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本稿は、場の思想の話から始まり、論理については一旦傍に置いた場の理論について書かれた文章です。場の理論を学ぶ際、どのように考え、捉えていけばよいのか、その手助けとなることを期待します。
「生きもの」とは、人間を含む生物を意味します。また〈いのち〉とは、生きものがもっている存在し続けようとする能動的な活きのことです。そして活きとは、活力のことです。また、「与贈」とは、自己の〈いのち〉を、見返りを考えないまま、居場所に無償で贈り与える広義のボランティア行為のことです。これは、何らかの見返りを期待して、自己の名をつけて贈る贈与とは異なっています。この与贈によって居場所に「居場所の〈いのち〉」が生まれ、その〈いのち〉が〈いのち〉を与贈した自己を温かく包んできます。居場所からのこの居場所の〈いのち〉の(逆対応的な)与贈によっておきる自己とその居場所の間の〈いのち〉の循環を、「〈いのち〉の与贈循環」と名づけています。
〈いのち〉から見ることの大切さ
生命から〈いのち〉へ
生命というと学術的にも難しい概念ですから、少し改まった状態では言葉として気軽に使えなくなってしまいます。また、そればかりでなく、厳密に考えると、たとえば家庭、組織、企業、地域社会、地球などに生命があると言ってはいけないことになって、人間や生きものが集まっている空間とかシステムとして、改めて定義しなければならないことになってしまいます。このように生命は抽象的な概念として使われているのです。
このような生命の捉え方によって、いろいろ重要な問題が生まれています。たとえば「人を殺してみたい」などという子どもに、どうして抽象的な概念であるこの生命の重要さを教えたらよいのかという問題が生まれています。またこのような生命の定義によって苦しんでいるのが、東日本大震災で居場所を失った人びと、そして今なお一種の収容所のような仮設住宅で暮らしていかなければならない人びとです。さらにまた持続可能性とはどういうことかということが今なお裁判などの場で明確に定義できていないことも、この問題に関係しています。
このような生命という言葉に対して、たとえば美空ひばりの「歌は我が命」のように、「命」という言葉が日本語にはあります。ここでいう「命」は抽象的な概念ではなく、具体的でもっと動詞的な活きを意味していますが、生命という言葉がある以上、その違いがはっきりしません。このような事情を参考にして、私は次のような「〈いのち〉という活き」を考えてみました。それを、「〈いのち〉とは存在し続けようとする能動的な活き」であると定義するのです。
そうすると、それは人間を含めるあらゆる生きもの(生命体)がもっている活きであることになります。あらゆる生命体ですから、人間ばかりでなく、その臓器や、それを構成する細胞にも、それぞれの〈いのち〉があることになります。このことは実際にも合致しています。
〈いのち〉の自己組織によって生まれる居場所の〈いのち〉
またそればかりでなく、〈いのち〉には自己組織性があり、生きものの居場所としての家庭、組織、企業、地域社会、地球にも、一定の拘束条件を充たしさえすれば、居場所としての〈いのち〉が自己組織的に生成されることがわかります(清水 博『〈いのち〉の自己組織』東大出版会)。このことから東日本大震災の被災者が苦しんでこられたのは、居場所の〈いのち〉を失ったことによる苦しみに相当することが分かります。これは人間の個体が死んでしまうと、その個体を居場所として生きてきた細胞が生きていけなくなることに相当します。また仮設住宅には地域社会としての〈いのち〉を自己組織するために必要な拘束条件が与えられていないことから、人びとがそこで生きていくのが難しいのです。また沖縄の人々のくるしみは、居場所の〈いのち〉を自己組織できない苦しみであることが分かります。さらには地球における持続可能性とは、居場所としての地球の〈いのち〉が自己組織されるために必要な拘束条件を充たすことであることがわかります。
ここで生命と〈いのち〉の差について、さらに指摘しておきたい重要なことがあります。科学でいう生命とは、こちら側に存在している自分(科学者)と分離して、向こう側に存在している生きものがもっている自分にとって外在的な能力として定義されているのに対して、〈いのち〉とは──美空ひばりの「命」のように──自分自身の内部に存在している内在的な活きであり、外へ取り出して向こう側へ置いて客観的に観察することができないもの──暗在的なものであるということです。言い換えると、生命は外在的世界にあり、〈いのち〉は内在的世界にあるのです。
居場所は生きものの〈いのち〉が自己組織的につながって生まれる「居場所としての〈いのち〉」をもっていますから、生きものたちの内在的世界にあります。したがって居場所の〈いのち〉を科学的な方法で観察することはできませんが、居場所の〈いのち〉がなければ、生きものは能動的に生きていくことは困難です。場は生きものが感じるこの居場所の〈いのち〉の活きのことです。
場の研究所では、このように〈いのち〉をもとにして、生きものとその居場所の関係を研究しています。それを理論にしたのが場の理論であり、それを実際に実践できる形として提唱しているのが場の思想です。したがって場の思想とは、〈いのち〉の思想です。
場の理論はどんな活きをするか
場の理論は何をするのか
場の理論は場の思想のもとになっている理論ですが、それは日本発の〈いのち〉とその居場所の科学的な理論ということができます。まず〈いのち〉ですが、すべての生きものがもっている未来に向かって存在し続けようとする能動的な活きのことです。〈いのち〉は活くものですから、動詞としての性質をもっています。〈いのち〉から出発するのは、これまでの科学では取り扱うことができなかった主体的な領域までをできる限り科学的に考えることができるようにするためですが、同時に人間を含めてすべての生きものの共存在を取り扱うことを考えているからです。(「活く」は自発的に生まれる自動詞、「働く」は意志によって生まれる他動詞です。)
場の理論はこれまでの科学の論理と矛盾しないようにしながら、科学の論理を主体的領域の方に向かって乗り越えられるように慎重に考えられています。そのために、これまでの科学が取り扱ってきた客観的領域(外在的世界)の他に、取り扱うことができなかった主体的領域(内在的世界)という二領域構造をもち、この二つの領域が相互誘導合致という合わせの理論によって相互整合的につながるように考えられています。外在的世界は外側から観察することができる明在的世界ですが、内在的世界は生きものの内側で活いている〈いのち〉が存在しているところであり、外側からは直接的に観察できない暗在的世界です。
場の理論は主体的領域を取り扱うことから宗教の領域とも接しますが、仏教やキリスト教の主要な論理とも矛盾しないことが確かめられています。このことは相互誘導合致という形式が宗教の主要な論理とも矛盾しないことを確認する役割をしています。このようなことから場の理論は科学の有用性と、(すべてとは言いませんが)幾つかの宗教の主要な論理の有意義性を示す役割もしています。
〈いのち〉の二重構造(二重生命)
場の理論は「〈いのち〉と居場所のつながりの理論」という構造をもっています。それは生きものの〈いのち〉がどのようにしてつながるのか、生きものの〈いのち〉と居場所の〈いのち〉がどのようにしてつながるのかを教えます。外在的世界では、生きものの〈いのち〉は直接的にはつながりません。しかし内在的世界では、生きものが居場所に与贈した〈いのち〉が自己組織的につながって居場所の〈いのち〉をつくります。その結果、居場所では生きものの〈いのち〉と居場所の〈いのち〉という〈いのち〉の二領域構造(二重生命)ができるのです。この二重生命の状態で多様な生きものが同じ居場所に存在することが生きものの共存在です。
私たちの個体の〈いのち〉は、私たちの身体を構成する非常に多数多様な細胞にとっての居場所の〈いのち〉ですから、居場所の〈いのち〉に包まれて多数の相異なる生きものの〈いのち〉が存在するという〈いのち〉の二領域構造が私たちの身体にも生まれていることがわかります。〈いのち〉の二領域性が細胞という生きものの共存在の条件です。これと同様な二領域性が、地球とそこに生きている生きものの間にも成り立っているために、地球の上に多種多様な生きものが共存在していくことができるのです。
〈いのち〉の与贈と与贈循環
繰りかえしになりますが、場の理論では、生きものの〈いのち〉は直接的にはつながらないが、生きものの〈いのち〉と居場所の〈いのち〉がつながるために、同じ居場所に生きている生きものの〈いのち〉は、居場所の〈いのち〉を介して間接的につながっていると考えています。また具体的には、生きものの〈いのち〉と居場所の〈いのち〉は「〈いのち〉の与贈循環」によってつながっていると考えています。〈いのち〉の与贈循環とは、生きものが自分の〈いのち〉を居場所に与贈すると、居場所もまた居場所の〈いのち〉をその生きものに与贈して返すということが循環的に続いていくということです。
ここで与贈ということですが、贈与が贈り手の名をつけて贈ることであるのに対して、与贈は贈り手が見返りを全く期待せずに、贈る行為自体を自己の喜びとして贈るということです。そのことによって、居場所の〈いのち〉になるように自分の〈いのち〉を贈ることができるのです。さらに具体的に言うと、それは個人としての自己中心的な活きを抑えて、その居場所のものとなって居場所のために自己の〈いのち〉を使うということです。家族が個人対個人としての立場を抑えて、家族の一人として居場所である家庭のために活動することがその例となるでしょう。災害地におけるボランティア活動も同様です。このことは個人としての活きを放棄してしまうと言うことではありません。
場の思想を実践する上で、共存在しようとする居場所への自己の〈いのち〉の与贈はもっとも重要な活動になります。たとえば家庭とか、コミュニティという共存在の形ができるためには、その居場所に生きている人びとによる〈いのち〉の与贈が必要です。しかし〈いのち〉はそれぞれの内在的世界に存在しているために、無意識のうちにその〈いのち〉の与贈がおこなわれていても、気づかないことが多いのです。このことは被災地の復興を考える上で、忘れてはならない重要な問題です。
〈いのち〉のドラマのシナリオ
居場所から生きものへ贈られてくる居場所の〈いのち〉を、生きものは温かい場として感じます。またそればかりでなく、それと共に与贈によって、自己の〈いのち〉がその居場所に存在していくために必要な活きを、「このように存在すべきだ」と、存在のあり方として暗在的に示す「〈いのち〉のドラマのシナリオ」を居場所から与贈されます。説明が先後してしまいましたが、〈いのち〉のドラマとは、生きものがその居場所で生活することです。このことは居場所の〈いのち〉が居場所の存在を未来に向かって続けようとする活きであることからも納得できると思います。またこのことは、居場所から生き甲斐を与贈されるということにもなります。どのように社会に生きていけばよいのかが分からないのは、その社会を自己の居場所として与贈していないからです。
それでは居場所の〈いのち〉はどのようにして生まれるかというと、居場所に生きている生きものが居場所に与贈した〈いのち〉の活きが自己組織的に互いにつながって生まれるのです。この自己組織がおきるためには、居場所に存在している生きものが「この居場所で生きていこうという願望」(拘束条件)を共有していることが必要です。生きものの〈いのち〉が生きものの内部だけにあるときには、互いにつながりませんが、生きものが居場所に与贈した〈いのち〉の活きは互いにつながって居場所の〈いのち〉となるのです。したがって〈いのち〉の与贈循環によって、居場所の〈いのち〉に包まれて生きものの〈いのち〉があるという〈いのち〉の二領域性(二重生命)が生まれます。
少し細かい話になって恐縮ですが、与贈をした生きものだけが居場所の〈いのち〉に包まれ、与贈しない生きものは〈いのち〉に包まれないのは何故でしょうか。その理由は簡単です。与贈することによって意識が変わるから、与贈循環によって居場所の〈いのち〉に包まれていることが分かるのであり、与贈をしなければ、意識が変わらないから包まれていても、包まれているのが分からないのです。したがって生きものの意識の上では、居場所の〈いのち〉が与贈をした生きものだけを選択的に包んでいることと同様になるのです。
相互誘導合致
二重生命の状態にあるときには、生きものの〈いのち〉の活きと居場所の〈いのち〉の活きの間には、鍵と鍵穴とが互いに相手の形に合わせながら合致しようとするような「相互誘導合致」という活きが生まれます。日本文化の重要な特徴である「型」や「あわい」も、この誘導合致から出てきます。また誘導合致の活きは即興劇における役者と舞台の表現の合わせの活きに相当しますから、〈いのち〉の与贈循環が続いていくと役者と舞台の表現が次々と未来に向かって続いていく「〈いのち〉のドラマ」が生まれて、居場所の歴史がつくり出されていきます。つまり、「未来に向かって共に生きていく」という生きものの重要な特徴が生まれてくるのです。
生きものはこの〈いのち〉のドラマの中でなければ、「生きている」ことはできても、未来に向かって「生きていく」ことはできません。このために〈いのち〉の与贈循環がなければ、機械的に「生きている」ことはできても、未来に向かって存在し続けていくこと、すなわち「生きていく」ことはできません。このことから、生きていくためには、生きものは自分の〈いのち〉を居場所に与贈することから始めなければならないと結論されるのです。ボランティア活動のように、居場所で生きていくことに困っている生きものに自分の〈いのち〉を与贈することも、居場所への〈いのち〉の与贈になるのですが、それが〈いのち〉の与贈循環をともなわなければ、一方的な贈与の押しつけに近い形になってしまい、生きていくことと無関係になるために、やがて贈与される側から嫌われてしまいます。
存在の他者性
同じ居場所に〈いのち〉を与贈しながら生きているものの間には、互いの主体性を大切にしようとする意識が活くようになるために、互いに他とは異なった唯一の存在になろう(異なった活きをしよう)とする「存在の唯一性の要求」が内側から生まれて、必ず多様性が現われます。これは互いに異った役を演じなければ即興的な〈いのち〉のドラマを続けていけないことから、「生き甲斐をえたい」という願望として内在的世界から生まれてくるものです。これを存在の他者性と言います。イベントのように一緒に同じ動きをしたり、一緒に群れ合って行動したりすることは、感情が表面的につながっているだけで、〈いのち〉の与贈循環はなく、〈いのち〉まではつながっていないために他者性は生まれません。このようなつながりは、すぐ消えてしまいます。〈いのち〉がつながるということは多様になるということであり、一様になるということではありません。ここが誤解されやすいところです。「滅私奉公」の裏側には一様性と主体性の放棄という前提が隠れています。これに対して〈いのち〉の与贈は、自己が設定した目的に向かって、主体性と生き甲斐とを維持していくために必要となるのです。このことはボランティア活動を考えれば、すぐ理解できることです。
生きものはその身体の〈いのち〉を宇宙における〈いのち〉の最も大きな居場所(たとえば地球)から与贈されて生まれ、その身体の活きができなくなって死ぬときには〈いのち〉を返していくのですが、生きている間に新しい〈いのち〉をつくり出すことができます。それは〈いのち〉の与贈循環によって居場所の〈いのち〉を与贈されることによって生きものの内側に新しい〈いのち〉が生まれからです。このために、居場所への〈いのち〉の与贈は生き生きとした人生を送るために必要です。人類の社会の経済的な発展も、生きものである人類の新しい〈いのち〉が生みだしたものです。富とは、詰まるところは〈いのち〉の与贈によって居場所に生まれる新しい〈いのち〉なのです。
(『やさしい場の思想(〈いのち〉の与贈を理解するために) (2)』2017より 場の研究所 清水博)
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