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今回の「福島からの声」は、詩人みうらひろこさんの詩集「ふらここの涙」からの連載の3回目です。
未だに収束の見えない新型コロナウィルスの問題とCO2排出の問題が大きく叫ばれる中、
政府は、この人々の関心が原発から削がれている隙を窺うかのように、宮城の女川原発、新潟の柏崎刈羽原発と再稼働への動きを加速させています。
ここ数か月の新型コロナウィルスに対する政府の対応をこの問題と重ねてみると、経済と〈いのち〉の問題を「天秤計り」にかけつつも、最後は「経済最優先」を旗に掲げて、政策が進められていくという姿勢が明確に見えてきます。
しかも、最後に「お墨付き」を与えているのは、私たち国民であることも忘れてはなりません。そして経済の拡大を中心に進んできたこれまでの時代の私たちの生き方が、現在、起こっている問題の解決の足止めになっていることも明らかです。
私は、みうらさんの詩を読ませて頂くたびに、失われた故郷の心の風景に描き出されているような、温かい人々の創る〈いのち〉の居場所が、どれほど一人ひとりの「生きていく力」の礎となってきたのか、そしてこれからの豊かな未来の居場所づくりにとってどれほど大切なのかを改めて強く感じさせられます。
福島原発の問題に向き合うことは、私たちにとって、私たちに続く人たちにとって何よりも大切な〈いのち〉と向き合うということなのです。天秤計りはいりません。今回の詩に表現された「大きな砂時計」こそ、今の私たちが心に刻むべきものなのだと思います。
本多直人
今回の「福島からの声」は、詩人みうらひろこさんの詩集「ふらここの涙」からの連載の二回目です。
新型コロナウィルスの問題が大きく世界を覆いつくしている現在、原発事故の問題は人々の関心から少し遠ざかってしまったかのように感じることが度々あります。
こうした国民の関心の目を利用するかのように全国の原発の新たな施設の建設や再稼働への手続きは、今も着々と進められており、10年を経た今も、終わりの、いや始まりすら見えない福島の問題を、地球環境全体に関わる最大の課題として取り組んでいく姿勢は日本政府には全く見られません。
私たちは現在、新型コロナウィルスによって起こっている差別や分断を通じて、「目に見えない脅威」を私たちの居場所の中に抱えざるを得ない状況にあります。このことで、これから私たちがどう未来を描いて生きていけば良いのか?ということが深く問いかけられてきていることも事実です。この点においては、原発事故による放射能被害の問題とも決して離れた問題ではないことが分かります。同時にこのことは人々が地球環境の問題としての原発の問題に真剣に向き合う重要な機会を与えられているということでもあるのではないでしょうか。
新型コロナウィルスの問題を人間だけの経済的な豊さを際限なく拡大してきた近代文明における警鐘であると考えると、放射能汚染の気が遠くなるほどの半減期や処理しきれない現状を抱えた原発の問題が、どれほど大きな人類の課題であるかを私たちはもっと自分に近づけて考えていかなくてはならない時期に来ているのです。今回のみうらさんの詩「牛の哀しみ」は、この原発事故の問題のとてつもない根深さを、置き去りにされ、命を奪われた生きものたちの目から失われた故郷の姿を映し、その深い哀しみに心を向けることによって、私たちの〈いのち〉に強く訴えかけ、感じさせてくれる作品です。
牛たちを「偲ぶ」ところから始まる人間の存在の復興を考えさせられるのです。
本多直人
今回の「福島からの声」は、これまでもご協力を頂いている詩人みうらひろこさんの新刊「ふらここの涙」から連載というかたちでご紹介させて頂きます。
第一回目は、詩集のタイトルでもある「ふらここの涙」です。
東日本大震災から9年。
被災地の復興がそれぞれに進んできた一方で、未だに時間が止まったままの場所があります。かつての賑わいはあの日を境に途絶え、今なお置き去りにされたままの場所。
それは、これからどんなに新しく作り替えられたとしても決して取り戻すことは出来ない子供達の賑やかな声がこだまする古里という〈いのち〉の舞台です。
今はただ風に揺れるだけとなってしまった「ふらここ」の視線から語られる一言、そしてまた一言。その裡から確かに伝わってくる、はかり知れないほどの深い沈黙が、居場所からの声をとてつもなく悲しくそして淋しく響かせて深く問いかけてきます。
本多直人