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場の研究所メールニュース 2024年01月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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2024年になりました。

皆様いかがお過ごしでしょうか?

 

元旦から、能登を中心とした大地震が起きてしまいました。

被害も甚大で、まだまだ全容がつかめていない状況ですが、被災に遭われた方々へ、心よりお悔やみを申し上げます。

いち早い救済と復興をお祈りするばかりです。

 

場の研究所の活動ですが、昨年はいろいろ皆様にお世話になりました。ありがとうございました。

お陰様で「ネットを介した勉強会」は42回と長く継続させていただいています。

今年も、勉強会を中心に活動を進めて参りますので、是非よろしくお願いいたします。

 

さて、場の研究所の第42回「ネットを介した勉強会」は、12月15日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『生命の誕生と場』でした。ご参加してくださった方々、ありがとうございました。

このテーマは、12月の勉強会の際にご説明しましたように、昨年7月の勉強会と同じテーマ名ですが、清水先生から表現に曖昧な部分があり、より理解し易くした内容で皆さんと再度議論したいということで加筆修正されたものです。実際の勉強会では、新たに多くの意見が寄せられて良い議論が出来たと思います。

加筆修正された12月のテキスト(楽譜)の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

そして、1月の「ネットを介した勉強会」の開催は第3金曜日の1月19日を予定しております。よろしくお願いいたします。清水先生の「楽譜」のテーマは『場所と阿頼耶識』の予定です。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

(場の研究所 前川泰久)

 

・2023年12月の勉強会の内容の紹介:

◎第42回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

 

★楽譜テーマ:『生命の誕生と場』

 

◇「場とは何か」を考える

・前回の勉強会では、場とは何かを生命から引き出す理論をつくることはできないが、〈いのち〉から出発してホスト━ゲスト問題の形をつくれば、場とは何かを普遍的な形で明らかにすることができるという説明をした。

・それは、生命から出発して場を説明できないのは、場の活きによって生命が生まれるからであり、論理的に順序が逆になるからである。

・このことは、場の活きを使えば、ホスト━ゲスト問題の形で、多様な「個の〈いのち〉」からその個が集まった「場所の生命」の継続的な生成による維持を論理的に考えることができるということを意味している。

 

◇生命におけるホスト━ゲスト問題について

・このような形で生成維持される生命は、細胞の集まりから始まって、多様な動物や植物、さらには、たとえば私たちの家庭、企業、国家、そして最終的には地球そのものというように、様々な分野とレベルに広く存在している。

・前回考えた私たちの家庭であるが、昔はいざ知らず、少なくとも現在の社会的状況では、夫と妻の内のどちらかを場所におけるホストとして考えることはできない。そこで両者がよく話し合って、「ホスト」の活きを家庭につくり出し、それぞれはその「ホスト」の下での「ゲスト」として、家庭という〈いのち〉の場所を中心に振る舞っていくということになると思う。

・そして、その「ホスト」が家庭生活という「〈いのち〉のドラマ」の「監督」に相当することになり、その形は、憲法という「ホスト」の下における国民の生活に少し似ている。

・新しい家庭のこのような生成は夫婦の〈いのち〉の活きからの場所の生命の生成による維持であり、そこにその生命の歴史が生まれていくのである。

・場という「舞台」の状態が家庭という場所に生まれなければ、〈いのち〉のドラマは継続して行かないので、このような場所の生命の誕生とその生成的な維持はおきないということになる。

 

◇円環的時間について

・「ドラマ」が生まれるということは、時間が生まれるということを意味している。

・その時間は場所の歴史的時間に相当するが、直線的に進行する物理的な時間ではなく、未来の方に生成的に進行するばかりでなく、生成されていく状態が過去の状態とも整合しているかどうか━つまり、歴史的に整合しているかどうか━を確かめながら進んでいくという、未来と過去の間を円環的に循環しながら進んで行く円環的時間である。

・この〈いのち〉のドラマの円環的な進行は、親鸞の浄土真宗の往相回向と還相回向の循環と同じ形をしているのである。

 

◇時間差相互誘導合致について(場を介して互いに関係することで調和的につながる)

・〈いのち〉の活きから場所の生命が生まれるということの基盤には、このように歴史的時間の絶え間のない生成ということが存在していなければならない。また歴史的時間は円環的時間でなければならない。その円環的時間は場所における場の活きによって生成されるものである。

・私たちは過去の勉強会で「時間差相互誘導合致」を取り上げたが、それは次のような事実とも関係している。

・私たちの腹腔という場所には、性質が相互にまったく異なる多様な臓器が一緒に調和的に存在している。そのような存在ができるのは、それぞれの臓器の存在が腹腔(身体)という場所を媒介にしてつながっているからである。

・性質がまったく異なるために、直接つながろうとすると互いに反発して共存在できない多様な存在者が、「存在の場所」に互いに与贈しあって関係すると、調和的につながることができるのである。それは、場所に全体を包む場の活きが生まれるからである。

・「舞台」の上の場を媒介にしてつながるために、性質の異なる「役者」が調和的につながることができるのである。これは「一即多、多即一」(西田哲学)の矛盾的自己同一で表現されている。

・この状態を次のように考えることができる。

→調和的な共存在状態が場所に生まれることを「目的」として、それぞれの臓器がその〈いのち〉をすべての臓器を含めた場所―自分自身を含めた場所―に与贈して、「場所の〈いのち〉」を自己組織的に生成して、その場所と相互誘導合致をしている。

その場所を存在全体として見ると、そこにはその場所に存在するすべての臓器が含まれている。

それは〈いのち〉のドラマの舞台(場所)を、ドラマという歴史が進行していく場所全体として見ると、そこにはすべての役者が存在しているので、その舞台ですべての役者がドラマを演じていくことは、少なくとも最終的には、自分自身の役柄とも合致した存在をその舞台に生成していくということである。

もしも〈いのち〉のドラマが歴史的に継続して未来へ向かって発展的に続いていくようなら、場所に「場所の生命」が誕生したと考えてもよいのではないかと思う。さらに厳密には、その死についても考える必要があるかと思う。

 

◇場所的共存在を進めていく活きについて

・生きている限り、臓器は様々な病気にかかる。深刻な状態では、手術や臓器移植もおこなわれる。このようなことから分かるように、身体という場所における臓器の共存在は、最終的には安定した調和に向かわなければならない。

・そのためには、相互誘導合致のように安定した状態に向かって〈いのち〉のドラマを進めていく活きが身体(場所)に必要になる。そこで現在における存在状態(相違)を出発として、多様な「役者」が同じ「舞台」(場所)において未来における場所的共存在を進めていく活きを時間差相互誘導合致と名づけて勉強した。

・繰り返しになるかも知れないが、時間差相互誘導合致の一番重要な点は、歴史的時間である円環的時間がホスト━ゲスト問題の形で生まれるということ、つまり時間差の生成である。

・それを可能にしているのは、多様な存在者である臓器からの〈いのち〉の与贈によって「場所の〈いのち〉」を元にして身体の生命が継続的に自己組織されて、その生命に多様な存在者の〈いのち〉が包まれるという事実である。

 

◇円環的時間の流れと共に起きる変化

・〈いのち〉のドラマを流れる時間は場所の過去と未来を円環的につなぎ続ける歴史的時間である。

・〈いのち〉のドラマの生成が続いていくことが歴史的時間の生成に他ならない。この円環的な時間の流れとともに、場所の旧い状態が消えて、新しい状態が生まれる。

・言いかえると、場所の歴史的な変化がおきる。その歴史的変化では過去が消えて未来が生まれるから、旧い物質的な状態が消えて新しい物質的な状態が生まれる、物質的な面での新陳代謝がおこる。

・そのことがあって歴史が進み、〈いのち〉のドラマが進行していくのである。歴史的時間の生成に他ならない。

 

◇〈いのち〉の与贈により起きる流れ

・場所に生命が生まれて「〈いのち〉のドラマ」が進行していくことを、〈いのち〉と場の活きから考えていくためには、ホスト━ゲスト問題の場所に〈いのち〉の与贈循環をベースにして〈いのち〉のドラマが生まれて、歴史的な時間や物質の流れがおきることが中心になる。

・さらに具体的には、情報やエネルギーの面でもこの場所的変化を具体的に出現させるために必要な変化がおきて、それが歴史的に継続して行くことが必要である。

 

◇高齢者(清水自身)の円環的時間について

・人生を長く生きて、私のように90歳を越えると、〈いのち〉のドラマも終わりに近づき、未来の夢を考えることができなくなり、これまでのように円環的時間が生まれにくくなってくる。

・ほんの僅かしか残っていないにしろ、「残されている未来における自己」を気兼ねなく思うことができたのは、私の場合は88歳までである。90歳の現在では、「残されている未来」はもうほとんど無くなったという思いが強くなり、元気で生きていられる間に自分に課せられている責任をできる限り果たしていこうという思いで生きている。

・私の〈いのち〉のドラマには、現在までの生と近い未来における死の間に円環的時間が生まれて自己を前に進めているのである。私の場合は場の活きは大きく変わらず、むしろ深まっていくが、90歳になった頃からモノとエネルギーと情報の活きが自分から急速に失われていき、生命を支えている力が無くなっていくことが実感されている。

・その変化がこれまで自己がこれまでの人生で体験した生命の変化のなかでも、最も速いものであることが未来に向かって生きていく自信を失わせていくのである。しかし、その自己に未来に向かって生きていく気持ちを与えて、支えている活きがある。

・それはホスト━ゲスト問題の形でおこなわれてきた〈いのち〉の与贈循環によって生まれた場の活きであり、私の場合は、それは家庭という場所における妻との生活、そして場の研究所を中心にした場所における何人かの人びととの支え合いの活動によって生まれてくるものである。

・その〈いのち〉の与贈循環が円環的時間を私に贈ってくれるのである。それらは人生における最高のプレゼントである。

・言いかえると、人生は最終的には〈いのち〉の与贈循環によって支え合うものなのである。

・一般に場所を生命の拠り所として何人かの人が生きていこうとする時には、先ずその場所における「ホスト」(場のテーマ)を見出して、ホスト━ゲスト問題の形をつくって一緒に生きていくと、自然に〈いのち〉の与贈循環が場所に生まれて、場の活きによって〈いのち〉のドラマが自然に進行する。

・問題を前にして、その場で対応を決めようとすると、互いの間に複雑な感情が生まれて、自己の〈いのち〉を場所に与贈しようという気持ちがなかなか生まれないので、問題が難しくなってしまうのである。

・私が90歳に近づいてから支えられてきたのは、家庭と場の研究所に自然に生まれてくる〈いのち〉のドラマ、つまり両者の生命である。

 

◇生命は消えても〈いのち〉は無くならない

・死は生命の終わりを意味しているが、それを〈いのち〉の活きから考えると、地球という場所の〈いのち〉からいただき、そして場所によって支えられてきた生命を、もとの場所に〈いのち〉として返していくことである。

・地球という存在の場所に「場所の〈いのち〉」が自己組織的に続くかぎり、個としての生命は消えても、場所の生命がなくなることはない。

・それは数えることができない〈いのち〉から生まれる生命、すなわち無量寿である。そして地球を「ホスト」として生まれる時間差相互誘導合致の活きが続くかぎり、その生命も何らかの形で続いていくと思われる

 

◇無量寿経の解釈と私(清水)の生命論

・このような観点から自己の存在をその生と死を含めて考えていこうとすると、「ホスト」としての地球の〈いのち〉を阿弥陀如来と見立てて、ホスト━ゲスト問題の物語的表現として無量寿経を見ることは無意味ではないと思う。

・信じるか、どうかは別として、親鸞の無量寿経の解釈は、上記の私の生命論と論理的には同じ形をしている。それは日本の場の文化が生み出した宗教であると思う。

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)