場所の歴史」を進めていく。

 

→私たちは生まれて以来、このような形によって居場所で自己と非分離に進行してきた歴史にくり込まれて生長してきたのである。

・その意味で「自己」とは誕生以来、「大きな居場所の歴史」にくり込まれて生長してきた「鍵穴」であり、「我」とは「大きな居場所」の束縛からいったん離れて、今の瞬間に個としての〈いのち〉の表現の自由を得た「鍵」である。

→過去を見るか未来を見るかで、「鍵穴」にも「鍵」にもなるのである。

 

◇老化による〈いのち〉の自己組織力の衰えについて

・誕生以来、このようにくり込みを進めて自己を創造的に成長させてきた活きは〈いのち〉の自己組織力(秩序のある大きな活きに自発的にまとまろうとする〈いのち〉の活き)である。

・私自身の体験を話せば、老化とはこの〈いのち〉の自己組織力が衰えることである。

→新しい「鍵」の形を受け止める新しい「鍵穴」の形ができたとしても、それをくり込んで自己として固定していく活きが衰えているわけであるから、新しい論理的に細かなできごとの習得が苦手になる。

・居場所における経験を円環的時間に貼り付けて記憶していく「糊」の役割をしているのが場所的な感情である。この「糊」がはたらけば自己組織力を補う。しかし論理的なできごとは直線的時間の上に乗せられて記憶されていくために、この「糊」がはたらかないのである。

 

◇円環的時間と直線的時間におけると記憶(思い出)の違い

・さまざまな場所で自己がその場所と非分離な状態で体験したことは円環的に自己に記憶されていく。

→したがって「大きな居場所」に関する私たちの記憶は円環的時間に記憶された様々な居場所の場面における記憶が自己組織的に集まった形をしていると考えられ、全体のなかから一つの場面だけを他から切り離して思い浮かべることができる。

・もしも、論理的なできごとの記憶のように、直線的時間の上にできごとの順に記憶されているのであれば、このようなことはできないと思う。また居場所の記憶は経験したそのときの感情をともなってよみがえり、その感情が老化することはほとんどない。

・子どもの時に体験した記憶は子どもの時の感情をともなってよみがえる。この感情がよみがえることが懐かしさを生み出す。

・これに対して居場所と分離した状態における思い出は時間が経つと忘れられていくし、特に懐かしさを感じさせることはない。高齢になると、このような記憶の忘却が目立ってくる。それは直線的時間の上に記録されているからではないかと思う。

 

◇円環的な時間における体験感情のよみがえり

・自己にくり込んできた様々な居場所における体験をまとめて一つにしておくのは〈いのち〉の自己組織力だが、老化によってその活きが衰えてくるために、忘れていた居場所における大昔の体験が突然思い出されてくることがある。

・たとえば最近では、勤め先から帰った若い父親が畳の上に上向きに寝て、白いエプロンを着けた幼い私の身体を両足の上に載せ、両手をもって足を伸ばして「高い、高い」と何度もあげてくれ、私は喜んで「タカタカ!」と何度もねだった状況が突然よみがえって驚いた。また小学生の頃の懐かしい場面や歌もその場面で経験した感情をともなって思い出すことがしばしばあり、その懐かしさに打たれる。

・ノスタルジー(郷愁)が生まれるのは、その場面で過去に体験した場所的感情がよみがえることによる。これらのことも、直線的な時間と異なって終わりを定義できないこと―――したがって円環的時間の永遠的な特徴を表している。

 

◇人生における相互誘導合致について

・高齢の者におけるこのような記憶のよみがえりは、大きく見れば死の準備にもなっているように思われる。それは、「今は存在しない人びとから、これだけ有り難い人生をいただいてきたから、自分の存在はもう十分満たされている。何時死んでもよい」というような気持ちになるからである。

・人生を生きていくことは「くり込み相互誘導合致」を続けていくことである。それは、「鍵」としての自己(「我」)と、「鍵穴」すなわち円環的時間に記録された多様な場所的記憶の自己組織体の間におきる相互誘導合致によって、円環的時間に記録された場所的記憶が生まれて自己組織体(「鍵穴」)に新しく加わることである。

・自己が一旦居場所から離れて表現の自由を「我」として獲得した上で、相互誘導合致によって円環的に居場所とつながって自己に戻っていくという形によって「鍵穴」としての表現に創造的に関わっていくのである。

・このように「我」としての主体的な自由を活かしながら居場所と創出的につながっていくところに、場所的な創造の深い真理がある。このことは著名なオーケストラにおける各楽団員の創造的な演奏を頭に置いて考えていただければ、よく分かると思う。

 

◇居場所の歴史の継続性について

・終わりを定義できない円環的時間によって、居場所における自己が生きている状態での経験が記憶されていくことは、居場所の歴史が自己の内部で続いているということである。

・それは外からは見えない形であっても、自己が生きている限り続いていく歴史である。そして自己の内側では、ほとんど経験したときのままの感情をともなって実在している。

・歴史というものは、そのような形で生きている人びとに内在的に実在し、そして外に現れてその活きを表現しては、また内在化するという形で継続していくものであると思う。

・家庭の歴史における家族の存在のあり方を考えてみれば、このことはよく分かると思う。

→したがって居場所が自己の内側にどのような形で存在するかが非常に重要な問題となる。その点を考えてみよう。

 

◇居場所モデルについて

・「くり込み相互誘導合致」の「鍵穴」には自己と居場所の非分離の状態が円環的時間によって記録されているということから、「鍵穴」は自己の状態を表していると考えることも、また居場所の状態を表していると考えることもできる。

・しかし居場所と言っても、それは一旦自己に取り込まれて居場所となった場所であり、家族としての犬猫などは別にして、その場所が人間以外の動物にとっても居場所となることはあまりないと思われる。

→ここで自己と居場所の非分離がどのような形で具体的に存在しているかを考えてみることにしよう。

・「鍵穴」を自己(場所的自己)と考えると、自分の身体を通して直接的に体得した多様な経験が円環的時間に記録されて自己組織的に自己に取り込まれていく。

・この居場所に関する多様な記憶の自己組織的な集まりから、自己の内部に「居場所モデル」が生成され、そしてそのモデルに自己が自己自身の存在を位置づけていくという形によって、自己と居場所の非分離な状態が自己の内部で生まれると考える。

・居場所モデルは固定されたものではなく、居場所における自己の新しい経験を踏まえて、絶えず更新されていく。場は自己が居場所モデルを場所と自覚することによって生まれる自己を取り巻く場所の状態である。

→したがって、場を自己の外から物理的な方法によって測定することはできない。

 

◇認知症と居場所モデルとの関係

・認知症は、一口に言えば、自己の内の多様な記憶から居場所モデルをつくる活きが衰えて次第に自己を居場所に位置づけることができなくなり、自己の存在を喪失していく病気である。

・この病気が進んでいくと、新しい場所的な体験をくり込んだ居場所モデルがつくれなくなっていくので、そのことが他者の妨害によるものではないかと誤解して敵意をいだくこともしばしばある。

→したがって他者が一緒に生活していくことが困難になる。

・次第に居場所と相互誘導合致できなくなり、自己の居場所モデルを確認するための場所の徘徊がはじまる。そして終には、居場所に自己として存在できなくなるという悲惨な状態になる。このように自己の存在喪失がどこまでも不可逆に進行していくのである。

 

◇介護の中心的な課題

・この病気の人が求めるような居場所モデルをどのようにして実質的に補って、居場所との相互誘導合致を助けるかということが介護の中心的な課題になる。

→病気の人が信頼して存在を任せられることがどうしても必要である。

・居場所における体験の記憶は感情という「糊」によって円環的時間に接着されている。その糊が接着力を失って記憶が剥がれ落ちてしまい、居場所モデルを作れなくなってくるため、必要なものは直線的な時間の上に記憶される論理によっておこなわれる正誤の判断ではなく、失われている場所的感情をそれとなく補うことである。

・求められるのは、円環的時間を生み出す限りない善意であり、直線的時間の上での論理ではないのである。

 

(場の研究所 清水 博)

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)