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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
6月になり、今年は早めに梅雨になった地域も多いようですが、いかがお過ごしでしょうか?この季節は雨のおかげで新緑が輝いて見え、心が豊かになります。
コロナについては、5月から実質の規制緩和となっていますが、まだワクチン接種も継続しており、やはり自己防衛は欠かせないと思います。
さて、場の研究所の第36回「ネットを介した勉強会」は、5月19日(金曜日)に開催いたしました。「楽譜」のテーマは『生命と〈いのち〉』でした。勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。
なお、「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースの内容を是非参考にして下さい。
そして、6月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来とは異なり、第4金曜日の6月23日に予定しております。少々早めですが、よろしくお願いいたします。清水先生からの「楽譜」のテーマは『場をホスト―ゲスト問題として考える』の予定です。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年5月の勉強会の内容の紹介:
◎第36回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:『生命と〈いのち〉』
◇〈いのち〉を基盤にした考え方
・場の研究所の特徴は、〈いのち〉を基盤にして、場やその場によって包まれる私たちの存在を考えていることであり、場所への〈いのち〉の与贈とその与贈によって場所に生まれる〈いのち〉の与贈循環を、私たちが生きていくためにもっとも大切な活きとして考えていることである。
・〈いのち〉を基盤にして考えていくことは、まだ科学的に解明されていない生命を基盤にして、私たちの存在を考えていく社会一般の傾向と異なって論理がはっきりしているので、理論的(科学的)に考えを進めやすいという重要な特徴がある。
◇生命と〈いのち〉の違い
・〈いのち〉は生活(生活体の存在)を継続するようにはたらく能動的な活きとして定義されている。
→したがって、〈いのち〉の活きは生命の活きを包含するが、生命とは異なる。
・たとえば受精していない卵子や精子には〈いのち〉があるが、生命はない。
・〈いのち〉には、〈いのち〉の場所があり、〈いのち〉をもったもの(生活しているもの)がその場所において自己の〈いのち〉を場所に与贈すると、〈いのち〉の与贈循環が場所に生まれて、自己の存在が場所から与贈される〈いのち〉の場に包まれて、存在が継続的に維持される。そのために自己の存在が安定し、安心感が得られるのである。
◇〈いのち〉のつながりを求める生き方の広がり
・〈いのち〉が個人の生命の活きである生と死を越える能動的な活きであることから、不安定な生命の不安から逃れるために、〈いのち〉の場所へ一緒に〈いのち〉を与贈することで生成する〈いのち〉の与贈循環が生み出す〈いのち〉の場に共に包まれることで落ち着く生き方---多様な人びとの間に〈いのち〉のつながりを求める生き方---が最近は社会に広がっている。
→多分、皆さんご自身にも経験があると思う。
◇浄土真宗における〈いのち〉の与贈循環
・〈いのち〉が生命を包む活きであることから、生と死の不安から逃れる活きとして〈いのち〉の与贈循環は幾つかの宗教に救済の原理として取り入れられている。なかでも親鸞が説く浄土真宗の教えとは、一枚の紙の表裏のように直接的な対応関係があり、〈いのち〉を基盤にする科学的な論理によっても、その教えを説明できそうに思われる。
・対応関係からいうと、〈いのち〉の場所が浄土、〈いのち〉の与贈が「南無阿弥陀仏」、〈いのち〉の与贈循環が浄土との往相(おうそう:浄土に往生すること)と還相(げんそう:往生して仏になったのち、再びこの世にかえって利他教化のはたらきをすること)の二種の回向による救いに相当する。
→つまり、「南無阿弥陀仏」による存在の救済を無量寿経という経典に求めるという伝統的な方法に加えて、〈いのち〉の科学からも直接的な裏づけが得られることになったのである。
・親鸞の浄土真宗の救済の重要な点は、浄土真宗を信じて「南無阿弥陀仏」と唱えたときに、生きているその状態のまま浄土に救われることが確実になるという点である。
→つまり、浄土へ行くために死ぬ必要はないのである。
・さらに浄土へ向かう往相回向ばかりでなく、浄土からこの俗世へ戻って人びとを救済する還相回向が加わる形によって---与贈循環の形になることによって---南無阿弥陀仏に救済されるということである。
◇生命の場所から〈いのち〉の場所へ
・生命の法則がはたらいている「生命の場所」から〈いのち〉の法則がはたらいている「〈いのち〉の場所」に自己の存在を移すためには、どうすればよいだろうか?
→そのためには〈いのち〉の場所(つまり浄土)へ自己の〈いのち〉を与贈することが必要である。そうすれば、〈いのち〉の与贈循環に包まれて〈いのち〉の場所である浄土の住人になる。
・親鸞によれば、無量寿経の体(実体)は「南無阿弥陀仏」という念仏である。その「南無阿弥陀仏」が〈いのち〉の科学の〈いのち〉の与贈に相当するのである。
・無量寿経によれば、すべての存在の救済を願う法蔵菩薩は五劫という無限に長い時間の間考え続けて、自分自身が浄土への〈いのち〉の与贈である「南無阿弥陀仏」になることを思いついたことが認められて、その阿弥陀如来になったのである。
◇自己の存在の考え方について
・私自身の〈いのち〉を考えても、その能動的な活きはこれまで歴史的に存在してきた多くの〈いのち〉を往相回向と還相回向によってこの身に合わせるようにして受け入れてきたものである。
・また私の〈いのち〉は死によってすべて消えるものではなく、いろいろな形をとって続いていくものである。
・清澤満之は「自己とは何ぞや。これ人生の根本的問題なり。自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗託して、任運に法爾にこの境遇に落在せるもの、即ち是なり」と言っている。
→〈いのち〉という観点から自己を見れば、これ以外の見方はできない。
・ここで念のために強調しておくと、自己の存在を生命という観点から捉えようとする際は、清澤のような見方は生まれない。
・私たちが浄土真宗のような宗教を理解できず、社会的な常識を基盤にした自分自身の存在に合うか合わないかによって、宗教的真理の正否を判断しようとすることが多いのも、生命を基盤にして自己の存在を考えているからである。
・しかし、〈いのち〉を基盤にして自己の存在を考えることにすると、〈いのち〉をいただいて今ここに生きている自己自身の存在の理解が根本から変化する。
→その結果として、見えてくる世界が親鸞の浄土真宗の世界である。
◇〈いのち〉の与贈循環の重要性
・〈いのち〉をいただいて今ここに生きている自己自身の存在の理解が根本から変えるのが与贈循環である。この変化がおきるために必要なことは〈いのち〉の場所(浄土)への自己の〈いのち〉の与贈である。
・浄土真宗では、その〈いのち〉の与贈が「南無阿弥陀仏」という形で仏の方から与えられているということが大きなポイントである。
・この与贈によって世界が基盤から変化して、〈いのち〉の与贈循環が生まれる。その具体的な形が親鸞の発見による往相回向と還相回向の活きである。
・「南無阿弥陀仏」によって、これまで無限に続いてきた〈いのち〉の与贈循環のなかに自己の存在が位置づけられて続いていくことになる。
◇〈いのち〉の場所の変化について
・〈いのち〉の与贈循環のなかに自己の存在が位置づけられて続いていくことは、物理的な時間のように時間が直線的に進んで行く状態から、〈いのち〉の場所を円環的に変化していく状態に変わるということを意味している。しかしそのことは〈いのち〉の状態がまったく変化しないということではない。
・〈いのち〉の場所のなかでも、免疫現象や生物進化などで知られるように、歴史的な変化がおきていく。〈いのち〉の重要な性質は存在の継続であって、変化をしないということではない。
・その逆に、歴史的な変化が見られるということは、〈いのち〉の場所に存在しているということなのである。
◇時間的相互誘導合致の重要性
・存在の性質が互いにまったく異なる多様な生活体は、それらが共に存在しようとしている場所を未来の方から場所の〈いのち〉に一緒に包まれることによって、「一即多、多即一」の状態をつくって調和的に共存在することができる。(「時間差相互誘導合致」の原理)
・しかし、もしも未来の方から包んでくる場所の〈いのち〉がなければ、その存在が相互に異なる多様な生活体は一緒に存在できない。
→したがって、一緒に存在するということは、〈いのち〉の場所において自己の〈いのち〉を未来に向かって与贈するということになるのである。
・このことが〈いのち〉の場所に生物進化のような歴史的進化が未来に向かって生まれていく原因なのである。また私たちの身体に、相互に異なるそれぞれの存在をもった多様な臓器が一緒に存在していく共存在の原理にもなっている。
・幾つかの宗教の間で深刻な宗教的紛争がおきてきたのは、宗教的に定義される〈いのち〉の場所が狭すぎるために、この共存在の原理である「時間差相互誘導合致」が実質的に排除されてしまうことが原因なのである。
◇共存在の原理
・ロシアのプーチン大統領が始めたウクライナでの戦争によって、世界のあり方が大きく変わろうとしている。しかし、プーチンが仕掛けているこの戦争は、地球の未来に向かって多様な価値観をもった人びとがおこなうべき〈いのち〉の与贈を排除して、自己中心的に変えていくという特徴があり、その〈いのち〉の場所の狭さから、一種の宗教戦争のような形をつくっているのである。
・地球という〈いのち〉の場所において必要なのは、共存在の原理、すなわち〈いのち〉の場所である地球の未来へ向かって多様な人びとがおこなう〈いのち〉の与贈である。
・浄土真宗で云えば、「南無阿弥陀仏」である。そのことによって生まれる「時間差相互誘導合致」こそが、今後の世界文明をリードする原理にならなければならないのである。
◇広い視野の必要性
・浄土真宗も、また〈いのち〉の科学も、原理が実質的に変わらなくても、互いを知ることによって異なる世界の景色を見ることができる。
・これから地球の上で様々な価値観を持った人びとが一緒に生きていくためには、一つの見方に拘束されて世界観を固めてしまわないことが必要であると思う。
・遠くの方を広く眺めようとすれば、異なる景色の間に共通する何かを発見する必要がある。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
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◎2023年6月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年6月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、従来とは異なって、第4金曜日の23日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。(参加費は無料です。)
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年6月1日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
5月になり、初夏のような日や梅雨のような雨の日もあって季節の変化を感じるこの頃です。ただ、それも温暖化の影響も少なからずあって地球の悲鳴のようにも思います。
コロナについては、いよいよインフルエンザ相当の扱いになるようですが、まだ感染すると重症化の可能性もあり、自己防衛を継続して行く方が安全かと考えております。
世界情勢も相変わらずで、戦争もウクライナだけでなく他の国でも起きてしまい、早期の終結が見えない状況で残念です。
さて、場の研究所の第35回「ネットを介した勉強会」は、4月21日(金曜日)に開催いたしました。「楽譜」のテーマは『場所的編集力と逆編集力』でした。今回はより具体的な例も紹介されていたこともあり、議論が多く交わされたと思います。勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。
なお、「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースの内容を是非参考にして下さい。
そして、5月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の5月19日に予定しております。清水先生からの「楽譜」のテーマは『生命と〈いのち〉』の予定です。基本のテーマは「共存在と居場所」で進めてまいります。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年4月の勉強会の内容の紹介:
◎第35回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:『場所的編集力と逆編集力』
◇危機における大切な願いは「所有」から「存在」への変化
・大地震のような大きな災害にあったり、深刻なガンが疑われたりすると、何かを所有することよりも、ただ無事に在ることの方が大切な願いとして、心から望まれる。
→危機に出会うと、所有から存在へと心の願いが変化をするのである。
・現在のように地球という場所に〈いのち〉の危機が生まれると、長い間にわたって人間の願いであった生活における所有の拡大から、安定した生き甲斐のある存在へと人びとの願望が変化をしていくようになる。
→所有は自己の存在が確かめられた後で、人間の心に生まれる願いなのである。
・このことのために、所有の拡大を目指して進んで来た近代文明が転回を始め、存在の安定へと大きく方向を変えて進み出しているのが世界(地球)の現在の状態ではないかと、私(清水)は考えている。
◇場所に在ることの重要性
・自己が何かを持つということは他動詞であるから、人の活きは能動的になる。
・所有に向けての他動詞的な近代文明が地球規模で発達した結果生まれてきたのが現在のSNSやAIなどであり、このまま歴史が進めば、地球はAIによって動かされていく大きな自動機械になっていく可能性すらある。これは「生きもの」としての地球の存在の危機である。
・一方、存在することは自動詞であり、場所の活きを受け入れることによって、場所において生まれる自己の状態である。
若山牧水が
白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
と歌ったように、もしも人が場所において在ることを失えば、孤独な存在をかかえて人生の孤独を悲しく生きていかなければならない。
・「生きもの」としての地球という場所において人びとが在ることが地球の自動機械化を止めることができる唯一つの方法である。
◇共存在について
・家族が家庭という同じ一つの場所に共に存在しながら、その家庭の歴史を創造して行くように、同じ場所において歴史的に在ることによって多様な人びと(生活体)が調和的に共存在することができる。
・それは場所を「鍵穴」とし、多様な存在者(生活体)の存在が相互に自己組織的につながって、場所の歴史を創造していく活きをその「鍵」とする時に、時間差相互誘導合致によって「鍵穴」となる場所に誘導されて、多様な存在者(生活体)の活きに調和的状態が生まれるからである。
・このことは西田幾多郎の矛盾的自己同一「一即多、多即一」と関係がある。ここで「一」は場所、「多」は多様な存在者(生活体)の存在である。
・また私は場所が多様な存在者を調和的にまとめて包む活きが場であると考えている。時間差相互誘導合致は多様な存在者がその〈いのち〉の活きを場所に与贈することによって生まれる〈いのち〉の与贈循環によって、人びとを未来の方から場によって包むことによって生まれるのである。
◇編集力について
・言葉を変えて表現すると、場所としての「鍵穴」には、「鍵」の構成部分である多様な存在者(生活体)の存在を調和的に編集して一つの「鍵」を構成する存在の編集力がある。その結果、矛盾的自己同一の形が生まれるのである。
・この編集力は同じ一つの場所の歴史を多様な存在者(生活体)が受け入れることによって生まれる場所の歴史を構成していく活き---同じ〈いのち〉のドラマの舞台で多様な存在者(生活体)が多様な役者となってドラマを共創していく創造的な形態形成の活き---によって生まれるものである。
◇〈いのち〉のドラマの創造的な形態形成の例
・小学校に入学する前の家庭における私自身の生活を思い出してみると、そこには涙のこぼれるような親の愛が生み出す〈いのち〉のドラマがあったと思う。それは幼い私の未来に常に向けられている両親の温かい〈いのち〉の与贈であり、その与贈の活きが家庭という場所における〈いのち〉のドラマの形態形成の力を生み出していることが直観的に感じられて、両親への私の純粋な信頼感のもとになっていた。
・このようなことも一つの例となるが、場所が生み出す存在の編集力---矛盾的自己同一の構造をつくる活き---は、存在者(生活体)の場所への〈いのち〉の与贈が生み出す〈いのち〉の与贈循環によって生まれる〈いのち〉のドラマの創造的な形態形成の活きであると思う。
・場所の編集力を受けてこそ、多様な存在者(生活体)が一つの「鍵」としてまとまることができるのである。皆さんの周りでも、このような例はきっと幾つも見つかると思う。
◇逆編集力について
・免疫力を含めて存在者の場所における存在者(生活体)の存在の創造力(構成力)のようなもの---場所による編集力とその編集力を多様な存在者(生活体)の身体が逆に想定して対応していく活きのようなもの---を考えないと、たとえば新型コロナによる感染者数のここ数年の変化はうまく説明できないのではないかと私は思っているが、人間や動植物の寿命まで場所の編集力を存在者(生活体)が逆編集する活きの影響を受けているかも知れない。
・場所とそこで生活している存在者の〈いのち〉は非分離でつながっているから、場所の〈いのち〉のドラマを共創していく動植物の〈いのち〉の活きとその存在の間には何らかの創造的な構成関係がある可能性がある。
・そこで人間が自己の人生をふり返り、さらに死へとつながる先を思いながら、「自己にこの地球という場所に存在を与えている活きは何か」と考えることは、無意味とは言えない。
→つまり、自己が役者として創造的に演じていく〈いのち〉のドラマの舞台とは具体的には何かということである。
・そしてその舞台ではどの様なシナリオにしたがってドラマがこれまで演じられ、また演じられていくのかを、自己の歴史を包む地球という場所(舞台)の歴史として具体的に考えてみるということである。
・これは役者としての自己が「ここで〈いのち〉のドラマを演じていく舞台(場所)とは何か」を考える逆向きの編集、逆編集である。
◇勉強会における逆編集のはたらき
・私たちの勉強会でも、2通目、3通目のメールの時に皆さんがそれぞれ互いの表現を引用されて「オーケストラ」の内部で互いに「演奏」している形がつくられている。この活きが逆編集に相当すると思う。
・編集の活きと逆編集の活きがあって、舞台(場所)と役者(存在者)の間に相互誘導合致の活きが生まれるのである。どちらか一方だけでは、相互誘導合致の形にはならないから矛盾的自己同一の形(場所的存在の形)は生まれない。
◇編集力と逆編集力を生む与贈循環
・場所の編集力は〈いのち〉のドラマの舞台に役者の表現を合わせるようにはたらき、また逆編集の活きは役者の表現に合わせて舞台を進める活きをする。
・若者が人生の進路を決めるときには、社会を場所とする逆編集の活きが必要になるし、その後の人生をいきいきと生きるためにも、その活きは必要になる。
・それは逆編集と編集の活きは自己の〈いのち〉の場所への与贈と、それによって生まれる場所的〈いのち〉の与贈循環によって生まれる活きであるからであり、またそれによって開かれていくのが創造的な調和の世界だからである。
・また少し特別なものになるが宗教の世界もこの形をとっている。
◇今の地球における場所の捉え方の問題
・場所的逆編集と編集の活きは様々な分野における調和的な創造力の源になる。
・動植物一般にも場所的逆編集力があり、そのために存在している場所と時間差相互誘導合致をしながら調和的に生きていくことができるが、人間が「この地球とはどのような場所か?」と考えて、その未来に合わせて〈いのち〉のドラマを創造的に演じながら生きていくために必要なものは、地球全体を場所とする逆編集力である。
・謙虚さがないために、その逆編集力が不足しておきているのがウクライナ戦争である。そもそも、「場所」の捉え方が間違っている。地球という場所の編集力の捉え方が誤っていることが根本的な原因であり、それは自動詞的な存在(在る)ではなく、他動詞的な所有(持つ)に目を付けていることに原因がある。
◇思想の根底に置くべきもの
・民主主義は国家という場所を逆編集する自由を個人に認める政治システムであり、専制主義ではその自由が認められず、絶対的な差を場所的な権力に置くシステムである。
・それは思想の根底に存在者(生活体)を置くか、それとも場所を置くかの違いがあるために生まれる差である。
→編集と逆編集のニュアンスの違いが人工的に生み出した絶対的な差であると考えてもよいかも知れない。
◇編集と逆編集としてのWBSの見方
・WBCで侍ジャパンが優勝した。全員の〈いのち〉のつながりによって生まれた温かい努力の結果だと思うが、最後は大谷翔平選手がエンゼルスで同僚のトラウト選手を三振に打ち取って優勝をし、大谷選手は大会MVPに選ばれた。
・この大会の表に見えた部分だけでなく、その裏に隠されている彼の素晴らしい逆編集の活きが大谷選手が主役となるような〈いのち〉のドラマのシナリオを書いたような気がする。
◇所有文明から存在文明への変化における重要ポイント
・所有(もつ)文明の時代から存在(在る)文明の時代への変化で重要になるのは、場所における〈いのち〉の与贈循環であり、それを引き出すのは、場所に対する謙虚な逆編集の活きだと思う。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
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◎2023年5月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年5月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、従来通り第3金曜日の19日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年5月1日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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皆様
4月になり、桜前線北上中で、東京をはじめ、桜が既に散ってしまっている地域もありますが、北日本ではこれから満開を迎えて楽しめる方もいらっしゃるかと思います。残念ながら花粉症の方には今年は厳しい飛散状態で辛い時期をおすごしかもしれません。
コロナについてはようやく感染者が減少し、マスクの装着ルールも緩和されましたが、まだまだ公共の場所では、皆さん自己防衛は勿論、他人に迷惑をかけたくないという思いからマスク装着が継続してるように感じます。急な変化に対して、疑心暗鬼になるのは妥当だと思います。
世界情勢は相変わらず戦争も終結が見えず、中国の動きも不安が伴います。早く明るい未来を語れるようになりたいと願っています。
さて、場の研究所の第34回「ネットを介した勉強会」は、3月17日(金曜日)に開催いたしました。「楽譜」のテーマは『「ネットを介した「矛盾的自己同一」』ということで、皆さんと行っている現在の勉強会についての議論となり、その中の人のつながりの重要性が主テーマとなりました。勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。
なお、「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースの内容を是非参考にして下さい。
そして、4月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の4月21日に予定しております。第35回となりますが、清水先生からの「楽譜」のテーマは『場所的編集力と逆編集力』の予定です。基本のテーマは「共存在と居場所」で進めてまいります。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年3月の勉強会の内容の紹介:
◎第34回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:『ネットを介した「矛盾的自己同一」』
◇「ネットを介した勉強会」で起きている人のつながりについて
・場の研究所のネットを介した勉強会は参加をしている人びとに温かいつながり感を与えるということで、その経験をした人びとから何時も次回を待たれている。
・その温かいつながり感はリーモート状態でのコミュニケーションで経験するものとは、まったく異なっているので、一体何がおきているかを少し詳しく考えてみたいと思う。
◇矛盾的自己同一という見方
・結論から言えば、ネットを介した状態で、参加者を「多」とし、そのネット上の場所を「一」とする西田幾多郎の矛盾的自己同一「一即多、多即一」が生まれているのである。そして参加者はその矛盾的自己同一をその内側から体験しているのである。
・これはネットを介して西田哲学の体験をしていることになるのである。そこで参加者(「多」)の間に感じているのは互いの存在のつながり感である。何故このような状態が生まれたかというと、参加者が無自覚の内に〈いのち〉の与贈を場所「一」におこなっているために、〈いのち〉の与贈循環によって場所の〈いのち〉(「一」の〈いのち〉)に包まれているからである。
◇「鍵」と「鍵穴」という見方
・このことを、少し別の方から眺めて見ることにすると、場所と多様な存在者(生活体)があるときに、居場所と多様な存在者が「鍵穴」と「鍵」の関係で相互に誘導合致して自己組織的に生まれる状態が矛盾的自己同一であり、その場合に多様な存在者は互いにつながって、「鍵穴」に合致する一つの「鍵」をつくるのである。
・勉強会の時に経験する温かいつながりは、「鍵穴」としての家庭に住む家族のように一つの「鍵」の関係になったときに経験する互いの存在の温かいつながり感によって生まれているのである。
◇情報の循環とその情報の意味について
・ここで相互誘導合致が自己組織的におきるかどうかは、自己組織的に〈いのち〉の与贈循環がおきる「場所」の活きをネット上でつくることができるかどうかがポイントになる。それはその「場所」に「場所の〈いのち〉」を与えることができるかどうかということと関係している。
・具体的に考えると、場所と存在者の間の情報の循環によっておきる意味の循環(〈いのち〉の活きの循環)が生まれることによるのである。情報の循環は「指揮者」のこばやしさんの活きによっておこなわれる。
・そしてその情報に意味を与えるのは私(清水)がつくる「楽譜」である。その意味は参加者の皆さんが与贈される情報の意味を自己組織的に包んでいくものでなければならない。
→したがって「楽譜」はテキストであってはいけないのである。多様な個体からの様々な与贈に応じられるように「生きている」必要がある。
◇ネットでも成立する矛盾的自己同一
・このように「楽譜」によって限定された範囲においてであるが、ネットを介して矛盾的自己同一をつくることができたのは、場の研究所としては非常に大きな成果であると思う。
・居場所における多様な個体の間の情報循環に最初に目をつけたこばやしさんの活きの意義は大きいと思う。
・それにつけ加えなければならないこととして、参加される皆さんの互いをつなぐ〈いのち〉の自己組織的な活きがあることは絶対的な必要条件である。その活きがあってこそ、ネットを介した矛盾的自己同一は生まれているのである。
◇「哲学カフェ」における課題
・少し飛躍するが、ネットを介して考える代わりに、同じ一つの場所的空間に集まって、たとえば哲学カフェの形で話し合ってみる方が矛盾的自己同一をつくりやすいのではないかと考えられるかも知れないが、問題は家庭のように全員が〈いのち〉の与贈循環をすることができるような〈いのち〉をもった居場所をその場所につくることができるかどうかということと関係していると思う。「楽譜」を予め与えられた上で、互いの存在を認め合うようにして話し合うことができるかどうかである。家族が互いの存在を知っているように、互いの存在が理解できているかどうかと関係している。
・一般的に言えば、参加者の互いの違いが目立ってしまい、ネットを介しておこなうよりも、かえって難しいのではないかという気がする。それは「待つ時間」を何処まで認めるかということと関係があると思う。
・こばやしさんの「指揮」でネットを介しておこなうときには、「楽譜」が先ず数日前に与えられ、その上で互いの意見を一日前に場所に送るので、参加者は様々な角度から考えることができるが、直接出会って話すときには、その時間を長くとることができないので、自己組織的に矛盾的自己同一の状態にもっていくことはかなり難しいと思われる。
◇自己組織的な「つながり感」の大切さ
・勉強会の時に生まれるつながり感は共存在の体験的な活きであって、知識を共有することで生まれるものとは異なっている。
・それは家族が互いの存在の間のつながりを体験することで、家庭という居場所に共存在していることを自覚することに似ている。それは「楽譜」を含めて、場所ができているからである。
・そのために、家族としての自覚が互いの間の共存在意識を強めて、家庭を暖かい場所にしていくが、勉強会で体験するつながり感もこうした温かさを与えてくれる。
→つまり「楽譜」の活きによって、参加者の間に自己組織的につながり感が生まれるように場がはたらくのである。
◇「楽譜」は参加者と感情的に〈いのち〉をつなげるもの
・そのためには、繰り返しになるが、〈いのち〉の与贈循環、具体的には勉強会の場所と参加者の間の情報の循環と、それにともなって生まれる〈いのち〉の活きの自己組織による場所的存在の自己組織が必要である。
・後者が生まれるためには、「鍵穴」の〈いのち〉の活きとなって「鍵」の自己組織的形成を進めてくれる「楽譜」が必要である。「楽譜」は客観的に知識を与える活きをするテキストとは異なっていて、それ自体が〈いのち〉の活きをもっていて、最終的には「鍵穴」(場所)と「鍵」(存在者)を矛盾的自己同一の形に相互誘導合致させることができるものでなければならない。
・そのためには、まず参加者と「楽譜」の〈いのち〉が主客非分離の形になることが必要である。(ここで〈いのち〉と生命の違いを確認しよう。)
→そのために、「楽譜」は参加者と感情的に〈いのち〉がつながることが必要である。実際の交響曲の演奏でも、楽譜と楽団員の演奏とが感情的につながらなければ、聴衆を感動させることはできないであろう。
◇「楽譜」とテキストとの違い
・「楽譜」をテキストとみて、一回だけ受け取り、その後は参加しないということは、時間のない方がやむを得ずおこなわれている参加の方法であると思うが、「楽譜」にはテキストとしての知識も与えてあるので、知識中心に考えると、これは一つの効率的な参加の仕方であるかも知れない。
・しかし、自己組織的な〈いのち〉の活きが自己のなかからも生まれて、居場所と矛盾的自己同一の状態になるということを実際に体験する機会があるのに、それを捨てて知識だけを考えるということは、情報の洪水のなかを人びとが孤独に包まれて生きている現代社会から抜け出る方法を知らない状態に自己を置いたままということになるので、別の見方からすると非効率的であり、できれば避けたいものである。
◇コミュニケーションにおける矛盾的自己同一の生成の難しさ
・哲学カフェのように、現実の場所で実際に出会って他者の話を直接聴くことは、もちろん意義は大きいのだが、その方法では矛盾的自己同一の形は生まれないのではないかと思われる。
・それは交響曲の指揮者のように、居場所の活き(楽譜)を独立して表現する人(「一即多、多即一」の「一」を表現する活きをする人)がいないからである。
・もしもそのような人が哲学カフェでも現れる方法があるなら、西洋の哲学でも矛盾的自己同一は言われていなければならないことになり、西田哲学を待つまでもないことになる。
・したがって、ネットを介した矛盾的自己同一の生成は、場の研究所の勉強会で生まれた新しいコミュニケーションの方法であると、私は考えてみたいのである。
◇温かい〈いのち〉のつながり感が大切
・ここでついでですので、私(清水)の経験を言うと、昭和と令和を生きてみて、一番大きく差を感じることは孤独感の強さであると思う。もちろん、孤独感の強さは令和という時代の大きな特徴である。
・そして、これは日本だけの問題ではない。たとえばプーチン氏や岸田氏のあり方を考えてみると、この孤独感が地球の未来に暗い影響を与えることは確実である。
・私たち個人がこの孤独感を和らげる貴重な場を期待して、月々の場の研究所の勉強会が来るのが待たれる。
・勉強会の参加者が、「指揮者」としてのこばやしさんの「指揮」の下で、相互誘導合致によって「鍵穴」に合致する一つの「鍵」となって、「楽譜」の活きを表現していく。そこに生まれる活きに温かい〈いのち〉のつながり感を感じて、それぞれがつながって一つの「鍵」になろうとするのである。
→その〈いのち〉の自己組織的な活きこそが、私たちの心の底に潜む強い孤独感を消していくのである。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
(なお、上記の楽譜の内容は、清水先生がよりわかり易くするために加筆修正されました。)
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◎2023年4月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年4月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、従来通り第3金曜日の21日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年4月1日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
3月になり、ようやく春を感じる日々が増えてきました。
コロナの感染者が減少傾向になり、マスクの装着ルールも緩和の話が出ていますが、本来あるべき医学的、科学的な説明が今一つ明確でなく、やはり自己防衛して行くのが重要だと思はざるを得ません。そして戦争も終結が見えず、大きな地震まで発生してしまい、地球そのものの悲鳴が聞こえてくるように感じています。
明るい未来を語れるような時代になって、世界中の人びとが夢をもって生きて行くことができるように願っています。
さて、場の研究所の第33回「ネットを介した勉強会」は、2月17日(金曜日)に無事終了することができました。「楽譜」のテーマは『生死の無常』ということで、「居場所の生命的複雑性の深刻化」という今の時代に考えるべき内容で始まりました。
勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。
そして、3月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の3月17日に予定しております。(第34回)
清水先生からの「楽譜」のテーマは『ネットを介した「矛盾的自己同一」』の予定です。
基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。
「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年2月の勉強会の内容の紹介:
◎第33回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:「生死の無常」
◇居場所の生命的複雑性」の深刻化
・ロシアが始めたウクライナ戦争には終わりの形がなく、どちらかの側がもう戦えなくなるまで続けられ、世界の国々も直接間接この戦争に巻き込まれて、生活や経済や環境がすっかり変わってしまう可能性すらあると思う。
・もともと生死は無常であり、私たちは何がおきてもおかしくない人生を生きているのだが、地球の〈いのち〉の限界に近づきつつあり、さらにその変化とウクライナ戦争とがつながることで、ますます生死の無常を生み出している「居場所の生命的複雑性」の様子が深刻な状況になって来たと思える。
◇仏教における菩提心の伝え方の難しさ
・「居場所の生命的複雑性が生み出す生死の無常を生きる」という問題は、現在の我々だけの問題ではなく、遠くはその問題に悩んで釈迦は住みかであった城を出て、どの様に人生を生きればよいかを長年修行しながら考え続け、やがて菩提樹の下に座って明けの明星を見たときに、一瞬にして菩提心というその心のあり方を悟ったと言われている。
・それ以降、菩提心を釈迦から人へ、そして人から人へと伝えることが仏教の目的となったのである。
→また後でも言及するが、自分だけの独力で菩提心を掴むことができた人は、釈迦以外には歴史に現れていないので、このような伝え方が必要になっているのである。
・ここで重要なことは、菩提心は情報ではなく、自己組織的に生まれる身体の〈いのち〉の活きであり、こばやし(小林剛)さんが鍛冶の技を師匠から直接学ぶことによって身につけつつあるように、それを身につけた人から直接学ばなければ身につけることはできないものである。
・師となるその人がいなければ、自己の努力だけではそのことが不可能であることを悟ったことから、親鸞は法然の下で別の生き方を選んだのである。
◇道元の仏教の伝道に対する考え方
・1225年と言えば、今から千年前であるが、これは道元が中国曹洞禅の天童如浄から人から人への形で菩提心を授けられた年である。道元はすぐ帰国して、やがて日本に曹洞禅を広めるのであるが、彼が帰国してそれほど年月が経っていないときに書いた『学道用心集』には、「仏教は理解することで身につけることができるのもではなく、釈迦から菩提心を身に受けた人から「人から人への形」で直接的に学ばなければ身につけることはできない。しかし日本には菩提心を身につけた人がいなかったことは、これまでの仏教界の言動から理解できる」という趣旨のことを書いている。
・彼はやがて既存の仏教から迫害を受けて、福井に日本曹洞禅の永平寺を開くに至るのであるが、彼が如浄から認可を受けたのは「身心脱落・脱落身心」によってであると言われている。
◇生死の無常の原因を乗り越える考え方
・私(清水)は生死の無常の原因である「居場所の生命的複雑性」を乗り越える菩提心は、〈いのち〉の居場所としての地球への徹底した〈いのち〉の与贈と、そのことから生まれる〈いのち〉の与贈循環の活きを自己組織的に身体に生成する以外には直接的な方法はないと思っている。
・そのことを、〈いのち〉の居場所である地球を「舞台」にして、「役者」となって「〈いのち〉のドラマ」を演じきることができる状態と表現することにする。釈迦の場合は、長年の厳しい修行によって、この「〈いのち〉のドラマ」の「役者」となることができるだけの〈いのち〉の活きが身心に備わっていたものの、その「舞台」が分からないという状況にあったために、実際にどう生きていけばよいかが分からなかったのではないかと思われる。
・言いかえると、「舞台」が不明で「〈いのち〉のドラマ」のストーリーを与える内在的拘束条件が掴めなかったために、「役者」の形が掴めなかったのではないかと思われる。
・その釈迦に明けの明星が内在的拘束条件を示す状態になって、「この星が見える世界が舞台である」と「舞台」を教えたのだろうと思う。
・そのことによって、釈迦は一瞬にして菩提心(「〈いのち〉のドラマ」の「役者」としての身心のあり方)を自己組織的に身心に掴んだと思われる。
◇内在的拘束条件を掴むということについて
・道元の場合は、「身心脱落」という言葉が内在的拘束条件となって、「役者」としての彼の身心の状態「脱落身心」を掴んだことを、師である如浄が認めて、認可をしたと思われる。身心が脱落していれば、自己の〈いのち〉の〈いのち〉の居場所への与贈も、心理的な抵抗もなく自然におこなえると思われる。
・「役者」としての「〈いのち〉のドラマ」の演じ方は人によって異なる。そうでなければ、自己言及のパラドックスの形が生まれるから、それでは「ドラマ」を演じることができない。→ということは、内在的拘束条件は同じであっても、それを表現するサインや言葉は人によって異なっているということである。
・サインや言葉は異なっていても、それが同じ内在的拘束条件を表現しているかどうかが分かるのは、実際に内在的拘束条件を掴んでいる人(この状況の場合は天童如浄)しかいないので、彼によって確認して貰うしかない。
・それは、こばやし(小林剛)さんが修行によって鍛冶の「腕」を一歩々々上げながら、内在的拘束条件を何処まで掴んでいるかを、師匠によって確認されながら師匠の技を受け継いでいくことに似たステップアップが必要になる場合が多いと思われる。
・その修行が禅仏教の場合は、坐禅ということになるのである。このようにして、釈迦から人へ、その人から次の人へという形で、釈迦と本質的に同じ菩提心を身心につけていくためには、それを身心に付けた人から直接指導を受けながら、一歩々々の修行の結果を確認してもらうより方法がない。
◇人から人へ伝えていくことの重要性と難しさ
・釈迦によってインドに生まれた菩提心は達磨によって中国にも伝えられたことは知られているが、千年も以前にそれを知るためには、中国に直接渡って、それを受け継いでいる人に出会って、人から人への形でその人から受け継いでくる以外に方法がなく、その人がどこに存在しているかという具体的な情報そのものが十分伝わっていないわけであるから、中国に渡った後でも幸運に頼るしか方法がないことになる。
・道元の場合は天童如浄との出会いという非常に大きな偶然の幸いを得て、これがかなえられたのである。そこで道元に伝えられてきた世界は、彼自身の手になる『正法眼蔵』によって現代に伝えられている。
◇与贈の一つが念仏
・このような方法に恵まれない多くの人びとは、どのようにして救われたらよいのだろうか。実際、釈迦と同様に〈いのち〉の居場所へ自己の〈いのち〉の与贈が十分にできればよいのだが、そのためには与贈の方法が分からなければならない。
・道元のように人から人へと直接的に伝えられていく方法を聖道門仏教と言うが、仏教には、その方法に恵まれない人びと(凡夫)のために浄土門仏教が存在することを、無量寿経という経典は釈迦の言葉として伝えている。
・浄土門仏教におけるその与贈の方法は簡単で、阿弥陀如来を心に描いて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることなのである。その方法によって、菩提心を獲得できるかどうかは、結局は無量寿経を「真理の経典」として信じきることができるかどうかにかかっている。
→それができれば、自己の死後も、阿弥陀如来によって無意味な状態から救われることになる。
◇生死の無常を越えるための親鸞の行動
・当時の最高学府に相当する比叡山の延暦寺で8万4千と言われる大乗仏教のすべての経典を読んで、説教を聞き、議論をするなど、聖道門仏教にしたがって修行しているだけでは、(菩提心を直接伝えている人がいないために)菩提心は掴めない。
・比叡山で20年も真剣に修行してきたけれど、煩悩に足をとられて到底菩提心を得られないということを悟った親鸞は、すでに「専修念仏」を唱えて山を降り、浄土宗を開いて吉水に教団をつくっている法然の下に100日間も通って、その結果、遂に法然の浄土宗教団に移る決心をしたと言われている。
・結局は、法然に質問を100日間もぶつけてみて、生死の無常を越える活きをもつ〈いのち〉の与贈の力に匹敵する力が念仏にあることを、親鸞は彼なりに確かめることができたのではないかと思われる。
◇念仏と〈いのち〉の居場所への与贈について
・自己の〈いのち〉の活きが〈いのち〉の居場所の〈いのち〉の活きに包まれていることを感じる心が菩提心であり、その活きを得るためには自己の〈いのち〉の〈いのち〉の居場所への与贈が必要であるとするならば、念仏は少なくとも形の上でこの条件を充たしている。
・菩提心は与贈循環によって、〈いのち〉の居場所から自己が与えられる心の活きである。したがって、無量寿経を釈迦の言葉(真実)の記録として、その真実性を心から信じて念仏を唱える限り、菩提心を与えられることになる。
→このことによって無常がもたらす闇から救われてきたことを、浄土門仏教を信じた多くの人びとが示している。
・たとえば歎異抄第二段の親鸞の念仏に対する力強い信の言葉に活かされた(幼い頃両手両足を失った)中村久子の後半の人生にそれを見ることができる。
◇人びとの孤独感を和らげるための与贈循環
・温かい心だけが癒やすことができるのは、孤独になってしまった冷たい心である。与贈循環によって菩提心が生まれることで癒やされるものは人びとの孤独な心である。
・人から人への贈与には抵抗があっても、人から居場所への与贈はそのいやしのためなら抵抗なくおこなうことができる。
・人びとの心に住みついている救いのない孤独感は、何もしなければ、それ自体がその活きを自己触媒的に強めていき、やがてどこかで殺人や戦争の形で表現される。
・資本主義経済では、その原理ともなって、独占へ競争がますます強まっており、イノベーションの形では、もはやその競争を抜けられない。今後もAIの活用によって、独占への競争は世界的に強まり、ますます強い孤独感が人びとの心を占領して、世界に広く殺人や戦争の原因をつくっていく。
・私(清水)が経験してきた昭和と令和の時代を比べると、令和の現在では人びとの孤独感が非常に強まっている。この地球における生死の無常がそれだけ強まっているわけであるから、可能な場所で、可能な方法で与贈循環の形をつくって、人びとの孤独感を和らげていくことが私たちの最も重要な課題となっているのである。
◇与贈循環を基盤にした思想の表現
・道元にしろ、親鸞にしろ、形は異なっていても、〈いのち〉の与贈循環を基盤にした思想を新しく社会に表現して、伝統的な権力者から迫害を受けたのであるが、共に厳しい時代を生き残って、日本の代表的な思想として今日まで生きた形で伝えられていることは注目に値する。
・日本人が経験した最も厳しい時代で、日本人の平均寿命が18歳であったと言われる鎌倉時代を、創造的に生きた道元や親鸞から与贈循環の活きを学んで、今後の厳しい時代に活かすことができれば幸いである。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
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◎2023年3月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年3月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、従来通り第3金曜日の17日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年3月5日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
2023年も2月になりました。
大寒波の到来もあり、雪での被害が出ている地域のメンバーの方はご苦労されているのではと心配しております。そして、全国的に寒い毎日がその後も続いていますが、いかがお過ごしでしょうか?
新年になってからもコロナの感染拡大や戦争の終結が見えないという忍耐力を試されるような悲しい状況が続いています。どちらも早く収束方向となり、明るい未来が予測できることを期待しております。
場の研究所の新年最初の第32回目の「ネットを介した勉強会」ですが皆様のおかげで、1月20日(金曜日)無事に終了することができました。テーマは『多様性と一様性』でした。現代の一様性の傾向が強い世の中にあって、多様性を重んじた居場所が拡大していくことを願っております。
勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。
そして、2月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の2月17日に予定しております。(第33回)
清水先生からの「楽譜」のテーマは『生死の無常』の予定です。
基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。
「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年1月の勉強会の内容の紹介:
◎第32回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:「多様性と一様性」
◇隷属化原理について
・社会をガウス分布によって、違いを表すことができるような一様な人びとの集まりであると仮定して、その統計的な性質をもとにして様々な社会的施策が考えられている。
・Hakenの自己組織理論で使われているSlaving Principle 隷属化原理も要素の一様性を出発にしている。
・もしもすべての生活体(自律的に生活している要素)が同じなら、現在形成されている秩序にしたがって生きるのが望ましく、隷属化原理が成り立つ。
→そして人びとは「べきの論理」に支配されるわけである。
◇隷属化原理が成立しない条件とは
・しかし人間の身体を構成している臓器や器官となると、たとえば心臓と肺臓と肝臓のように機能がまったく異なるし、また互いに異なっていることが大切であるから、他の臓器や器官に合わせて活動するというわけにはいかない。
・しかし互いに身体の一部を構成しているので、他の臓器や器官の活きを無視して活動することもできない。
→生活体が多様で主体的であると、隷属化原理は成り立たないのである。
・それでは何かの原理があるかと言えば、私が思いつくのは西田幾多郎の矛盾的自己同一「一即多、多即一」くらいであり、それで何かが明らかになってくるというわけにはいかない。
・私は多様で主体的な要素(生活体)の集まりには、これから紹介していく時間差相互誘導合致という新しい法則を原理として使うことができると思っている。
◇未来の存在する居場所の重要性
・以前、前川泰久さんが本田技研で排出ガスによって大気を汚さない新しいCVCCエンジンを載せた車が創造されたのは、「子どもたちに青空を残そう」という言葉によって、様々な部署の人びとが互いの違いを越えて協力したからであるという趣旨のことを書かれていた。
・つまり、多様な要素(生活体)が現在存在している違いを無視して、未来に存在する青い空の居場所に誘導合致されて働いたのである。
・ここで大切なことは、多様な要素(生活体)の現在の状態とそれらが存在する未来の居場所の間には時間差があるということである。
(現在の居場所における要素の間の関係は決められていない。無限定である。)
◇時間差相互誘導合致について
・時間差があるために多様な要素(生活体)は居場所の未来に形成されるであろうと思われる秩序に向かって、自己の判断で生きていくことができるのであり、またその居場所の未来の状態の方も、要素(生活体)生活体の未来への希望に影響を受けて決まるわけであるから、多様な要素(生活体)生活体と居場所の間の関係は時間差のある相互誘導合致(時間差相互誘導合致)の形になる。
→このために居場所が名詞ではなく、相互誘導合致の活きをもった動的な名詞(動名詞)としてはたらくのである。
・多様な要素(生活体)は互いに未来に向かって進むことで協力できるところは協力し、互いに妨げ合わないことが必要である。
→つまり、未来の居場所と現在の要素(生活体)の集まりという時間差がある相互誘導合致である。
◇「〈いのち〉のドラマ」には時間差が必要
・このように居場所の時間を多様な要素(生活体)の時間からずらした時間差のある相互誘導合致によって生まれるのが「〈いのち〉のドラマ」である。
・「〈いのち〉のドラマ」では多様な要素(生活体)が多様な「役者」となり、そして未来の居場所の状態が「ドラマ」が到達する「舞台」の最終的な状態である。
・「ドラマ」では、多様な「役者」が同じ「舞台」に共存在して、互いに助け合って演じることが一般的である。
・そこで「ドラマ」にとって必要なことは、多様な要素(生活体)が存在する状態と居場所の最終的な状態の間に時間差が存在していることであり、その時間差がなくなれば「ドラマ」は停止して終わる。
◇身体における「〈いのち〉のドラマ」
・私たちの身体でも、多様な臓器や器官が共に「〈いのち〉のドラマ」を演じているのであり、その結果、もしも居場所としての身体の状態と多様な臓器や器官との時間差がなくなれば「ドラマ」を演じることはできないから、臓器や器官は共存在できなくなって生きていけず、死ぬことになる。
・要素(生活体)の一様性を前提にして導かれた隷属化原理は時間差がない状態で導かれたものだから、「〈いのち〉のドラマ」を演じている「生きているシステム」には使えないことになる。
→つまり多様な要素(生活体)の共存在を考えるときには使えないのである。
◇「〈いのち〉のドラマ」に必要な〈いのち〉の時間差与贈循環
・このことから分かるように、到達すべき居場所の状態を未来にもっていることが生き続けていくための絶対的な必要条件になる。
→その必要条件の下で生きていく形を生み出すために必要なことが多様な要素(生活体)から居場所への〈いのち〉の与贈である。
・自己の〈いのち〉を与贈しない「役者」は「舞台」に上がれない。「役者」たちの〈いのち〉の与贈は居場所に未来の「夢」に向かって生きる形を生み出すのである。
→居場所の未来に「夢」があることから、「〈いのち〉のドラマ」の進行に必要な時間差が生まれてくるのである。本田技研の「青い空」は「本田技研の夢」だったのである。
・未来の「夢」からの居場所の〈いのち〉の与贈循環を多様な要素(生活体)が受けると、共に生きていく目的が生まれて、「〈いのち〉のドラマ」を共演していくことができる。「ドラマ」の共演が共存在の形である。
→多様な要素(生活体)の現在と、居場所の未来を具体的に結びつけているのは時間差を踏まえた〈いのち〉の与贈循環(〈いのち〉の時間差与贈循環)なのである。
◇スパイラルな円環的時間によって進行する未来へのドラマ
・多様な要素(生活体)からの〈いのち〉の与贈によって、未来の居場所の〈いのち〉の自己組織が進むために、その状態を多様な要素(生活体)に循環してくる時間差与贈循環は要素(生活体)の現在を居場所の未来につないでいく活きをする。
・多様な要素(生活体)の〈いのち〉が連続的に与贈されていく結果、〈いのち〉の時間差与贈循環が継続的に進行する。その時間差与贈循環によって、居場所に「〈いのち〉のドラマ」が生まれて進んで行くのである。
・継続的な時間差与贈循環にともなって循環しながら進行する時間はスパイラルな形をした円環的時間であるから、多様な要素(生活体)が「役者」となって居場所を「舞台」にした「〈いのち〉のドラマ」が進行していくのである。
・多様な要素(生活体)の活きは互いに独立しているので、それを横から見ると、「舞台」としての居場所への「役者」それぞれの〈いのち〉の主体的な与贈になっており、互いに妨げ合うことはない。
・そして、そのドラマによって生まれるスパイラルな円環的時間にしたがって多様な要素(生活体)の〈いのち〉は時間的に同調しながら未来に向かって「ドラマ」の形で進行していくのである。
・多様な独立した要素(生活体)の〈いのち〉はその進行にともなって自己組織的につながっていき、直線的な時間のなかにあるときのように互いに妨げ合うことをしないのである。
◇時間差与贈循環により生まれる「幸せな生活を送っている」という意識
・未来における居場所と生活体の相互誘導合致に向けて、生活体から居場所への〈いのち〉の与贈がおこなわれ、居場所における〈いのち〉の時間差与贈循環が生まれる。
・この時間差与贈循環によって生活体の存在が居場所の活きによって救われ、幸せな生活を送っているという意識が生活体に生まれるのである。
・その時間差与贈循環によって現在の自己と未来の居場所の間に時間差相互誘導合致が起きるのです。
◇新しい夢の発見による新たな与贈の開始
・「夢」が叶えられれば、「〈いのち〉のドラマ」は終わるので、もしも多様な要素(生活体)が存在をつづけようと思うならば、昆虫の変態のように、新しい「夢」を見つけて、〈いのち〉の与贈をまた新しく始めなければならない。
・生長は「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」に新しい「役者」が次々と参加をしていくことで、「舞台」が広がって、「ドラマ」を広げて同じ一つの「夢」を追い続けていくことに例えられる。
→では、夢が広がることに例えられるだろうか。
しかし居場所の〈いのち〉の自己組織の限界にぶつかれば、時間差与贈循環が行き詰まってスパイラルな円環的時間を生み出せなくなるので、「ドラマ」そのものを新しくする必要が生まれる。
◇居場所の未来の推定について
・日本の社会は多様な要素(生活体)が存在している社会に隷属化原理を押しつけようとしているように思われる。そのことから、「〈いのち〉のドラマ」を演じられなくなる人びとが多く、長い目で見たときにこの取り違えは、日本の社会の大きな弱点になる。
・時間差相互誘導合致のための居場所の未来の読み方だが、自分の分野の居場所には感情がはたらいて、冷静に読むことができないことが少なくないために、先ず自分と直接的には関係のない分野の未来を読んで、それを参考にして自分の居場所の未来を推定するのがよいと思う。
・あるいは世界全体の歴史的な変化を頭に置いてその原因を考え、そこから自分の居場所の未来を推測することもできる。
→自分が直接的に関係する分野のことしか関心を持っていないと、行き詰まることが多いのである。
・居場所の状態というものは、相互誘導合致によって、どんどん変わっていく。隷属化原理によって居場所を見ているときは、生活体(人びと)をみな同じ存在だと考えて、その存在の多様性を忘れている。
→であるから、自分が「どんな人間として生きたいか」ということが重要である。
◇身体における「夢」とは
・ここで居場所としての身体とそこで生きている多様な生活体としての臓器の関係に戻って考えてみよう。
・これは私たちの〈いのち〉がどのようにして終わるのかということにも関係しているので誰にとっても重要な問題である。
・身体の「夢」とは何であろうか?
それは多様な家族が非分離な状態で生活している家庭という居場所の「夢」と似ている。
→つまり、家庭と家族の存在が非分離につながっているように、私たちの身体と臓器や器官の存在も非分離である。
・そのことを前提として考えてみると、家庭の「夢」は家族を非分離に含めた調和的な生長であり、すべての家族の生長もそこに含まれている。これと同様に、身体の「夢」もすべての臓器や器官を含めた調和的な生長であると、私は考えている。
◇生長していくことと、生長が妨げられること
・生長は現在を未来につなぐ「終点を示されない〈いのち〉のドラマ」であり、すべての生活体を非分離に含めた居場所の時間的進行である。
→したがってそれは常に時間差相互誘導合致を原理とし、その法則にしたがって進行する。
・多様な家族を含めた調和的な生長が家庭にとって善であるように、身体にとっても、多様な臓器や器官を非分離に含めた調和的な生長が善である。
→したがって臓器や器官の深刻な病気や身体の老化によって、この調和的な生長を妨げるような変化が身体におきると、それは時間差相互誘導合致を否定する活きとなり、不善となって死の原因にもなっていくのである。
・まとめて考えると、居場所としての身体と、そこで生きている多様な生活体としての臓器や様々な器官の活きの調和的な非分離性が破れることが不善であり、それが死の原因になるのである。
◇人間の存在する地球について
・要素(生活体)の多様性とその居場所の状態の間には時間差があることが必要である。
・このことは人間と地球の関係にも当てはまる。それを考えるために必要な前提は、人間の存在と地球の状態の非分離な関係であると考える。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
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◎2023年2月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年2月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、従来通り第3金曜日の17日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
最期に、新年に際し、皆さまの健康とご多幸をお祈りしております。
今年も「場の研究所」をよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年2月5日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
新年あけましておめでとうございます。
昨年もコロナに翻弄されてしまった一年でしたが、場の研究所の「ネットを介した勉強会」は皆様のおかげで継続でき、12月にトータル31回を重ねることができました。
清水先生の楽譜(テキスト)をベースに、参加者で議論されてきたことは、特に地球という我々の居場所の大切さを改めて感じることや、今の世の中でまだまだ不足している与贈の重要性だったと思います。
2023年はまた新たな気持ちで、場の研究所として皆様と一緒に場の思想を深めていきたいと考えております。昨年末に清水先生から「2022年も場の研究所は社会のために活動することができました。今は限られた人びとの間にその活きが、限られた形で伝わっていますが、毎月、新しい問題が提起されて、その問題を解くことで、人びとがつながる方法が示されていきます。」というコメントを頂いています。人類がお互いを思いやる社会になり、争いのない共存在の世界を築き上げるために、少しでもお役に立てるように努力していきたいと思います。
さて、昨年12月の「ネットを介した勉強会」は12月16日(金曜日)に開催いたしました。
テーマは『生命と死』でした。
勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。
そして、新年1月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の1月20日に予定しております。(第32回)
清水先生からの「楽譜」のテーマは『多様性と一様性』の予定です。
基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。
「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:
2022年、一年間ありがとうございました、そして、2023年もよろしくお願いいたします。
コロナ禍となってから、対面での活動が制限されたまま約三年が経とうとしています。
このような中で、Eメールを使った勉強会である「ネットを介した勉強会」によって活動が継続できていることが嬉しく、そして、感謝しております。
また、今年こそ、対面での活動の再開が出来ればと期待して、どのようなことが出来るだろうかと模索しているところです。
今後とも「ネットを介した勉強会」また、再開出来るであろう対面での活動への支援、また、参加をお願いします。
「ネットを介した勉強会」毎月届く清水先生からの「楽譜」(勉強会では、論文資料をこのように呼んでいます)を読むとき、気をつけていることがあります。
「楽譜」は、分析的に読むと資料となってしまいます。
せっかく「楽譜」と呼んでいるのに、これでは「資料」に逆戻りです。
私自身は、例えばオーケストラなら「楽譜」は、「楽譜」を通して作曲者の世界を体験するものとして在ってくれる、と言えるのではないか、と思うので、私もこの「楽譜」を体験として捉えるよう心がけています。
ただ、体験ですから、自身のそれと照らせるときは、直観的に捉えられますが、それが無い、又は少ないときは戸惑いも生まれます。(2022年の12月の会は、自分としては、そんな感じでした。)
振り返って思うのですが、それは、それで構わないのだと思うのです。
迷って、彷徨っていいのだと思うのです。
そうしても(迷ったり、彷徨ったり)いいよ、と一緒に学んでいる皆が助けてくれる、見守ってくれる、この勉強会は、そういうところだと感じるからです。
毎回、「その安心な中で十分に徘徊したらいい」、そう言ってもらえている感じを受けるのです。
このことが、この勉強会の強みの一つであろうと私は思います。
又、このことは、確かめたわけではありませんが、私一人が思っている、というよりも、互いにそう感じているのではないだろうか、とも思うのです。
今年も、「楽譜」を通して体験を深めていけることを嬉しく感じています。
2023年がよい年となりますように。
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2022年12月の勉強会の内容紹介(前川泰久):
◎第31回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:「生命と死」
◇生命と〈いのち〉との違い
・生命と〈いのち〉の関係は名詞と動名詞の関係である。
たとえば「永井陽子の生命」は名詞であるから、二つ以上に切り分けることはできない。したがって、「永井陽子」が死ぬときには、その生命も一緒になくなる。しかし「永井陽子の〈いのち〉」は動名詞であるから、生きている「永井陽子」から切り分けて、彼女の存在を包んでいる居場所へ与贈することができる。
・与贈された〈いのち〉は、本人が死んでもその居場所に残るから、歴史というものが居場所に生まれるのである。
・人の死に際して、その人が自分の〈いのち〉をどこかの場所に与贈していくことができれば、死の状況も変わることになる。ここに宗教や藝術が存在する原因がある。
・ただ、死に際して、死者当人がどこまで明瞭に〈いのち〉の与贈をしていくことができるのだろうかは不明である。
・念仏や「アーメン」と言った短い祈りの言葉が日頃から唱えられる理由がここにもある。科学と宗教とをつなごうと思えば、どうしても〈いのち〉の科学から出発していくことが必要になる。
◇〈いのち〉の三つの活き
・これまでも、繰り返し説明してきたことだが、名詞としての生命には存在しないけれど、動名詞としての活きをもっている〈いのち〉には存在する活きとして、「〈いのち〉の与贈」、「〈いのち〉の自己組織」、そして「〈いのち〉の与贈循環」がある。
・この三つの活きがあれば、自己の存在を円環的時間で包む居場所が生まれるし、さらに「くり込み相互誘導合致」(「くり込み与贈循環」)によって居場所に〈いのち〉の歴史が生まれ、時代を越えて継続されていく。
・表現を変えれば、「〈いのち〉のドラマ」を演じる必要条件が充たされるからである。
◇かけがえのない自分と「いま、ここ」
・「この広大な宇宙で二度とは得られない生命をいま自分は得て、たった一度だけの人生を生きている。この瞬間の貴重さを思えば、ほとんどの悩みは取るに足りない。」学生の頃からこのように思って、私は自分の悩みを幾度も乗り越えてきた。
・「果ての知れないこの広大な宇宙」における「〈いのち〉のドラマ」を、たった一度しか出現しない欠け替えのない「役者」として、「この広大な宇宙」の「いま、ここ」の一角で自分自身が演じているという状況を、どう理解したらよいだろうか。
・先ずは父母があって、その遺伝子を受けて、私という個人の生命が生まれたことは偶然的なできごとであり、私でなく、「私の兄弟」が生まれる可能性もいくらでもあったと思う。しかし、偶然の結果として存在している私の方から見れば、すでに生命を与えられて「いま、ここ」に存在していることになる。
・そのために、「何故、「いま、ここ」なのか?」という問いに私自身が答えようとすると、私はどうしても自分自身の生命を越えて、その〈いのち〉の存在を問わなければならないことになる。そして自分が「役者」として「〈いのち〉のドラマ」を演じていく「舞台」として、既に「この広大な宇宙」における地球という場所を与えられていることに気づく。
・「舞台」は時間に包まれた空間であるから、それは私自身の存在を円環的時間によって共存在状態にする「〈いのち〉の居場所」である。だから、それはその「〈いのち〉の居場所」の「いま、ここ」であり、したがって私の存在はその「いま、ここ」にいるように、すでに外在的拘束条件を受けているのである。
・しかし「私の〈いのち〉」が宇宙で一度だけしかおきない偶然のできごととして「いま、ここ」に存在しているということだけでは、私が宇宙における「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」に「役者」として登場して、その〈いのち〉を表現できること---「役者」として「〈いのち〉のドラマ」を演じられること---にはすぐならない。
・つまり「宇宙的なできごと」として自己の〈いのち〉をもらうだけでは、私が「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」に登場して、その〈いのち〉を「いま、ここ」で表現することはできないのである。
◇与贈することが一つの答え
・そこで必要になるのが、一つしかない自己の〈いのち〉を「舞台」としての場所的世界(〈いのち〉の居場所)に与贈することである。言いかえると、それは私自身の〈いのち〉を「舞台」に与贈することによって、私自身の存在の内在的拘束条件を充たすこと---「役者」としての「役」を「舞台」につくること---である。
・少し先回りをして説明すると、私が自己の〈いのち〉の存在を宇宙の「いま、ここ」で表現していくことは、このようにして外在、内在の両種拘束条件が充たされることから生まれてくるのである。さらに一般的に言えば、私は「いま、ここ」で自己の〈いのち〉を宇宙の歴史に表現しているのだ。
・内在的拘束条件の活きを受けて、私の存在はその「舞台」である「この広大な宇宙」でたった一つしかないものとなっていくのだが、それは同じ「舞台」に全く同じ「役」の「役者」が複数いることは自己言及のパラドックスを生み出すから、その可能性が内在的拘束条件によって排除されるためなのだ。
・このように考えていくと、「私の〈いのち〉」が「いま、ここ」に存在して「〈いのち〉のドラマ」を演じていることは、「この宇宙」にただ一度だけしか起きない偶然的なできごと---宇宙的な意味で偶然的なできごと---である。
・しかし、このことは「〈いのち〉のドラマ」を演じている他の誰の〈いのち〉についても同様に言えることであり、さらに人間を越えて存在の範囲を広げることもある程度できると思われる。
◇「〈いのち〉のドラマ」は生と死によって演じられていく
・「〈いのち〉のドラマ」は生きものたちの生だけによって演じられていく「ドラマ」ではない。生と死によって演じられていくものである。
・生と死が交差する地球という「舞台」で「〈いのち〉のドラマ」が演じられてきたことは、私たち自身が毎日多くの生きものの〈いのち〉をいただいて生きていることにも繋がっている。死と生との境を越えて〈いのち〉の与贈循環が「舞台」としての場所的世界でおきていることから、場所的世界としての地球から与贈される居場所の〈いのち〉に包まれて私たちは生かされているのである。
・そのことを次のようなことから理解していくことにしよう。
木の葉にはそれぞれ誕生があり、またその一生を終えると生命を失い、落ち葉になって木から落ちる。木の葉一枚一枚が〈いのち〉をもって生きているのである。木の葉が元気な間は活発に光合成をして、そして得た〈いのち〉の活きの多くをそれぞれの居場所である木に与贈して、木を生長させていく。それにともなって木から循環的に、葉の〈いのち〉の維持に必要な水分や栄養などの物質や生理的な状態の与贈を受ける。この与贈循環によって円環的時間が生まれて、木と葉を全体的に包んでいく。
・そして葉がそれぞれぞれの〈いのち〉を失って落ちるときには、それぞれがはたらいて木に与贈してきた〈いのち〉は木に残る。生活体が死ぬときには、与贈した〈いのち〉を居場所に残して死ぬのである。
・しかし死ぬということは、それだけでは終わらない。木の葉という存在そのものを森(地球)に与贈するという行為がその死であり、与贈したその葉にバクテリアがついたり、虫がついたり、それを小鳥が食べたり、そしてその状態が雨に流されて海に運ばれてプランクトンが発生して、魚の群れが生まれたりして、地球における類と種を越えた生命の循環が始まるのは死によって開かれる生命のドラマであるからだ。それは死によって開かれる外的拘束条件の更新である。
◇死の重要性
・私たちが毎日〈いのち〉をいただいて生きていることから考えても、この木の葉の例は少し形を変えて、一般化することができると思う。そのなかで死はこのように、それぞれの居場所に空間的に孤立していた時間を、地球全体に開いていく活きをしているのだ。
・その意味で、死は「〈いのち〉の超新星の爆発」に相当して、「空間が時間を包む構造」を「時間が空間を包む構造」に変えて、〈いのち〉の歴史である生物進化を地球につくっていく。
・死のない居場所には、それ故、〈いのち〉の歴史は継続的に続かない。「死のない地球」は地球ではないのである。私たちの死は、私たちの全存在そのものを地球に与贈し尽くしていく、それぞれ一回だけの大きなできごとである。
・その活きを信じる者には、これまでも私自身が「たった一度だけの人生を生きている存在の貴重さ」によって自己の悩みを救われてきたように、救いをもたらされる。
◇死を含めた全存在の与贈循環の活き
・「〈いのち〉のドラマ」のイメージには、このように死を通じておきる文字通りの全存在の与贈循環の活きを無視できない。実際、生命が地球に生まれて以来、全存在の与贈循環によって生物進化が「生命の歴史」として進み、現在の地球における生きものの状態に至っているのだ。そして私たち人間も、居場所としての地球から与贈される時間が空間を包む場所的な活きに包まれることによって、その存在を維持している。
・地球に生存している生きものとして、私たち人間自身もこのように生かされているが、私たち人間自身の死によって果たして居場所としての地球への全存在の与贈の活きがどこまで生まれ、そして地球を舞台とする生命の存在がどこまで更新されているのだろうか。
・先ずは、私たち自身の死によって生まれる存在の外在的拘束条件の変化がもたらす物理的な地球の変化の可能性をどう見るかである。次に内在的拘束条件の変化がある。
・「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」における「役者」としての個人の「役」は〈いのち〉の活きの内在的拘束条件によって生成されるが、この「ドラマ」の「舞台」における「役」の表現に自己の死に方も含めて考えることにすると、自己の存在が死後に「舞台」としての地球に残す活きが生み出す〈いのち〉の与贈循環について考えることになる。
・その意味では、地球における多様な生きものとの調和的な共存在に向けた考えや、その考えを具体的に実行する方法を、自己ができる範囲で残していくことが大切であると思う。
◇人間の持つ大きな創造的な与贈力
・しかしそれだけではない。それは、人間は他の生きものには見られないような大きな創造的な与贈力をもっているために、その力を活用することができるからである。
・文字通りの自己の死によって、居場所としての地球にその全存在を与贈する以前に、自分がまだ生きている状態のまま、その活きを地球に与贈することを創造的に考え出すことができるのが人間である。
・人間だからこそ、生と死を越えてその様な与贈が可能になるのである。そのことを希望的に考えると、居場所としての地球の生命的な限界に厳しく接している現在だからこそ、人間の創造的な努力が強く求められるのだ。
・地球は新しい〈いのち〉の倫理を必要としている。私たちの勉強会がそのような意味で内在的拘束条件を生み出して、「舞台」としての地球への〈いのち〉の与贈になっていくことを、心から願いたいものである。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
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◎2023年1月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年1月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、従来通り第3金曜日の20日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
最期に、新年に際し、皆さまの健康とご多幸をお祈りしております。
今年も「場の研究所」をよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年1月5日
場の研究所 前川泰久