共存在の原理について


共存在研究室トップに戻る| |やさしい場の思想|共存在の原理について|


本稿は、場の研究所で行われている勉強会のための論文です。また、その勉強会実施の際に清水博先生の追記された文章も併せて掲載しています。特に追記された文章は、当時の参加者の皆さんへ宛てた手紙の返信のような語り口となっているため、親しみと読みやすさがあるのではないかと期待します。

 

(以下は、場の研究所「ネットを介した勉強会」で使われた清水博の論文になります。初出は2020年9月25日の勉強会になります。)


共存在の原理について

 

『共存在の世界』を分かりやすくまとめて解説すると、新型コロナウイルスによって、人間の世界に一種の精神的革命がおきつつあり、その革命が行き着く先が「共存在の世界」です。これまでの自我中心的な物質文明(単存在の文明)から、共存在(利他利己性)を基盤にした新しい精神文明が生まれようとしているのです。その革命のプロセスを示すのが共存在の第二原理(歴史的相互誘導合致)です。苦しいなかに、明るい未来を画いて進みましょう。(共存在 = 多様な存在者が共に調和的に存在すること)

 

共存在の原理を明確にしておく必要があります。そこで相互誘導合致を第一原理、歴史的相互誘導合致を第二原理と呼ぶことにします。第一原理は「調和の原理」、第二原理は「創造の原理」です。この第二原理は「共創の原理」でもあります。

 

それぞれ、どんなときに見られるでしょうか。

第一原理:調和の原理

多様な部分が全体(同一の場所)に共存在しているとき。

 西田哲学の矛盾的自己同一(一即多、多即一)に相当する動的平衡の生成

存在者の場所への〈いのち〉の与贈が場所に〈いのち〉の与贈循環を生んで調和をもたらす

第二原理:創造の原理(また共創の原理)

多様な存在者に、全体(場所)による従来の拘束(第一原理)を越えて、

共存在をベースにした新しい環世界(新しい場所)の創造が必要になるとき。

 暗在的な歴史的時間における共存在の環世界を(体験的に)創造する

 

分かりやすくたとえると、

 第一原理は「風船の原理」(全体が調和的な平衡になる)

 第二原理は「陶芸の原理」(焼き物の創造 ← 感情と論理の統合による構想)

 焔の状態を見ながら、サヤの中の焼き物(陶器)の状態を想定していく

 

創造の世界では、現場における原初以来の体験の活用(第二原理)が重要。

美(共存在感情)とその創造

 河井寛次郎『いのちの窓』は言う。

  美はすべての人を愛して居る

  美はすべての人に愛されたがって居る

  美はすべての人のものになりたがって居る

岸田劉生「僕の画は、前に立ってじっといつ迄も見ていて欲しい。はじめ見た時より、後になる程画に力が加わらなかったら、僕のせめではない。・・・・・心を静かにしてじっと味わって欲しい。しんとして来なかったら僕のせめではない。」(← 劉生の体験 =「内なる美」が描かれている)

 

共存在の時代に重要なもの:内なる美(真善美)の表現、

もはや、物質ではない!

 

歴史をつくるとは?(その根本には自己の存在意識があります。)

「場所に生きている毎日」を「場所に生きていく毎日」に変える。

新しい惑星に漂着して、未知の生きものと一緒に生きていくことになり、そこで新しいできごと(鍵)にぶつかったときに、それを解決するために自己が当てにするのは、「地球の上では、生きものは原初以来このように生きてきた」という「生きていく体験の蓄積」としてのこれまでの阿頼耶識(「鍵」に対する「鍵穴」)です。そこでその阿頼耶識を活用して、とにかく現実にぶつかってみて、そこで生まれる体験をまた阿頼耶識に加えて「鍵穴」を新しくして、その新しい阿頼耶識を使って、次の現実にぶつかるということの繰り返しです。これが「切ってはつなぐ」と言うことです。

 

阿頼耶識のなかには、〈いのち〉の原初以来人類がたどったさまざまな体験や、またさまざまな場所におきたできごとが存在している訳ですし、またその体験は地球における〈いのち〉の歴史に密着して、〈いのち〉の世界に広く包まれていますから、私たちの意識を遙かに越えた存在です。その〈いのち〉の体験の世界が、私たちの日常を遙かに越えて私たちを包んでいるところに、ルドルフ・オットーの「聖なるもの」ヌミノーゼが想定されるのです。

 

昆虫の変態のように、体全体の姿が突然大きく変わりだしたことを、その細胞はどのようにして知ることができるでしょうか。また、どのような姿に向かって、全体が変化しているかを知るにはどうしたらよいでしょうか?体全体と細胞の間には、共存在の第一原理がはたらいていますから、細胞も全体と同時に変化をしていきますので、そのままでは変化とその方向がよく分かりません。そこで、細胞は自己自身の変化を止めて全体の変化を見る必要が出てきます。これが、時間を切って全体を見て、またつないで見ることが必要な理由です。

註)仏教の唯識論によれば、阿頼耶識は人間の意識の第八識が存在するところであり、分かりやすく言えば身体の活きに相当します。

 

(場の研究所 清水 博)


(注1:以下、2020年9月25日の勉強会の際の清水博の返信になります。内容が当論文の追記としての役割が在るように感じられたので、当時の返信ですが、添えておくこととしました。含めて、「共存在の原理について」の論文とお考えください。
当該勉強会では、最初の論文に対して、往復書簡の手紙の返信を送るように参加者が返信を送り合います。以下は、この清水先生の返信ということになります。1通目、2通目、などとなっているのはそのためです。)

(注2:ホームページに掲載のため、返信中の人物名は匿名化するために、記号に置き換えてあります。2026/03/22)

 


1通目 清水 博

 

少し早めですが、「共生」と「共存在」の差異の理解が大切ではないかと思いますので、以下を送ります。

 

共生と共存在について

居場所のなかに多様な個が集まって生きている状態を「共生」と言いますが、それだけではなく、居場所にも「居場所の〈いのち〉」があって、多様な個の〈いのち〉を包んでいるなら、その状態が「共存在」です。つまり、「居場所の〈いのち〉」があって多様な個の〈いのち〉を包んでいるかどうかで、「共存在」と「共生」は区別されるのです。

居場所に「居場所の〈いのち〉」があるかどうかは、状況に圧倒的な差を生みだします。「居場所の〈いのち〉」がなければ、多様な個は居場所に安定した秩序をつくることはできません。細胞や臓器という多様な個の居場所としての私たちの身体がよい例であるように、多様な個の〈いのち〉を包む「居場所の〈いのち〉」があるなら、安定した秩序がその居場所に生まれます。

個の〈いのち〉を「鍵」、「居場所の〈いのち〉」を「鍵穴」としますと、「鍵」と「鍵穴」の間には、共存在の第一原理(調和生成の原理としての「相互誘導合致」)がはたらいて秩序が生まれるのです。共生では多様な「鍵」が集まっているのに、「鍵穴」が存在しない状態に相当しますから秩序は生まれません。「鍵穴」の活動にとって必要なのは、「鍵」からの与贈です。そして「鍵」と「鍵穴」の間に与贈循環が続いていくことによって、「共存在」が秩序をもって続くのです。

テレワークのモデルが共生であるのに対して、私たちのネットを介した「居場所」づくりのモデルは共存在です。ここでは、参加者である私たち一人ひとりが「鍵」であり、(勉強会案内係さん)が「鍵穴」の活きをしています。私たち個人に対する(勉強会案内係さん)の活きがあるために、「居場所」に秩序が生まれます。私たち自身が「鍵」の活きを経験するばかりでなく、(勉強会案内係さん)の活きを通して「鍵穴」の活きを学ぶことができる実践的な共存在教育の場が、私たちに開かれています。

「鍵」の立場から共存在の生成を見ていく「動的平衡論」が第一原理です。それに対して「鍵穴」の立場から見ていくのが第二原理になります。そのために、第一原理と第二原理では、逆方向から共存在を見ることになります。そしてこの二つの活きを統合することによって、共存在の居場所に生まれるさまざまな状態を考えていくことができます。新型コロナウイルスの影響によって、社会の多様化が世界的に急速に進んでいることからも、「共存在の時代」が来ると思います。「共生」という概念では、もう問題を包めなくなっています。どれほど多様な人びとが集まっているかも、居場所の活動の社会的な評価になることでしょう。

 


1通目半? 清水博

 

一通目半というか中二階というか、

書きすぎだと思いますが、清水 博です。

 

皆さまが、固くなってしまわれては困りますので、

共存在でも、別の志向のものを送らせていただきます。

 

「〈いのち〉のドラマのシーン」についてです。

共存在に特徴的なことは、自己の存在を演じていくシーンが「舞台」に現れるのを待っていることではないかと思い、このところ「待つ」ということを少し考えています。気になっているのは、待つことに関係したシーンは、何故か懐かしく思い出されるということです。そしてその懐かしさの裏には、どことなく切なくこころを湿らせるものがあるのは何故だろうかと考えています。

私は戦前(昭和7年)生まれですので、子供の時代のような風景のシーンは、もう日本のどこにも見つかりません。そのこともあって、はっきりしてきたことがあります。それは幾つかのシーンが子供のこころにいつもありありと記憶されていて、小学校から帰るとランドセルを放り出すようにして、真っ先にこころに浮かんだシーンへ走って遊びに出かけていたということです。私がシーンを待っていたのではなく、シーンの方が私を待っていたのです。

今も、それらのシーンは私の心から消えることもなく、当時の姿のまま、思い出されるのを待ち続けています。そのために、それらのシーンを思い浮かべると、涙を浮べるほどの懐かしさが心に一杯こみ上げて来るのです。そして思い浮かべたそのシーンと、何事もなく別れてしまうことが切なく悲しいのです。

私を待ち続けているシーンは、おそらく数百もあるかと思います。それらは、私が小学生の頃にもっとも多く生まれ、それ以来、私の訪れを待ち続けているのではないかと思います。それらはカラー付きで、しかもありありと現れてくるために、私の人生の宝です。晩年になり、しかもコロナの影響で引きこもって暮らしていますと、人生をふり返ることが多くなるために、私を待ち続けてきたそれらのシーンを思い浮かべることも多くなりました。

それでは、私の方が待っている共存在のシーンは、それが現れた後で、どのように心に残るでしょうか。私が高校生の頃の昭和25年にNHKのラジオ歌謡で歌われていた懐かしい歌ですが、

 

  白い花が咲いていた。

  ふるさとの遠い夢の日、

  さよならと言ったら、黙ってうつむいてた お下げ髪。

  悲しかったあのときの、あの白い花だよ。

(岡本敦郎の歌「白い花の咲く頃」の一節)

 

というのがあります。これも共存在の思い出かも知れませんが、当時から、なぜ「悲しかった」なのかと、平凡とも言える表現が気になっていました。共存在の思い出も、こころに深くとどまっているものは、悲しみの存在感情と共に記憶されているのでしょうか。それとも、その記憶が薄れていくときに、悲しみの感情が生まれるのでしょうか。共存在と感情には、どのような関係があるでしょうか。

 


2通目 清水博

 

少し早いかも知れませんが

清水 博です。

 

生命という概念は形のはっきりしない居場所には使うことができないから、生命から出発する限り、どうしても個体を中心にした世界を組み立ててしまいます。すると、場所論や場の思想の要である「居場所と非分離」という状態を考えることができなくなります。そこで存在を継続的に維持していく能動的な活きとして〈いのち〉を定義して、「居場所の〈いのち〉」と「居場所との非分離」を考えることで、この自縄自縛の状態を抜けることを考えたのです。この変化に伴って、居場所と非分離の状態にある身体の性質を表現する活きとして、阿頼耶識を考える必要が生まれてきたのです。

オリンピックで宣伝されてきたように、西洋では、個人の生命が個人の身体に密着した形で考えられています。このように考えると、個人の身体がどうしても居場所から分離されてしまい、非分離の形を具体的に考えることができません。そこで居場所の〈いのち〉と非分離な形を継続的に維持してきた基盤として、オリンピック的な身体に代わって非分離的な存在の深層意識から捉えた身体の活きとして阿頼耶識を考えてみたわけです。(これは仏教的な阿頼耶識の理解とは、かなり異なっているかも知れません。)

人間の存在には、その非分離性から、「個人としての存在」と「居場所としての存在」という二つの見方が可能です。これは「鍵」としての観点と「鍵穴」としての観点に相当します。「オーケストラ」の個々の演奏者が自己の居場所としてのオーケストラを見るときは、鍵としての観点を主として使うと思います。(オーケストラ全体の状態のことを考えながら演奏しているときには、鍵穴としての観点にも立ちます。)しかし指揮者の立場となると、居場所全体の状態に常に気を配っていなければなりませんので、主として鍵穴の立場で指揮をすることになります。私たちの場合には、この指揮者の立場、つまり居場所の〈いのち〉の立場で相互誘導合致を導く役割をしているのが、(勉強会案内係さん)です。(勉強会案内係さん)は生命がないネットでつながった居場所にも、居場所の〈いのち〉が生まれてはたらいていることの不思議さに驚かれたと思います。阿頼耶識が(生命でなく)〈いのち〉の自己組織を捉えてはたらいているのです。(Tmさん)のご指摘のことも「オーケストラの指揮者」としての面と、演奏者としての面という非分離に関係しているかも知れません。時間の生成が与贈循環によって生まれると上手く回る可能性がありますね。

この阿頼耶識の活きは、(H先生)の〈いのち〉のオアシスや、(Iさん)の「否定と肯定」の体験においてもはたらき、個体という概念を越えた活きを生みだしています。これは、是非とも、発展させていただきたい領域です。私の母方の祖父は御嶽山で長年修行をした人で、小さな子供の頃の私が病気になったり歯が痛んだりしたときには来てもらい、錦の袋に入った小さな刀のようなものをかざしてまじなってもらいました。すると涼しい風が吹いて来るような気がして、体が楽になったものです。存在の歴史的基盤としての身体を表現している阿頼耶識は、(Koさん)が言われている西田の「純粋経験」(認識の前駆段階のようなもの)とは全く立場が異なります。

人はその未来に希望も夢ももちますが、希望は個人に属し、夢は居場所に属すると思います。前者は「鍵」としての自己に、後者は「鍵穴」としての自己に属します。その二つが存在していたかってのホンダさんの研究所のような職場は、本当に働きがいがあっただろうなと思います。その余慶を、(Mさん)を通じて我々がいただいているわけです。(Kiさん)の目指しておられるところは、夢なのでしょうか、それとも希望なのでしょうか。どちらであってもよいわけですが、もしもそのような夢をお持ちなら、そのことを自覚していることは大切かと思います。

個人の存在が居場所と非分離になることによって生まれるのは、多様な人々が同じ舞台でそれぞれの〈いのち〉の活きを演じるようにして生きる演劇性の生成です。演劇性があるからこそ、多様な役者が登場できるのです。このことによって時間が〈いのち〉のドラマにしたがって流れるようになり、(Kさん)が気づかれたように、時間がゆったりとしてきます。与贈循環がドラマを進めているのです。また(Sさん)が指摘されているように、コロナによって、私たちの単存在的な活きが抑えられた結果、その根底にあった演劇性が現れて来たと考えることができると思います。このことは(Tkさん)がご指摘になっておられる奈良の鹿の健康とも関係があるように思われます。本来は、神に仕える存在であったものが観光のために働く存在として、〈いのち〉のドラマを否定されていたのです。動物は人間より、演劇性を純粋な形で保持しており、そこに私たちは引かれます。

 


3通目 清水 博

 

居場所の〈いのち〉として

(勉強会案内係さん)と、みなさまご自身のご努力によって、一通目もそうでしたが、二通目もとても、レベルが高く、読み甲斐のあるものになっています。文書として残して、後から読むと、それこそ歴史を知る上でも、貴重な文献になっているのではないでしょうか?

 

「居場所の〈いのち〉に包まれることで、多様な人々が共にいきていくことができる」ということが、これからの世界を動かしていく基本的な原理の形になると考えます。この基本的な形は、皆さまご自身の存在の世界を含めて、さまざまな場面で社会に現れてくると思います。ですから、すでに、居場所の〈いのち〉になり代わって、人々が何かをするなり、書くなりすることが、求められる時代になってきていると思います。そしてその下に、温かい〈いのち〉のつながりが生まれていくのではないでしょうか?

もう、かってのように、エリートの声は求められていません。それはもう時代に合わなくなっています。「その考えによって、さまざまな人の存在を包むことができるかどうか」といった居場所性が問題なっているのです。〈いのち〉の与贈循環を起こす力が求められているのです。そういう意味では、「場の時代」になっていると思います。その時代に、私たちの勉強会が、何か新しい重要な活きを加えることができるかどうかを験されていると思います。そのことを私たち自身が新しい可能性として、創造していく歴史的相互誘導合致を体験しつつあるのではないかと思います。


 

(『ネットを介した勉強会のための論文「共存在の原理について」、および、勉強会においての清水博先生の返信を含む』 場の研究所 清水博)

 


(以下は、場の研究所のメールニュース2020年10月号からの引用です。メールニュースでは前月の勉強会の様子を振り返っております。その中に「楽譜」も引用されることがあります。この月は、珍しくほぼ全文が引用となっています。引用の際に、清水先生自ら内容に手を加えることもあり、この月は大きく書き換えられた部分がありましたので、ここにもそれを掲載しておきます。比較しながら学習にお使いください。)

 

共存在の原理について

 

『共存在の世界』を分かりやすくまとめて解説すると、

新型コロナウイルスによって、人間の世界に一種の精神的革命がおきつつあり、その革命が行き着く先が「共存在の世界」です。これまでの自我中心的な物質文明(単存在の文明)から、共存在(利他利己性)を基盤にした新しい精神文明が生まれようとしているのです。その革命のプロセスを示すのが共存在の第二原理(歴史的相互誘導合致)です。苦しいなかに、明るい未来を画いて進みましょう。(共存在 = 存在が共に成立すること)

 

共存在の原理を明確にしておく必要があります。そこで相互誘導合致を第一原理、歴史的相互誘導合致を第二原理と呼ぶことにします。第一原理は「調和の生成原理」、第二原理は「歴史的時間の生成原理」です。この第二原理は「存在の生成原理」でもあります。

 

それぞれ、どんなときに見られるでしょうか。

 

第一原理:調和の生成原理

多様な部分が全体(居場所)に共存在しているとき。

 西田哲学の「矛盾的自己同一」に相当する全体と部分の動的平衡の生成

 居場所への〈いのち〉の与贈が与贈循環を生んで調和をもたらす。

 

第二原理:歴史的時間の生成原理(または歴史的存在の生成原理)

多様な部分に、全体(居場所)による従来の拘束(第一原理)を越えて、

共存在をベースにした新しい環世界(居場所)の歴史的発展が必要になるとき。

 環世界(居場所)における暗在的な歴史的時間を(体験的に1ステップ)生成する。

 そのことは(居場所における歴史的時間としての)自己の存在の生成でもある。

 

分かりやすくたとえると、

 第一原理は「風船の原理」(全体が調和的な平衡になる)

 第二原理は「ドラマの原理」(〈いのち〉のドラマの創出 ← 舞台と役者の存在の時間的統合)

 舞台の状態変化を見ながら、自己の存在の時間的変化を想定して先行的に表現していく

 

創造の世界では、現場における原初以来の体験の活用(第二原理)が重要。

美(共存在感情)とその創造

 窯の火のなかの焼き物の存在を想定しながら、河井寛次郎『いのちの窓』は言う。

  美はすべての人を愛して居る

  美はすべての人に愛されたがって居る

  美はすべての人のものになりたがって居る

 創造の時間は歴史的時間の創造でもある。

 

岸田劉生「僕の画は、前に立ってじっといつ迄も見ていて欲しい。はじめ見た時より、後になる程画に力が加わらなかったら、僕のせめではない。・・・・・心を静かにしてじっと味わって欲しい。しんとして来なかったら僕のせめではない。」(← 劉生の体験=「内なる美」が描かれている)これも「居場所における〈いのち〉のドラマ」を物語っているのではないだろうか。

 

共存在の時代に重要なもの:居場所における内なる美(真善美)のドラマ、もはや、物質ではない!

 

歴史をつくるとは?

「生きている毎日」を「生きていく毎日」に変える。

新しい惑星に漂着して、未知の生きものと一緒に生きていくことになり、そこで新しいできごと(「鍵」)にぶつかったときに、それを解決するために自己が当てにするのは、「地球の上では、生きものは原初以来このように生きてきた」という「生きていく体験の蓄積」としてのこれまでに生まれてきた「鍵穴」としての阿頼耶識(深層意識)です。そこでその阿頼耶識を活用して、とにかく新しい現実にぶつかってみて、そこで生まれる歴史的時間の1ステップをまた阿頼耶識に加えて「鍵穴」を新しくして、その新しい阿頼耶識を使って、次の現実にぶつかるということの繰り返しです。これが「切ってはつなぐ」と言うことです。そのようにしながら、歴史的時間が1ステップずつ進んで、新しい居場所における「〈いのち〉のドラマ」が進行していきます。

 

阿頼耶識のなかには、〈いのち〉の原初以来人類がたどったさまざまな体験や、またさまざまな居場所におきたできごとが存在している訳ですし、またその体験は地球における〈いのち〉の歴史に密着して、〈いのち〉の世界に広く包まれていますから、私たちの意識を遙かに越えた存在です。その〈いのち〉の体験の世界が、私たちの日常を遙かに越えて私たちを包んでいるところに、ルドルフ・オットーの「聖なるもの」ヌミノーゼが想定されるのです。

 

昆虫の変態のように、体全体の姿が突然大きく変わりだしたことを、その細胞はどのようにして知ることができるでしょうか。また、どのような姿に向かって、全体が変化しているかを知るにはどうしたらよいでしょうか?体全体と細胞の間には、共存在の第一原理がはたらいていますから、細胞も全体と同時に変化をしていきますので、そのままでは変化とその方向がよく分かりません。そこで、細胞は自己自身の変化を止めて全体の変化を見る必要が出てきます。これが、時間を切って全体を見て、またつないで見ることが必要な理由です。


  美はすべての人を愛して居る

  美はすべての人に愛されたがって居る

  美はすべての人のものになりたがって居る

 

本文中、以上引用元は以下になります。

「いのちの窓」河井寛次郎 東方出版


「僕の画は、前に立ってじっといつ迄も見ていて欲しい。はじめ見た時より、後になる程画に力が加わらなかったら、僕のせめではない。・・・・・心を静かにしてじっと味わって欲しい。しんとして来なかったら僕のせめではない。」

 

本文中、以上の引用元は確かには分かっていませんが、以下になると思われます。

「岸田劉生全集」岩波書店