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場の研究所メールニュース 2022年10月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

10月になりました。

9月は後半台風もあり、雨の多く被害を受けた方もいらっしゃるのではないかと心配しております。

コロナの感染者数も大分低減してきましたが、これからも、感染対策を徹底しながら生きて行くしかないように感じています。

ロシアのウクライナ侵攻も相変わらずで先行きが見えないまま冬に向かっていきそうです。

 

さて、9月の「ネットを介した勉強会」は9月16日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『場所的世界の転回』でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の10月21日に予定しております。

清水先生からの「楽譜」のテーマは『場所と創造』の予定です。

基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

世田谷の昔にも、消えずの火があったらしい。

空海の消えずの火ではない。

農家の囲炉裏の火の話だ。

簡単に火を付けられる今とは違って、ガスコンロもライターもマッチもない。

火を消してしまうと、再び火をつけることは厄介だ。

だから、農家では、囲炉裏の火は絶やすことないよう、毎晩、灰の下に燃え過ぎず、さりとて消えないように、種火を守っていたそうで、その役割は大切なものだったそうだ。(火を消してしまうことは、恥ずかしいことくらいの言われようと聞く。)

この、空海のそれとは役目は違うけど、消えずの火が世田谷の農家の囲炉裏にもあったという話を聞いて改めて気がついたことは、「火は消える」と言うことだ。

今となっては、マッチやライターですら無く、ガスコンロのノブを捻るだけで、火は手に入る。

火は受け継ぐ必要はない、スイッチ一つだ。

オンで火が付きオフで消える。

言い換えるなら、これは、見かけ上、消えない火だろう。

本来、火は放っておけば消える、消えないようにするためには、消さない努力が必要という話だ。

これらを踏まえて、こんな風に考えられないだろうか。

昔の農家には、「消えずの火が日常に在ったことで、火というものは消える、消さないためには努力が必要」と言うことが、自然と身に染みていたのかもしれない。

対して、現代において、火は消えないもので、火は、ただそれを使うだけのもの、と言えないだろうか。

消費する火。

対して、囲炉裏の火は、受け継ぐ火だ。

便利か不便か、楽か苦労かで言えば、軍配はガスコンロだろう。

それは、分かるのだが…。

今月の勉強会の「場所的世界の転回」での学びを踏まえると、この囲炉裏の火には、円環的時間の特徴があるように感じる。

囲炉裏の生活には、無意識に円環的時間を感じ、その時間に包まれて生きていく知恵が育まれたのではないだろうか。

ここではあまり深くは追いかけないが、そんな風に思うのだ。

対して、ガスコンロの火は、消費する火であり、直線的時間の特徴がある。

生活においての「火」は、1960年代に大きく変化が起きたそうだ。

世田谷の農家においても、ガスコンロが家に入り、竈門や囲炉裏は姿を消していくことになる。

時を同じくして、さまざまな生活の環境も変化し、身の回りに以前はあった円環的時間が包む、その助けを私たちは失ったようにも思う。

さりとて、竈門や囲炉裏に戻るか、と問われたらノーと言うだろうし、出来ることでもない。

だから、意識する必要がある、そう思う。

囲炉裏の助けがないとしても、人は、意識を向けることで円環的時間を生きていくことができるのだと思うし、そうできることを願う。

では、それは、どのようにすれば良いのだろうか。

そのヒントは、ガスコンロと囲炉裏にあるのじゃないだろうか。

消費する火、から、受け継ぐ火へ。

受け継ぐ、つまり、”はたらき”として、次へ引き渡すこと。

ここで、「引き渡す」を「与え贈る」と言い換えてみると、身近な言葉になるのではないだろうか。

ガスコンロを使う日常になった今だからこそ、日常に「与贈」が在るようにするために、今日、この居場所に何ができるのか、毎朝、ほんの少しの間、想いを向けても良いのじゃないだろうか。

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9月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第28回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

★テーマ:「場所的世界の転回」

◇はじめに(空間と時間についての振り返り)

・私たちが住んでいる物理学的な現象の世界は空間が時間を包む構造をしているが、〈いのち〉は、その逆に、時間が空間を包む構造をしていることから生まれるということを、先月の勉強会(「オーケストラ」)では学んだ。

・このことから、固有の〈いのち〉をもって生きている生活体(生きもの)は、時間が空間を包む構造をしている。場所的世界の空間が時間を包む構想をしていると、直線的時間を感じ、その逆に時間が空間を包む構造をしている場所的世界では、円環的時間を感じる。

→したがって、もしも私たちが生きている場所的世界に固有の〈いのち〉があるのなら、私たちはそこで円環的時間を感じながら「〈いのち〉のドラマ」を演じつつ生きていくことになるのである。

 

◇直線的時間から円環的時間の世界への転回

・今月は、私たちが住んでいる場所的世界が物理学的現象の直線的な時間の世界から、固有の〈いのち〉をもって存在している円環的な世界に変化をしたときに、どのような状態になるかを具体的に体験してみることにしよう。

・先月の勉強会でご紹介した永井陽子の短歌として知られているものに

 

ひまはりのアンダルシアはとほけれど

とほけれどアンダルシアのひまはり

 

がある。この謎めいた言葉を短歌として読むためには、短歌の形式 5・7・5・7・7に当てはめて読まなければならない。

→そうすると、下の句のアンダルシアという地名を途中で二つに切ってしまうことになるから、アンダルシアが名詞である限り、それは不可能である。

・そこでアンダルシアが動詞か、動名詞として読まれることを、この短歌は読み手に要求してくるのである。その結果、

 

ひまはりのアンダルシアはとほけれど

とほけれどアンダ・・・・・ルシアのひまはり

 

となって、上の句は「ひまわりが共存在しているアンダルシアは遠くにある居場所であるが」という意味になり、遠くの居場所から伝わってくる活きを待つ気持ちを読み手にいだかせる。

・下の句は「遠い居場所にあるひまわりからアンダ・・・・・」と送られてきた〈いのち〉の活きが、読み手の場所的存在感情に突然「ルシアのひまはり」として大きく出現する状態を表現する。

→ここに場所的世界の転回があり、その突然の変化に驚く。それは直線的時間の世界から円環的時間の世界への転回の経験なのである。

 

◇〈いのち〉の表現について

・物理現象の世界では、野山や街に降った水を集めて河が生まれ、水が流れる。この自然の河の特徴は周囲の空間が河の流れによって生まれる時間を包んでいるという点にある。

・それに対して、孔子の「人生という〈いのち〉の河」では、時間が空間を包む「動名詞的な構造」が出現しているのである。

(詳しくは8月の勉強会のテキスト『〈いのち〉の構造』を参照)

・そういう意味では、私たち個人の名前は個人の〈いのち〉を包んでいる「動名詞」である。永井陽子は

 

ひまはりのアンダルシアはとほけれど

とほけれどアンダルシアのひまはり

 

二行目のアンダルシアを短歌の下の句として読むことで、地球という居場所の「動名詞的な〈いのち〉の構造」を表現してみせたのである。

・これは〈いのち〉を表現する方法として、少なくとも短歌の世界では、極めて大きな創造的発見であったと思う。またそれを地球という居場所に適用したことも、極めて先進的である。ただ、そのことを社会が正しく評価できたかどうかは疑問である。

 

◇浄土真宗における往生する考え方

・話と時代は飛躍しますが鎌倉時代に仏教(浄土真宗)を開いた親鸞の言葉を紹介する。

→弟子唯円(ゆいえん)が親鸞の信仰を紹介した歎異抄(たんにしょう)の有名な第二段である。(たまたま手元にあった本願寺出版社による歎異抄の現代語訳を一部省略して紹介する。)

 

『あなたがたがはるばる十余りもの国境(くにざかい)をこえて、命がけでわたしを訪ねてこられたのは、ただひとえに極楽浄土に往生する道を問いただしたいという一心からです。けれども、このわたしが念仏の他に浄土に往生する道を知っているとか、またその教えが説かれたものなどを知っているだろうとかお考えになっているのなら、それは大変な誤りです。

そういうことであれば、奈良や比叡山にもすぐれた学僧たちがいくらでもおいでになりますから、その人たちにお会いになって、浄土往生のかなめを詳しくお尋ねになるとよいのです。

この親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのである」という法然上人のお言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありません。

念仏は本当に浄土に生まれる因なのか、逆に地獄に堕ちる行いなのか、まったくわたしの知るところではありません。たとえ法然上人にだまされて、念仏したために地獄へ堕ちたとしても、決して後悔はいたしません。

阿弥陀仏の本願が真実であるなら、それを説き示してくださった釈尊の教えがいつわりであるはずはありません。釈尊の教えが真実であるなら、その本願念仏のこころをあらわされた善導大師(ぜんどうだいし)の解釈にいつわりのあるはずがありません。

善導大師の解釈が真実であるなら、それによって念仏往生の道を明らかにしてくださった法然上人のお言葉がどうして嘘いつわりでありましょうか。

法然上人のお言葉が真実であるなら、この親鸞が申すこともまた無意味なことではないといえるのではないでしょうか。

つきつめていえば、愚かなわたしの信心はこの通りです。この上は、念仏して往生させていただくと信じようとも、念仏を捨てようとも、それぞれのお考えしだいです。』

 

◇迷いの構造について

・当時の危険な道を関東から十余りの国境を越えて、それこそ命がけで京都に住む親鸞を訪ねてきた人びとに対して、親鸞が話した言葉がここに書かれている。関東に残した親鸞の息子や弟子の間に、信仰に対する疑問が生まれ、親鸞は晩年に息子を破門し親子の縁を切ることになるのである。

・その疑問は関東では空間が時間を包む場所的構造が生まれて広がったことにある。

→そうすると、人びとは「時間」を求めて「空間」をさまよう「迷いの構造」が生まれる。(宗教は「時間」が「空間」を包む構造をもっているために、人びとに内在的拘束条件を与えて「〈いのち〉のドラマ」の舞台に導く。それに対してその逆に「空間」が「時間」を包む構造をもっているカルトでは、外在的拘束条件を与えて人びとをその空間の中ではたらくAIロボットのようになる。)

 

◇〈いのち〉与贈循環による円環的な時間の経験

・宗教は仏や神の〈いのち〉によって包まれることで、存在を救済される活きである。それは私たちの身体における多様な臓器や器官の〈いのち〉が、個体の〈いのち〉に包まれて〈いのち〉の与贈循環をすることで、調和的に共存在しているように、阿弥陀仏の〈いのち〉に包まれている私たち個人が、さらに念仏という〈いのち〉の与贈の仕方まで与えられて、〈いのち〉の与贈循環による円環的時間を経験し、それぞれの存在を救済されるのが阿弥陀仏の本願である。

・それを説き示した釈尊の教えとは、具体的には無量寿経(むりょうじゅきょう)のことを意味していると思われる。

即ち、「空間が時間を包む構造」と「時間が空間を包む構造」の二つを同時にとることはできないから、親鸞が云うようにこの二つのうちのどちらをとるかという選択になる。念仏とは、永井陽子の短歌に合わせて書けば、

 

 ねんぶつのほとけのくにはとほけれど

 とほけれどほとけの くにのねんぶつ

 

ということになるだろうか。

 

◇ネットを介した勉強会の分析

・場の研究所のネットを介した勉強会は午後5時に始まって2時間半続いて午後7時半に終わる。したがって、直線的時間にしたがって2時間半おこなわれる活きと考えることもできる。そして勉強会は空間に包まれた時間のなかでおこなわれる物理的な自然現象であるということになる。

・しかし、そのような考え方をすると、この勉強会の重要な特徴である多様な参加者の共存在の生成に触れることができない。そこで考えなおしてみると、参加者は同じ「楽譜」を与えられて、「オーケストラ」の一員として、一緒に「演奏する」のだが、どの様に「演奏する」かは、参加者個人の創造に任せられて全く自由であり、その結果、様々な「演奏」が「オーケストラ」に現れることになる。

・その状態は、場所的世界のある一つの時代における歴史的時間の生成に相当する。様々な人びとが、それぞれの個人的な思いと事情にもとづいて、その時代の世界を生きていくのであって、それを相互誘導合致にしたがって自己組織的に合わせた結果が、その場所的世界の歴史(オーケストラ)として表現されていくのである。

・その歴史のなかで個々人それぞれは人生を、孔子が不可逆な河の流れ喩えたように生きていくことになるから、歴史全体を見ると、時間が空間を包んでいるという「居場所の〈いのち〉」の構造をとっているはずで、人びとは円環的時間の中に存在しながら人生を生きているのである。

・親鸞が言うように、場所的構造が異なる二つの世界を、一人の人間が同時に生きることはできない。どちらかを選択しなければならないから、まさに、場所的世界の構造の転回が問われてくる。

・このように考えると、場の研究所の勉強会は一つの場所的世界において同じ歴史を一緒に生きたという共存在の貴重な思い出を、場所的存在感情を通して私たち個人に与えてくれる。その体験があって、永井陽子の短歌も、また親鸞の言葉も、自己の存在に迫る活きとして感じとることができるのである。

(場の研究所 清水 博)

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

 

               

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◎2022年10月の「ネットを介した勉強会」開催について

10月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、従来通り第3金曜日の21日に開催予定です。よろしくお願いいたします。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年10月1日

場の研究所 前川泰久