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場の研究所 定例勉強会のご案内
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ホームページ:http://www.banokenkyujo.org/
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「〈いのち〉を居場所に与贈して〈いのち〉の与贈循環を生み出そう」
〈いのち〉とは「存在を続けようとする能動的な活き」である。
(清水博)
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2018年10月のメールニュースをお届けいたします。
◎2018年8月は夏休みとさせていただきました。
また9月は1日に2018場のシンポジウムを開催しましたので、
勉強会は中止といたしました。
なおシンポジウムの前にNPO法人「場の研究所」の総会も
開催し、こちらも終了いたしました。
今回のニュ―スでは、シンポジウムに参加されなかった方へ、
少しでも当日の内容をお知らせしたいと考え、少々多めの
資料を配信させていただきます。ご理解ください。
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◎「場の研究所のシンポジウム2018
・テーマ『二重存在と日本の表現』
----- 世界に存在する自分、世界として存在する自分 -----
〈講演内容〉
1.『二重存在がつくりだす表現について』
NPO法人場の研究所 清水 博所長
2.『日本思想の基層にある二重性』
東大名誉教授 竹内整一氏
3.『民藝:二重存在が生み出す美』
日本民藝館学芸部長 杉山享司氏
4.パネルディスカッション
・日時:2018年9月1日(土曜)13:30-18:00
・場所:エーザイ株式会社 大ホール
上記のように、3つの講演をメインに開催しました。
約80名の方々にご参加をいただき、無事終了できました。
ここで、講演内容を掲載します。清水先生の講演を主にまとめて
あり、竹内先生、杉山先生の講演内容につきましては、紙面の
関係上、簡単にご紹介させていただきます。
よろしくお願いいたします。
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1.『二重存在がつくりだす表現について』
NPO法人場の研究所 清水 博所長
・人間の在り方(存在)がどこか間違っている:
人間の在り方(存在)が地球の在り方(存在)とが、合って
いないために深刻な矛盾が生まれており、このままでは長く
生きていけない。この問題の核心は「多数多様な個体が限られた
同じ居場所に全体的な秩序(居場所の〈いのち〉)をつくって
一緒に生活して行くためには、何をすることが必要か」という
ことである。⇒(キーは「二重存在という考え」である)
存在者(存在しているもの;有)と存在(存在していること:無)
とは異なっている。西洋哲学では、プラトン以後、存在者は考え
ても、存在を考えてこなかった。ハイデガー『存在と時間』は、
存在を哲学の問題としてはじめて取り上げた。
近代科学(生命科学)でも、存在者を研究しても存在を研究して
こなかった。清水の『〈いのち〉の自己組織』は、〈いのち〉(存在
を継続していく能動的な活き)を科学の問題としてはじめて取り
上げた。
・ハイデガーの存在論について:
人間は、現にそこDaに在るsein(Dasein現存在)として、
自己の世界内存在を理解する。そして世界に対する気遣い
(結局は自己の存在に対する配慮)によってその在り方が決まる。
1 未来に必ずおきる自己の死を考慮に入れる「本来的存在」
2 世間を気遣い自己の死を忘れて「人」に合わせて生きる
「非本来的存在」との二つの存在の間を現存在は揺れ動いて
生きていく。
本来的存在の重要な特徴は、自己を超えて外へ広がる脱自的
「時間性」 として存在が 現れることである。
⇒それは自己の死のある未来から現存在を時間化する
(意味づける)活きになる。
しかしハイデガーの存在論は世界に在る自己以外の存在者の
存在を一般的に表現できない。
⇒ それは自己とそれらの存在者の関係が自己への道具性に
よって捉えられていることと関係がある。
⇒ それは自己中心的な形で現存在を時間性の形で捉えたが、
共存在を表現するのに必要な場所性を見落としていることによる。
・〈いのち〉の科学における二重存在:
ハイデガーの本来的存在と非本来的存在に代わって、現存在
には「個体としての存在」と「居場所としての存在」という
「二重存在」があると、〈いのち〉の科学では考える。
たとえば家族には「個人としての存在」と「家庭の一部として
の存在」という二重存在がある。(向田邦子:『寺内貫太郎一家』)
ここで家族は家庭という居場所の一部として共存在している
人々のことであるが、それと矛盾することなく、互いに独立して、
それぞれの人生を生きていく個体としても存在をしている。
ここで重要なことは、
1 ハイデガーの「本来的存在」が〈いのち〉の科学の「個体
としての存在」に、「非本来的存在」が「居場所としての存在」
に対応 していること。
2 「個体としての存在」と「居場所としての存在」は、個体の
〈いのち〉の居場所への与贈、そして与贈された〈いのち〉の
居場所の〈いのち〉への自己組織的な変化によってつながること。
(与贈力 → 場所的存在感)
3 居場所から個体に場として与えられる〈いのち〉の与贈循環
によって、存在の場所性と時間性とが統合されて、「〈いのち〉
のドラマ」 としての生活が生まれることである。
⇒個体の存在は互いに独立しているが、その〈いのち〉を居場所
へ与贈することによって「居場所としての存在」を獲得して
共存在する。逆に言うと、居場所としての存在が生まれて与贈
循環が起きるためには、互いに独立した個体の存在が必要である。
居場所としての家庭は、単なる住宅と異なって、家族の活き
によって生活をしていく「生活体」として、家庭としての歴史を
生みだしていく。このことは家庭を「舞台」にして、家族がその
舞台における「即興劇」の「役者」として、「〈いのち〉のドラマ」
を即興的に共演していくと解釈できる。(与贈主体の与贈力 →
役者としての役割) そしてドラマの歴史的な進行として存在者の
存在に時間性が生まれ、そのドラマの舞台の活きとして場所性が
入る。そしてこの舞台に存在する「大道具」や「小道具」として、
家族以外の存在者の存在を考えることができる。
与贈循環の結果、場として包む活きをする居場所の〈いのち〉と、
その場に包まれる活きをする個体の〈いのち〉は、互いの関係が
鍵穴と鍵の関係のように相互整合的に合致しなければならない。
⇒多数多様な個体が同じ居場所に共存在することは、多様な鍵が
それぞれの次元で同じ鍵穴と相互整合的になっていなければ
ならないことを意味している。そのことは、たとえば家庭と家族
の関係を考えてみればよく理解できるであろう。
多様な鍵の活きが居場所において、一つに自己組織されて、
明暗の位相を反転して鍵穴(場)となって帰ってくるのである。
竹内整一の言葉を借りて表現するならば多数多様な「みずから」
が自己組織的に統合されて場となり、「おのずから」の形をとって
帰ってくると言うこともできるであろう
・〈いのち〉の科学における二重存在
二重存在の「個体としての存在」と「居場所としての存在」は、
たとえば次のように一般化できる。
・多数多様な約60兆個の細胞と、人間として生活する個体
・多数多様な従業員と、企業体という生活体
・多数多様な住民と、その住民たちが生活する地域のコミュニティ
・多数多様な生きものと、それらの生きものがともに生きていく
地球という生活体
「色即是空、空即是色」は二重存在の表現であり、
「即」は与贈循環や相互誘導合致に相当する。
・自己の死の位置づけの差
ハイデガーの本来的な存在では、死のある未来の方から現在に
向かって脱自的に現存在を時間化するが、「生のあるときには
死はなく、死のあるときには生はない」という西洋哲学の考え
から、死の直前からの時間化であり、死そのものはこの時間の
なかには含まれない。
⇒死のある未来から自己の現在の存在を見ることは、日本でも
平安時代から広くおこなわれてきた。だが、ハイデッガーの
存在論と異なる重要な点は、自己の死後の居場所を出発点に
取って、その状態から現在の生を時間化している点であり、
自己が生きていることが大きな夢として捉えられて、夢とも
現とも区別がつかない「ありてなき」人生を生きていくこと
になる。
ハイデガーの「本来的存在」は自己の死がある未来の方から
自己の現在を意味づけていく在り方であるが、与贈は居場所
の未来の方から自己の現在の存在を意味づけていく「自己を
超越する行為」である。
⇒言い換えると、与贈は「〈いのち〉のドラマ」の舞台としての
居場所に、自己を役者として登場させる〈いのち〉の活きでも
ある。
⇒また無自覚のうちにおこなわれる与贈も多い。たとえば、
人間や様々な動物の死が「大きな居場所」としての地球への与贈
になっている場合。また様々な民芸品の制作は、それを使う人びと
を通しておこなわれる「大きな居場所」への与贈でもある。
・救済に対する〈いのち〉の与贈の役割〈救済と与贈〉
救済とは、存在の救済である。それは〈いのち〉のドラマの舞台
としての居場所で、自己の存在を継続的に表現していけること
である。(居場所への与贈によって、それができるようになる。)
⇒シナリオのない〈いのち〉のドラマを多様なみんなで即興的に
演じていくために必要なことは、調和のある未来の状態を共有して、
その未来に向かってリズムを合わせながら共存在していくことで
ある。
⇒相互誘導合致(〈いのち〉の与贈循環)は救済の原理でもある。
だが、救済を受ける鍵の形をある程度まではっきりさせなければ、
鍵穴(浄土のような救済の場)と相互誘導合致させることはでき
ない。(相互誘導合致は解釈学的循環の表現であるから、それなり
の汗と涙の体験が必要である。)
個体から居場所への〈いのち〉の与贈がもしも全くなければ、
「居場所としての存在」が生まれないことになるので、上記の
二重存在の代わりに、ハイデガーの「本来的存在」と「非本来的
存在」のような存在の形が生まれて、〈いのち〉のドラマが消える。
そして、ハイデガー自身のナチ党への入党が示すように、存在
への活きかけを失った「ニヒリズム」
(力の信奉と弱者へのハラスメントの押しつけ)が現れる。
・二重存在の意義について
ニヒリズムの暗雲は、現在、ますます機械化していく資本主義
経済によって形が分からないほど厚くなり、広く存在の世界を
覆っている。そして欲望を煽るその競争原理は、民主主義的な
政治制度や文明に深刻な影響を与え、不可逆な劣化を生みだして
いる。
⇒存在を救済する「二重存在の与贈と与贈循環の活き」には多数多
様な存在を生みだして、このニヒリズムの暗雲を晴らす〈いのち〉
の力がある。この力を大きくしていくことが、人間が他の生き
ものと共にこの地球に生きていくために必要なのである。
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2.『日本思想の基層にある二重性』
東大名誉教授 竹内整一氏
・「おのずから」と「みずから」についての二重性
「おのずから」:1 自然の成り行きのままで2 万一/偶然に
⇒ 自分の側からすれば万一・偶然と思われる事態も、
自然・宇宙の側から見れば当然・必然の成り行き、
「おのずから」の出来事は「みずから」の営みにはいかん
ともしがたい他の働き
⇒死をはじめとする自然の「おのずから」なる働きは、われ
われの「みずから」の営みをそのうちに収めながら、しかし
「みずから」とは重ならない、他の働きとしてある
・親鸞(「如来等同」「現生 正定聚」)
・西田幾多郎の「自然法爾:じねんほうに」「我が子の死」
・清沢満之「二項同体論」と「二項別体論」
・「あわい」という言葉
・「いのち」という言葉⇒「息の勢い」意もある
・「今、いのちがあなたを生きている」
・金子大栄「花びらは散る 花は散らない」
・「いたむ」(生者から死者へ1)
・「とむらう」(生者から死者へ2)
・死者から生者へ、生者から死者へ
・柳田邦男 魂と「いのち」
・幽の世界・顕の世界
・高史明「いのちの優しさ」
以上の項目をベースに、日本語における二重性の表現は元から
存在していること、人間が持つ気持ちの表現の微妙な表現の
素晴らしさを講演してくださいました。竹内先生は著作も多く
ありますので、是非ご参照ください。
著書:『「やさしさ」と日本人』(ちくま学芸文庫)、『ありてなければ』
(角川ソフィア文庫)、『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(
ちくま新書)、『「おのずから」と「みずから」』(春秋社)、『「かなしみ」
の哲学』(NHKブックス)、『花びらは散る 花は散らない』(角川選書)、
『やまと言葉で哲学する』『やまと言葉で〈日本〉を思想する』(春秋社)、
『日本思想の言葉』(角川選書) 等
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3.『民藝:二重存在が生み出す美』
日本民藝館学芸部長 杉山享司氏
個や社会、そして地球の永続的な営みを可能にするためには、
新たな道標が必要だと思います。そのひとつが清水先生が提言
されている「二重存在」という考え方でしょう。
「自分は地球(自然)自身であり、かつ地球(自然)を調和的
に構成している多様な独立した個の一つである」という捉え方を、
「民藝」の角度から照してみることが、私に与えられた本日の
役割です。
・「二重存在」と「民藝(民芸)」の親和性
皆さんの抱いている民藝(民芸)のイメージは、おそらく
「民芸=土産物」、あるいは「民芸=古き良き伝統のもの」
といったものでありましょう。
実は、こうした先入観は高度成長期に作り出された、商業
主義的な産物なのです。これからお話しする「民藝」という思想
の本旨を聞いていただければ、「二重存在」という考え方と、
非常に高い親和性があることをご理解いただけるでしょう。
最初は、このようなお話から始まり、柳宗悦「民藝の父」がどのような
人で、何をしてきたかを詳しく説明してくださいました。
柳宗悦:1948年に「手仕事の日本」を刊行。柳は日本が「手仕事の国」
であることを讃え、手仕事がどれほど大切なものであるかを語り、
豊かな手仕事を残す地方の存在が、日本にとってどれだけ大きな
役割を演じているかを説いた。
・柳の説く「民藝」の本旨とは
「民藝というのは、一般民衆の手で作られ、民衆の生活に用い
られる品物のことである。別に名だたる名工の作ったものでは
なく、いわば凡夫(ぼんぷ)の手になったものということが
出来る。作られた品物も普通の実用品で、数多く作られる安もの
であるから、品物としては下品(げぼん)のものである。」
(『南無阿弥陀仏』1955年)
・現代社会における「民藝」の意義
「複合の美」とは文化的多元性を尊重する態度であり、その対極
とは他者への暴力や不寛容である。
柳は、人であれ、地域、民族であれ、それぞれが持てる資質を
最大限に発揮し、互いが互いを活かすことにより世界全体が豊か
になることを願って、社会通念と闘い続けた。
最終的に民藝という、民衆の日常品における美に注目したことを
わかり易く説明してくださいました。
そして、博物館を作り文化的多様性を尊重し、複合の美として、
お互いを生かす世界を求め、美学という哲学をつくり、美を味わう、
美は暮らしに寄り添うものと語っていたことを紹介されました。
著書:『美の壺-柳宗悦の民藝』(NHK出版)、
『趣味どきっ! 私の好きな民藝』(NHK出版) 等
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以上
■10月の勉強会のご案内
10月は従来通り、大塚の場の研究所で勉強会を実施いたします。
日時:2018年10月19日(金曜日)
15時から19時30分までの予定です。
(従来通り15時からワイガヤ的に議論を進めて17時より勉強会
を行います。)
今回は、清水先生から、テーマ:仮題「存在と関係」
という内容で個人と個人の間の関係、そして個人と居場所との
関係が人間の存在をどのように変えていくかを共に考える勉強会
を実施いたします。
場所:特定非営利活動法人 場の研究所
住所:〒170-0004 東京都豊島区北大塚 1-24-3
Email:info@banokenkyujo.org
参加費:会員…5,000円 非会員…6,000円
申し込みについては、毎回予約をお願いいたします。
(なお、飛び入りのお断りはしておりません。)
■編集後記
今回のシンポジウムでは、3名の方の講演で、違った観点での
場についての哲学が語られたと思います。
パネル・ディスカッションでは、民藝の美についての議論があり、
シンポジウムに参加して下さった、料理研究家の土井善晴さま
からも日本料理の与贈の美についてもコメントをいただきました。
また、二重存在の重要性を身近に感じているエーザイ(株)
高山千弘執行役員からも地域におけるコミュニティづくりには
不可欠で、「おたがいさま」「おかげさま」が欠かせない
コンセプトだと語ってくださいました。これからも、場の思想なり
場の哲学を皆さんとともに深化させて行きたいと思います。
ご参加くださったメンバーの方に感謝いたします。
なお、10月は従来通りの場の研究所での勉強会を計画しております。
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定非営利活動法人 場の研究所
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