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共存在への祈りとしての与贈

 〈いのち〉とは、人間を含めてすべての生きものがもっているもの。それは「存在を持続しようとする能動的な活き」です。その〈いのち〉の能動性はエンジンやモーターのように能動的に動くこととは違います。またロボットのように能動的に作業をすることでもありません。これらは行動的なレベルでの活きです。〈いのち〉は生きものの根底にある存在し続けようとする能動的な活きです。それは、死線を越えて存在し続けようとする創造的な活きです。エンジンや、モーターや、ロボットには、この創造性がないのです。生きものの身体をつくっている数多くの細胞が生きていても、生きものとして死んでいるということは、生きものという個体がこの創造性を失っているということなのです。

 

きょう3月27日、場の研究所へ向かう電車の中で、豊嶋仁美さんとこのような話をしていた時に、豊嶋さんが言いました「それなら人工呼吸器やチューブをつけて生きている状態は、もう個体としては死んでいるということですね」と。「確かに、それは、個体としての〈いのち〉がもう失われているということになりますね」と私は答えました、これまで人間の死にこんなに迷いのない定義はなかったと思いながら。これは私自身にとっても有り難いことであり、また豊嶋さんにも、このようなことが思い浮かぶ経験があったかも知れないなという気がしました。

 

「贈与」は贈り手が自分の名前をつけて贈ること、「与贈」は贈り手が自分の〈いのち〉を名前をつけずに居場所に贈ること。土井喜晴さんから日本料理の理想はつくり手の与贈であると聞き、それはまた民芸の美に通じると話したところ、すでに土井さんは「日本料理は民芸である」ことに気づいて、こんど日本民芸館でその話をされるとのメールをいただきました。今週、平丸陽子さんにこの話をしたら、実際、日本民芸館から土井さんの話があるという通知が民芸館の友の会の会員である自分にあったとのこと。与贈に関係している人びとが集れば興味深い出会いの場が生まれるのではと平丸さんに言われ、なるほど大変面白いと納得しました。

 

きのうは小山龍介さんと片岡峰子さんが場の研究所に取材に来られました。そこで、何種類かの植物が元気よく生えている植木鉢の写真を見せながら、地球にとって非常に重要な多様な生きものの共存在をつくり出す原理として〈いのち〉の与贈と与贈循環の話をしました。(その一部はすでに動画になっています。)小山さんとは場の研究所の活動でも与贈についていろいろ話し合ってきた仲なので、土井さんや平丸さんの事などを話ながら、「与贈の研究会」のようなものを立ち上げたいねと合意しあったところ。小山さんや片岡さんに見ていただいた植木鉢の写真を「共存在の原理」という題名で説明するブログの原稿をかいたところ、豊嶋さんがとても素晴らしいプレゼンテーションの形にして場の研究所の新しいホームページに出されました。

是非ご覧を! ブログ「共存在原理の証明」

  

きょうは、親鸞仏教センターの研究員の名和達宣さん、藤原智さん、中村玲太さんが場の研究所へ来られました。そこで、きのうの「共存在の原理」のブログの原稿をコピーして一緒に見ながらの〈いのち〉の与贈と共存在の原理のお話を。これは4月14日に学士会館で開かれる予定の「親鸞仏教センターのつどい」の打ち合わせを兼ねた話し合いです。そこで話題として、先ず共存在は共生とは異なる、なぜなら写真にあるように、死を共通の媒介者にしなければ多様な生きものの共存在はおきないから、だから生きものの死に居場所の〈いのち〉としての意味を与えなければならないから──死が居場所のものとしてすべての生きものに共有されることが共存在。死は居場所への〈いのち〉の与贈なんです。

 

 

我が家の駐車場の溝、そこへ落ち葉が与贈される、これが居場所が生まれる必要条件。

そこへ落ちてきた雑草の種が落ち葉を共有しながら芽吹いていきます。

 

 自然でも、そのようにして多様な生きものの共存在が与贈される〈いのち〉を共有することから始まっていくのではないだろ

 うか。

 

 死と生を含めて一般的に言えば、生きものが居場所に与贈したそれぞれの〈いのち〉が居場所の場の〈いのち〉に自己組織され、共有されて〈いのち〉の与贈循環によって生きものを包むために、多様な生きものが共存在できる。だから居場所としての地球の場の〈いのち〉の活きがキリスト教の愛、仏教の大悲に相当し、またパウロの手紙に書かれているように、その場の〈いのち〉が霊として内側からそれぞれの生きものに活くことが、〈いのち〉の自己組織の特徴ですと、話しました。また土井さんの日本料理と民芸の話から、柳宗悦と第四願「無有好醜の願」の話になり、名和さんたちからも、是非、「与贈の研究会」には出たいという話がありました。

 


「与贈の研究会」を考えるために、どのような分野があるのだろうかと、いろいろ考えていたのですが、慢性的な病気には「与贈からはじまる医療」が有効であり、その例として、ベテルの家、南愛知の医療生協における認知症の「なも医療」があるよねと話しあって帰宅したところ、ベテルの家に大きな寄与をされた清水義晴さんから電話があり、以下のようなメールをお送り下さったとのことでした。以前から、「祈りとは〈いのち〉の与贈である」と考えていましたが、義晴さんからも祈りと内側から活く力に付いてのメールをいただき、今週このように、与贈に関するできごとが重なったことを、不思議な気持ちで受け止めています。

                                                                                          2015.3.30 


 

          「祈る」

             私は、脳卒中で倒れて半身マヒになってから、祈ることが、支えであり、友であり、救いでした。

             始めは、「神様、どうか、これからどう生きて行ったらいいか?道をお示しください。」という

             祈りでしたが、だんだん、「こんな不自由な身になっても、たくさんの人たちに支えられて生かさ

            れているありがたさ」という感謝の祈りになり、最近では、祈ること、それ自体が喜びになってい

             るのです。宗教臭い話しになりましたが、私は特別な信仰を持っているわけでもなく、「祈り」と

             いうのは、内発的な生命エネルギーを引き出す行為であるような気がしているのです。(清水義晴)