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場の研究所メールニュース 2023年10月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

 

10月になりました。暑かった9月も彼岸を過ぎて急に朝晩が涼しくなり、一気に秋へ向かっていると感じております。

コロナに加えインフルエンザについても、残念ながら感染拡大傾向で、どちらも自己防衛対策をするしかないですね。是非、皆様も体調管理をしっかりなさってください。

 

さて、場の研究所の第39回「ネットを介した勉強会」は、9月15日(金曜日)に開催いたしました。「楽譜」のテーマは『〈いのち〉のドラマと時間』でした。ご参加してくださった方々、ありがとうございました。

 なお、「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースの内容を是非参考にして下さい。

 

そして、10月の「ネットを介した勉強会」の開催は第3金曜日の10月20日を予定しております。よろしくお願いいたします。清水先生の「楽譜」のテーマは『AIの論理を超える場の理論』の予定です。話題のAIをどう捉えるか議論できると思います。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

 

・2023年9月の勉強会の内容の紹介:

◎第39回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

★テーマ:『生命の誕生と場』

◇共存在という概念

・ここで言う「〈いのち〉のドラマ」は、多様な生活体が同じ場所を共有して、共に存在して調和的に生きていくことである。

・たとえば、私たちの身体の腹腔には、互いにまったく異なる活きをする様々な臓器や器官が存在している。でも、互いの活きを邪魔し合うことなく、身体全体の活きを通して助け合いながら調和的に存在している。

・この状態のことを、私は「共存在」と名づけてきたが、様々な生活体や場所にも拡張できる概念だと思う。

 

◇「〈いのち〉のドラマ」生成の重要性

・存在している場所をドラマの「舞台」とし、そこで生きている多様な生活体をそれぞれ「役者」として実現していく共存在状態が「〈いのち〉のドラマ」である。

・この「〈いのち〉のドラマ」が生成するためには、「舞台」としての場所に生まれる場の活きが必要であり、しかもその場の活きがホスト━ゲスト問題を実現する形で生成される必要がある。

・人類にとって、今や地球を場所とする共存在は最大の課題であるから、地球を「舞台」とし、多様な人びとがそれぞれ異なる「役者」となって演じていく「〈いのち〉のドラマ」の生成こそが、現在実現を強く待たれている人類の夢であると言ってもよいと思う。

・では、そのために私たちは、どの様に生きていけばよいだろうか?

・〈いのち〉のドラマで必要なのは「舞台」の時間の共有である。空間としての「舞台」を共有していることは前提であるから、多様な「役者」が時間としての「舞台」の活きを共有すれば共存在状態が生まれることになる。

・その方法が、ホストを一定に決めて、それぞれがゲストとなってホストに対して〈いのち〉の活きを与贈して、〈いのち〉の与贈循環によってホストから場の活きを受けて、その活きにしたがって生きていくこと、すなわちホスト━ゲスト問題を実現するように生きていくことなのである。

 

◇「生きている」から「生きていく」へ

・自己が自己の場所に「生きている」という状態と、自己の場所において「生きていく」という状態は異なっている。

・前者では自己の意志は必要ないが、後者では、どのように生きていくかについて、自己の意志が必要になるからである。

・それでは、一般に私たちはどのようにして生きていく方法を発見しているのだろうか?

・自己が自己自身の状態を目的として、生きていく方法を直接的に決めようとすると、自己が自己自身を言及していかなければならない形になり、自己言及がつくり出す論理的な矛盾にぶつかってしまうので実行できない。

・そこで自己自身とは異なる目標(ホスト)を場所に決めて、場所においてそのホストとホスト━ゲスト問題を実践していくゲストとして自己が生きていくという方法をとることになる。これが場所における与贈循環の方法である。

・そのためには、個室にしろ、家庭にしろ、職場にしろ、地域社会にしろ、国家にしろ、自己が存在している場所が「舞台」となって、自己がその「舞台」において「〈いのち〉のドラマ」を演じていく「役者」となって、「生きていく」ことになる。

・自己言及の矛盾を避けるためには、これ以外の生き方はできない。

→言いかえると、その何れにしろ、自己はホスト━ゲスト問題がつくる〈いのち〉のドラマの場において生きていくことになる。

 

◇場がもたらす時間について

・自己言及の矛盾を避けるために、どうしてもまず場所にホストを決めて、そしてホスト━ゲスト問題の形をつくって生きていくという形が必要になるが、ここから必然的に生まれる活きとして「時間」がある。

・それは〈いのち〉のドラマという自己の歴史が場所に現れることに伴って生まれる不可逆な時間であり、一生という歴史的時間を自己にもたらす活きをする。

・私たちが場所において生きていくという存在のあり方が私たちに歴史的時間をもたらすのである。それは居場所に生まれる場がもたらす時間であると言ってもよいであろう。

 

◇時間はなぜ生まれるか?

・このようなことと関係して、「時間はなぜ生まれるのか?」という問いがある。

・ミヒャエル・エンデの童話『モモ』では、灰色の自動車を運転し、灰色の服装をして、絶えず葉巻をくゆらしている人びとが働いている時間貯蓄銀行という組織が社会で働く様々な人びとからそれぞれの人生の時間を、その銀行に貯蓄させるという形で人びとから〈いのち〉のドラマを奪っていく。

・しかし、その組織の活動にとって邪魔になるのがモモという女の児である。その児は古い円形劇場の跡に一人で住んでいて、他の人の話を聞く暇がたっぷりあるばかりでなく、話の聞き上手で、しかも一緒に存在する居場所をつくるために必要なホストを発見する才能にも恵まれている。

・そこで、その児の周りでは何時も〈いのち〉のドラマが生まれ続けているために、時間貯蓄銀行にとって敵という存在になってしまうのである。

 

◇ミヒャエル・エンデの「モモ」における時間について

・「時間貯蓄銀行が人びとに貯蓄させる時間とはそもそも何か?」、そして「その時間はどのようにして生まれるのか?」、また「その時間がある間は、人びとが生きていけるのは何故か?」ということが、この『モモ』という童話を読んでいる間に、暗黙の前提として大きな問題になってくる。

・つまり、時間貯蓄銀行が狙っている人びとの時間はどのようにして生まれるのかということが中心的な問題になるのである。ドイツで生まれたこの童話でも、ホスト━ゲスト問題が中心的な活きをして〈いのち〉のドラマを導いていることは間違いない。

・最終的には、モモは時間を司る超越的な存在者に助けられて、時間貯蓄銀行の金庫に蓄積されていた時間を取り戻して、銀行のシステムを壊したために、人びとはその日常の生活における〈いのち〉のドラマを取り戻すことができたのである。

 

◇俳句におけるホスト━ゲスト問題

・時間の生成を場の活きに結びつけて理解しようとして気がついたのであるが、松尾芭蕉の俳句の5,7,5の表現は「ホスト、場所の相互誘導合致の活き、ゲスト」の形をしている。

 

たとえば

  古池や 蛙飛び込む 水の音

という句では、ホストは(古池の)閑かさであり、ゲストは(蛙がたてた)水の音である。そして(ホストである閑かさの)場所は古池である。そして俳句のテーマはホスト━ゲスト問題によるホストとゲストの相互誘導合致(時間的な調和)である。

・また

  閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声

という句では、ホストは(山寺の)閑かさであり、ゲストは蝉の声である。

・そしてホストが存在する場所には岩があり、「岩にしみ入る」という形でホストとゲストの相互誘導合致がおきている。

・また

  暑き日を 海にいれたり 最上川

という句では、ホストは暑き日であり、ゲストは最上川である。そしてホスト━ゲスト問題によるホストとゲストの相互誘導合致は、場所である暑き日の海に流れ込む最上川の(自然としての)活きである。

・また

山路きて 何やらゆかし すみれ草

という句では、「山路」がホスト、「すみれ草」がゲスト、「山路きて何やらゆかし」がホストの居場所におけるとゲストとの相互誘導合致に相当すると思う。

・この単純な表現の中に、間接的な形で〈いのち〉のドラマの「時間」が詠まれていることが、表現に深みを与えている。

 

・5,7,5という日本語の単純な表現形式の中に、ホストとゲストの相互誘導合致によって生まれる〈いのち〉のドラマの時間を表現しているところが、松尾芭蕉の俳句の素晴らしい所だと思う。

→したがって、「時間」を生み出す活きをしている場が様々な形で表現されることになる。

・たとえば、

  花の雲 鐘は上野か 浅草か

  夏草や 兵どもが 夢の跡

  旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る

には、それぞれ場が詠まれている。

 

◇「〈いのち〉のドラマ」の時間と思い出

・子どもの頃の懐かしい日々を思い出すと、その思い出にはその時経験した心に深く感じた場の活きが付いており、そのことが再び経験することがない過去の〈いのち〉のドラマの時間に心にしみいるような懐かしさを与えている。

・特に今はもう存在しない父母や祖父母そして親友と経験した〈いのち〉のドラマには、その時に深く心に感じた場が結びついて思い出され、そのことが心に深く、そして温かい活きを与えて、過去の日を現在に伝えているのである。

 

◇人生の良い体験とホスト━ゲスト問題

・人生のよい体験とは、心に深く結びつく場の活きを〈いのち〉のドラマにおいて感じることであり、そこにはホスト━ゲスト問題による場の活きが出現して、その体験を深く心に結びつけているのである。

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

 

               

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◎2023年10月の「ネットを介した勉強会」開催について

2023年10月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、第3金曜日の10月20日に開催予定です。よろしくお願いいたします。

 

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。(参加費は無料です。)

 

場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2023年10月1日

場の研究所 前川泰久