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場の研究所メールニュース 2024年03月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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3月になりました。今年は温かい日が多いので桜前線の北上も早いそうです。

しかし、三寒四温の言葉のように、まだまだ寒い日もありますので、皆様お身体大切になさってください。

 

さて、2月の勉強会は、16日の金曜日に開催いたしました。

テーマは『共存在と与贈循環』でした。ご参加してくださった方々、ありがとうございました。

 

2月のテキスト(楽譜)の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

そして、3月の「ネットを介した勉強会の開催は3月1日が金曜日なので、第3金曜日では少し早いかと思いますので、第4金曜日の3月22日を予定しております。よろしくお願いいたします。

清水先生の「楽譜」のテーマは『数えられない存在』の予定です。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

(場の研究所 前川泰久)

 

・2024年2月の勉強会の内容の紹介:

◎第44回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

 

★楽譜テーマ:『共存在と与贈循環』

 

◇2つの与贈循環について

・私たちの身体に幾兆個という細胞を共存在させるために、心臓が絶えず働いて血液を循環させていることからも分かるように、共存在と与贈循環とは結びついた現象である。

・事実、どの様な場所に存在者の共存在を生み出すかによって、その与贈循環の形も変わってくる。私たちにとって卑近な例としては、それぞれの家庭における家族の共存在と、地球における私たちを含めるさまざまな動物や植物の共存在とがある。

・これらの例では与贈循環をするものは、前者では家庭という場所における〈いのち〉であり、後者では地球という場所における〈生命〉(じつぞんせいめい)である。

 

◇〈生命〉(じつぞんせいめい)という新しい定義

・ここで〈生命〉とは、私が初めて定義をする概念であり、生命だけでなくその生命を支えているモノとしての存在をも含めるものである。

・例えば人が死ぬということは、その生命が無くなるということだけではなく、〈生命〉が無くなるということを意味している。

・地球における存在者としての生物の共存在を考えるときに、なぜ〈生命〉の与贈循環を考えなければならないのかを説明していくことにしよう。

 

◇林における楓を例にした与贈循環の活きについて

・広い林があって、さまざまな木がたくさん生えていると考えよう。その中の1本の楓に注目することにする。

・春の心地よい風に吹かれるとその枝からは、幼子のように初々しい浅いみどりが沢山芽を出し、楓の木という場所から与贈されてくるさまざまな物質を受けて成長していく

・その新芽の一つ一つにそれぞれの生命があり、その様子は家庭における家族の誕生のようである。

・やがて新芽がしっかり開いて、太陽の光を受けるようになると、光合成によって生み出した〈いのち〉の活きを沢山の葉が場所としての楓の木の方へ与贈し、そこで場所的な〈いのち〉を自己組織していくので、夏も過ぎるころには、活発な〈いのち〉の与贈循環によって楓は年輪を重ねて一段と成長する。

・楓の葉の与贈循環の活きに対して、秋には木の方から感謝の紅い色が送られて、その見事な美しさに対して地球に住む多くの生きものたちからの賞賛を受けるのである。

 

◇〈生命〉が消えていく過程の重要性

・しかし楓の葉も生命をもって存在している限り、何時までも場所にとどまっていることはできない。

・木から落ちて丸くなり、風に吹かれて林の中を転げていき、何処かの場所で昆虫やバクテリアによって分解させて物質化しながら林の土を肥やしたり、また雨に流されて最終的には海に出てさまざまな微生物や動物性や植物性のプランクトンの餌になったりして、貝や魚に食べられる。

・その貝や魚をさまざまな鳥や陸に住む動物たちも食べることから、楓の葉が木から落ちて、その〈生命〉が消えていく過程は、地球のおける生きものの共存在に対して非常に重要な与贈循環になっていると考えられる。

 

◇地球という場所での〈生命〉の与贈循環

・上に書いた例は、林における他の木にも、また動物たちにも当てはまる。もちろん、人間も例外ではない。

・まとめて言えば、地球という場所において、動物と植物、また陸生と水生のさまざまな生きものが共存在してきたのは、その共存在を支えている与贈循環が存在しているからであり、その与贈循環は〈いのち〉の与贈循環だけではなく、〈生命〉の与贈循環が中心であると結論される。

 

◇近代社会の生命に対する軽視について

・人間の社会では、昔は知らず、近代社会では人や動物の死を「生命が無くなること」とだけ考えて、モノとしての存在の面を軽視しているように思われる。

・しかし地球における生きものの共存在を成り立たせているのは、〈生命〉の与贈循環であり、死は存在者としての自己の〈生命〉を場所的生命体としての地球に与贈することなのである。

・そのことは同時に、場所的生命体として地球に自己組織される場所的〈生命〉から与贈される活きに包まれて、私たち人間は存在しているということである。

・そして、その自己の死が〈生命〉である自己の存在の地球への与贈なのである。この事実がある限り、宗教はさまざまな形で人間の社会に続いていくと私(清水)は思う。

 

◇存在と与贈の〈生命〉を生きることの重要性

・共存在の場所である地球の上で人生を送ることは、生命を生きることではなく、存在と与贈の〈生命〉を生きることでなければ、どこかで矛盾が生まれてしまう。

・そういう人生にも関係して、既存の宗教の対立を乗り越える新しい思想は地球における〈生命〉の与贈循環から出発するものでなければならない。

・また生命科学は、さらに一般的には〈生命〉科学でなければならない。

 

◇〈生命〉に基礎を置く人権の必要性

・親しい人が亡くなったときには、その生命を失ったことが悲しいばかりでなく、〈生命〉を失ったことがさらに深く悲しく、そして何時までもそれが続くのである。

・そこには、地球の歴史でたった一つだけの存在の喪失が含まれているからある。

・人権の尊さ、そしてさまざまな生きものの存在の尊さには、地球における生きものの共存在を生み出してきた地球という場所における〈生命〉の与贈循環の活きが含まれている。

・存在を含んでいない生命に基礎を置いて、近代思想の人権が定義されてきたとしたら、現在の地球が必要としているものは〈生命〉に基礎を置く人権である

 

◇場所における対話のありかた

・一つの場所における対話、それはオーケストラに例えられる私たちの勉強会もそうだが、〈生命〉すなわち互いの生命の存在論的な唯一性に基礎を置いておこなわれるものでなければならないと思う。

・それを経験することで、互いの〈生命〉の形が見えてきて、対話の場所における〈生命〉の与贈循環の姿が見えてくるものでなければならない。

・対話は、それが〈生命〉の対話である時に、人生の新しい経験となるのである。

 

◇藝術と〈生命〉の関係

・〈生命〉の与贈循環を基盤にして生まれる藝術は、その基盤が地球における共存在を生み出している活きであることから、それに自己と自然のつながりを深める活きがある。

・ガウディの建築の見事さに惹かれて、私(清水)は若い頃に数度バルセロナを訪ねたが、「なぜ惹かれたか」と言われれば、彼の建築を通して触れる自然の美しさに惹かれたからであった。

・私だけの経験かも知れないが、優れた藝術は、どのような形のものにしろ、心に深く懐かしさを感じさせる。

・それは〈生命〉の与贈循環が人生における〈生命〉の共存在の経験を生み出していくことに原因があると私は思う。

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)