所長ブログ


生命の同等性と〈いのち〉の多様性

人間の身体は約60兆個と言われる非常に多数の多様な細胞から構成されていると言われています。

細胞たちは互いに独立して生まれ、生きて、死ぬという生涯をそれぞれおくっています。

また人間の〈いのち〉はその細胞たちの〈いのち〉を足し合わせたものではなく、その細胞たちの居場所としての〈いのち〉に相当しています。

つまり、多数多様な細胞たちの〈いのち〉は、人間という居場所の〈いのち〉と循環的な関係をつくりながら共存在をしているのです。

細胞たちの〈いのち〉の表現が互いに異なっているのに、細胞たちが共に生きていくことができるのは、人間という居場所の〈いのち〉を共に生み出しながら、その居場所に生まれる場に自己の存在をそれぞれ位置づけながら、その位置にふさわしいしい生き方をしていくからです。

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「忘れられた日本人」から学んだこと

 宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)を読んでいます。西日本と、東日本では村落の出来事の処理の仕方が違うと言っています。西日本では早く隠居して共同作業などのことは、若い現役世代に任せ、村落内におきる難しい問題は年寄りが集まって知恵を出し合って、黙って処理をしていたということです。これに対して東日本では、年寄りが歳をとっても実権を握っていたために、村落内のできごとの処理は下手であったようです。このこととどこかで関係しているのではないかと思うことは、おたがいさまの運動は、主として中部地方より西で広くおこなわれているということです。おたがいさまは、新しい集落運動なのです。

 

 

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花の〈いのち〉

〈いのち〉あるものは、〈いのち〉に引かれる。

「生きものが居場所に合わせて生きれば、居場所もまた生きものに合わせて変わる」という「相互誘導合致の法則」がそこで成り立つ。

昆虫と花の間にもそれは確かに成り立っていると見えるが、花の魅力の期間は短い。

「花のいのちはみじかくて、苦しいことのみ多かりき」と詩をよんだ人の心を思い、虫たちを魅了する「花の〈いのち〉」の妖しい魅力を、少しでも映すことができないだろうかと考えて、身近な花にレンズを向けてみた。

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波紋と場

 最近、モノクロ写真がもっている表現の幅の広さに心を引かれている。カラー写真では表現できないものとして、モノクロ写真には「沈黙の世界」がある。ピカートは「沈黙から出た言葉は大地に突き刺さった杭のように、人の足を止める」という趣旨のことを書いている。「それはラジオからひっきりなしに流されるアトム化された饒舌な騒音語とは本質的に異なる」とも。

 人の足を止めるのは、そこに深い意識の世界から上がってくる意味が包まれているからである。同じシーンをモノクロ写真とカラー写真とで撮り比べてすぐ分かることは、モノクロ写真は沈黙の世界を表現できるが、カラー写真はそれが容易にできないということである。沈黙の世界から生まれた写真には余韻があり、カラー写真にはそれがほとんどない。意味の表現として見たときに、モノクロ写真は立体的であり、カラー写真は表層意識の世界を表現して平面的である。だから、モノクロ写真は心を止めるが、カラー写真は説明しすぎて、目で見えるもの以上に与えるものがほとんど何もない。

 未熟な技術で恐縮であるが、雰囲気を理解していただくために、「波紋と場」をテーマに沈黙の世界をモノクロ写真で映そうとしたものをご紹介する。

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春の光の中で浮かぶもの

 春の光があふれて、林の木々がいっせいに若葉を芽吹き、花々が多様な色彩をつける4月の末には、世に生きて春に出会うことの幸せに心を充たされます。美しく生まれてくる色彩は、春の喜びですが、しかし、生まれ出た色彩だけを追いかけていると、この〈いのち〉の変化をもたらした本当の主役である春の光を中心に、生み出されてくる新しい生きものの存在という「〈いのち〉のシナリオ」を見落としがちです。多くの情報おおわれてしまうと、〈いのち〉のドラマを動かしている宇宙の活きが表から隠されてしまうのです。

 そんなときに、美しく豊富な春の色彩をあえて抑えると、その奥に隠されている主役の活きを引き出すことができます。そうして撮った写真には、生まれ出てくる若葉にも、それぞれ、〈いのち〉をもっている「役者」としての存在を強く感じることはないでしょうか。それを感じるときに、私たちの存在も春のドラマを見ている〈我とそれ〉の世界から、そのドラマを演じている〈我と汝〉の世界へと移っているのです。

 

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与贈と〈我と汝〉

 雑草の花の写真を撮ろうとレンズを向けていると、小さな昆虫が、花に何かうっとりととまっているように感じることがあります。マルチン・ブーバーの言葉を借りると、両者は互いに〈我と汝〉の共存在関係になって存在しているように思われるのです。花と昆虫の関係は、花にとっては生殖行為にもなるものですから、昆虫が花に入ってみると、何かうっとりするほどの魅力を感じる場が生まれてくるのかも知れません。

 「我惟う、故に我あり」と自己を評価している人間が、自己の思いを高みから一方的に花に押しつけて、「美しい」と愛でている場合には、花からの働きかけによって「我」が変わることはなく、人間と花の間には、ブーバーの言葉による〈我とそれ〉の関係が生じていると思います。しかし、昆虫の場合には、何故それとは違っていると感じられるのだろうかと考えてみると、昆虫と花の間には互いの与贈によって〈いのち〉の循環が生まれ、その影響によって昆虫も花も態度が変わっていることが、その原因ではないかと思われます。

 画家といま描いている絵の関係、詩人といまつくっている詩の関係も、それらが創造的に進んでいるときには、〈我とそれ〉ではなく、〈我と汝〉に近い広い意味の〈いのち〉の与贈循環が生まれているのではないでしょうか。

 2016.5.10

 

 

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希望は厳しさとの相互誘導合致か

希望は、生きものの内側に生まれる「生きていく形」だ。その形が、居場所と生きものの相互誘導合致によって生まれる〈いのち〉の活きであることは間違いない。それは、未来に応えるために、生きもののからだの内に与贈されている「隠された活き」──〈いのち〉の願──が形となって引き出されてくる「〈いのち〉の芽」ともいうべきものである。その形を引き出すものは、現在の居場所の厳しさであって、決して、その温かさではない。それは、いま温かければ、それで足りるからである。

今年の1月下旬の寒い日に近くを歩いて、私は幾つかの「〈いのち〉の芽」を発見した。

 

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生成する潜在的な時間は〈いのち〉だ

     時間というものは、生成してすぐ消えていくものではないか。だとすれば、その生成する時間は暗在的で

    あり、時計で計ることができるような明在的なものではない。そうだとすれば、時計で計っているのは一体

    何ものだろうか。

 

     走っている一台の自動車を見る。どれだけの間動いているか、その時間を時計で計ることはできる。その

    間は自動車が時間軸の上を移動しているだけで、時間そのものを少しもつくり出しているわけではない。

    本当は、過ぎていった時間を固定した空間を測っているから明在的になるのだ。

  

     でも、その自動車を運転している者にとっては、未来は向こうの方から次々とやってきて、フロントガラ

    スから自己を包んでは足早に過ぎ去っていく活きだ。運転している間、時間が生れ続けては、直ちに消えて

    いるのだ。そして運転を止めれば、この時間の生成も止まる。刻々と生成しては未来から自己の方へやって

    くる時間そのものを計ることはできない。何故なら、それは自己の〈いのち〉の活きであるために暗在的だ

    から。感じることはできても、見ることはできないのだ。 

 

     植物たちは、その存在を未来へ続けようとする〈いのち〉の活きをもっている。だから、生まれる春を想

    う力は未来の方からやってきて、植物たちを包んでいくのだ。その植物たちには、冬の間にも春を想う想像

    力が活くのだ。そこで葉のない冬枯れのような細い木にも孤独な一輪の花を咲くこともある。「春よ来い」と、

    植物の想像力が花をつけているのだ。植物たちにも〈いのち〉があるからこそ、暗在的な時間が未来の方から

    春が迎えにくることを感じているのだ。

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寒中の詩

            凍てつく風の寒むさに、草木は枯れ、池の水鳥たちも動きを止める。

             見送る仲間から離れていく、孤独な一羽もあるが・・・・・・。

 

 

            動きを静めた心には、それまで見過ごしていたシーンが幾つか映ってくる。

             そうだ! 誰かが言ったように、出会うところ 我がいのちなのだ。

                   そこから醸成してくる寒中の詩は静かに心に広がってくる。

 

 

            その静かな世界に入って人生をうたう。

            それが寒中の晴れた一日の午後なのだ。

                                                                2016.1.27                                       

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沈んだ落ち葉

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静寂の道

友人から「自分にがんが見つかったが、もう手術できない状態であった」というメールを受けて、一晩考えて次のような趣旨の返事を書きました。

「マッチ売りの少女がマッチを一本また一本とすって、美しい幻想的な世界を見たように、人間は〈いのち〉という自己の「マッチ」を大きな〈いのち〉の居場所に毎日与贈して、その度ごとに現れる世界に生きて、そして最後には「マッチ」をすり尽くして終わります。ですから、一本のマッチによって生まれてくる世界をより美しいものにと願い、最後は大きな〈いのち〉の居場所の静寂に包まれること以外には、願うこと以外はできません。

いろいろな体験から、私はその静寂は「音が明在的に聞こえない」という状態ではなく、〈いのち〉の与贈循環によって与贈される大きな居場所の〈いのち〉の活きに自己の存在が包まれている状態ではないだろうかと思っています。それは、マッチ売りの少女が彼女を可愛がってくれたたった一人の人であるお祖母さんに抱かれている状態に相当するのではないでしょうか。マッチをすり尽くした少女が、あの大晦日の夜に温かく抱きとられていったお祖母さんの温かいふところに相当するその深い静寂に、君も、僕も、互いに思いを寄せることができればと願っています。」

12月の日々は、日ごとに新しいマッチを一本づつすっていくように、季節が急ぎ足で変化をしていきます。紅葉した木々は、急ぐようにして、すべての葉を落とします。そして、落ち葉が重なって地面を覆うと、それまでざわめいていた自然がしーんとした静寂の緊張に包まれます。そのような時に、一面の落ち葉の中に浮かび上がってくる道が見えることがあります。

 

2015.12.26

新民芸考(1)アルバム

 民芸とは、作り手が自己の〈いのち〉を居場所へ与贈することによって、居場所から〈いのち〉の与贈を受け、普遍的な存在美をともなった実用的な価値のある作品をつくることです。普段使いの実用性が大切であり、逆に高級品である必要はありません。後から示していくように、この新民芸考では作品と美を広く取っていきます。ここで〈いのち〉とは、生きものがもっている存在を続けようとする能動的な活きのことであり、また与贈とは、自己の名をつけて贈る贈与と異なって、贈り手が自己の名をつけずに居場所へ贈る活きです。居場所と分けることなく使い手に心を向けて、自己の〈いのち〉を与贈してつくった作品には、鑑賞を目的に名を出して作られる作品とは異なって、〈いのち〉の与贈循環によって、存在美が道具としての実用的な活きにともなって与贈されてくるのだと思います。


 ご承知のように、柳宗悦は民芸の美を阿弥陀仏の本願の第四願「無有好醜の願」に結びつけて、「他力の活き」によって生まれる美と理解しました。「新民芸考」なるものを提案してみようと、私が思ったのは、柳のこの重要な発見を心から支持しつつも、彼の領域の外側へ「民芸」の幅をもう少し広げてみることができるかも知れないと考えたからです。そんなことを、なぜ考えているかというと、民芸作品には、民芸美という形で、情報だけでは表現しきれない「物そのものとしての存在意義」が表現されていることに注目してみたいからです。そのために、道具としての実用性が普遍的な存在美をともなって〈いのち〉に親和するように与贈されていくという点に、注目しているのです。このことは、私の〈いのち〉(内在的世界)から生まれてくるITに対する違和感の裏返しでもあるのです。


 私はデジタルカメラを何台ももっていて、雑草中心に写真を撮っています。そしてそのデータを、ハードディスク・ドライブに蓄えて、時々、パソコンを通じて、かなり大きなモニターで眺め、また時間にかなり余裕があれば、映像を少し修正したりして楽しんでいます。人間が雑草に対してもっている価値観から自由になって、植物に雇われた写真師になったつもりで〈いのち〉に向き合うようにして撮った写真を、パソコンやフォトフレームで何枚も眺めていると、座禅をしているかのように心が静まってきます。ですから、私にとってこのハードディスク・ドライブは非常に貴重な存在です。


 しかし、それで満足ということだけでは終わらないものが、心に残ります。レベルの低い素人が考えることですから、プロの写真家には否定されるだろうと思いますが、このようなデータの蓄積とパソコン操作による鑑賞という世界に、果たして自分がどこまで深く満足できるだろうかと思うと、心にどうしてもまだ充たされないものがあることを感じるのです。その「充たされなさ」を言葉で表現してみると、“そこからは民芸作品が生まれてこない”と言うことになるのです。情報が「情報の世界」にどどまっている限り、原理上、時の経過によって変わったり、失われたりすることはありません。情報は造花のように、いつまでも生まれたてと変わらず、古さを表現することはできないのです。言い換えると、情報は死を失った実在性のない存在の影、すなわち死を失って外在的世界にとどまっている存在の影です。〈いのち〉のないものの世界から、民芸作品が生まれるはずはありません。


 そこで注目したいのは、情報が情報の世界から外へ出て物に結びつくことで、〈いのち〉が生まれて、死ぬことができるようになる可能性があるということです。たとえばアルバムという物は、そこに綴じられた家族写真に、家庭という生きものの年輪を表現する力を与えます。そこには家庭という内在的世界で〈いのち〉が経験してきた時間と空間が暗在的に表現されていくのです。この暗在的な表現は、写真のデータをパソコンの上に次々と写していく方法では、決して生まれないものです。それはなぜでしょうか?ハードディスク・ドライブからデータを引き出して、幻灯会のように次々と映していく方法は「多から一へ」というイベントのルールでおこなわれていくために、「全部」はあっても「全体」がないのです。それに対してアルバムから出発していく方法は、「一から多へ」というドラマのルールでおこなわれます。アルバムという物としての拘束力が最初に「全体」の「一」を与えるのです。そして個々の写真は、この全体の中に位置づけられていくのです。この「一から多へ」というルールにそっておきる歴史的発展に、家庭のドラマが表現されていきます。


 また家族がつくる家庭のアルバムでは、作り手が自己の名を残そうとしてアルバムをつくることはありません。今に至る来し方の様々なできごとを振り返り、未来のことを思い浮かべながら居場所へ心を向けて、写真をアルバムに位置づけて並べていくのです。時には、他の家族と相談しながら写真の配列を決めることもあるでしょう。またそのアルバムづくりは、家族の家庭への〈いのち〉の与贈になります。したがって、それは広い意味での民芸と言えるのではないかと思うのですが、如何でしょうか。


 ここに心に少し気になることがあります。それは、デジタルカメラが完全な情報マシーンを目指すことから、写しすぎ、着色しすぎるという外在的世界における情報の特徴をもちすぎているということです。このことは「多から一へ」というルールで多数の画素から映像をつくることと関係しています。ところが、人間の視覚は「一から多へ」のル−ルで動いています。思い出の風景や人物の顔は殊にそうではないでしょうか。この「一から多へ」の視覚のあり方に、意味とか、美とか、内在的な世界における表現がついてくるのです。


 東日本大震災の大津波で、家族を失い、家庭を失った人びとが、避難所でまず求めた物がアルバムであったと言われています。デジタル化は結構なことに思えますが、暗在的な表現の形で伝えられてきた居場所の〈いのち〉の「一から多へ」の活きを切り捨てて、機械的な「多から一へ」の働きに変えていくという重い問題を含んでいます。しかし、それでもなお私たちの手には、〈いのち〉の与贈から始めて行くという道が残っていることを、未来のために心から幸せに思っています。

2015.8.26


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知識から知恵へ

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名詞ですか、それとも動詞ですか?

 春の地球には、喜びが一気に吹き出してきます。冬の寒さに抑えつけられてきた〈いのち〉が感情となって突出する spring です。木や草たちは、この地球に存在していることが嬉しいと、喜びの姿を見せてくれ、また小鳥たちは喜びの歌を歌ってくれます。それは生きものとして、地球に存在していることの喜びです。でも、よいことが何時もそうであるように、春の喜びは足早に去っていきます。“花びらは散る。花は散らない”と言った人がいますが・・・・・・

 

桜は名詞だろうか、それとも動詞なんだろうか。また、いま柔らかな新芽をいっぱいつけているこの楓は名詞だろうか、それとも動詞なんだろうか。心のはずみをおさえかねて、“ひさかたの光のどけき春の日に・・・・・・”などと歌ってきた歌人たちも、ここに一緒に含めて考えてみましょうか、名詞なのか、それとも動詞なのかと。

 

春の日を浴びて、こんな思いに迷い込んで、“そもそも春というものは本当に名詞だろうか、それとも本当は動詞ではないだろうか”と考えこんだことがありますか?スマホやパソコンのように、IT技術では、これらはみな、名詞として取り扱われます。辞書でもそうです。なぜ名詞なのでしょうか?本当に、そう決めつけてしまってもよいのでしょうか。そう決めてしまうと、とても大切なものを、こころの片隅におき忘れて、生きてしまうことにはならないでしょうか?

 

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共存在への祈りとしての与贈

 〈いのち〉とは、人間を含めてすべての生きものがもっているもの。それは「存在を持続しようとする能動的な活き」です。その〈いのち〉の能動性はエンジンやモーターのように能動的に動くこととは違います。またロボットのように能動的に作業をすることでもありません。これらは行動的なレベルでの活きです。〈いのち〉は生きものの根底にある存在し続けようとする能動的な活きです。それは、死線を越えて存在し続けようとする創造的な活きです。エンジンや、モーターや、ロボットには、この創造性がないのです。生きものの身体をつくっている数多くの細胞が生きていても、生きものとして死んでいるということは、生きものという個体がこの創造性を失っているということなのです。

 

きょう3月27日、場の研究所へ向かう電車の中で、豊嶋仁美さんとこのような話をしていた時に、豊嶋さんが言いました「それなら人工呼吸器やチューブをつけて生きている状態は、もう個体としては死んでいるということですね」と。「確かに、それは、個体としての〈いのち〉がもう失われているということになりますね」と私は答えました、これまで人間の死にこんなに迷いのない定義はなかったと思いながら。これは私自身にとっても有り難いことであり、また豊嶋さんにも、このようなことが思い浮かぶ経験があったかも知れないなという気がしました。

 

「贈与」は贈り手が自分の名前をつけて贈ること、「与贈」は贈り手が自分の〈いのち〉を名前をつけずに居場所に贈ること。土井喜晴さんから日本料理の理想はつくり手の与贈であると聞き、それはまた民芸の美に通じると話したところ、すでに土井さんは「日本料理は民芸である」ことに気づいて、こんど日本民芸館でその話をされるとのメールをいただきました。今週、平丸陽子さんにこの話をしたら、実際、日本民芸館から土井さんの話があるという通知が民芸館の友の会の会員である自分にあったとのこと。与贈に関係している人びとが集れば興味深い出会いの場が生まれるのではと平丸さんに言われ、なるほど大変面白いと納得しました。

 

きのうは小山龍介さんと片岡峰子さんが場の研究所に取材に来られました。そこで、何種類かの植物が元気よく生えている植木鉢の写真を見せながら、地球にとって非常に重要な多様な生きものの共存在をつくり出す原理として〈いのち〉の与贈と与贈循環の話をしました。(その一部はすでに動画になっています。)小山さんとは場の研究所の活動でも与贈についていろいろ話し合ってきた仲なので、土井さんや平丸さんの事などを話ながら、「与贈の研究会」のようなものを立ち上げたいねと合意しあったところ。小山さんや片岡さんに見ていただいた植木鉢の写真を「共存在の原理」という題名で説明するブログの原稿をかいたところ、豊嶋さんがとても素晴らしいプレゼンテーションの形にして場の研究所の新しいホームページに出されました。

是非ご覧を! ブログ「共存在原理の証明」

  

きょうは、親鸞仏教センターの研究員の名和達宣さん、藤原智さん、中村玲太さんが場の研究所へ来られました。そこで、きのうの「共存在の原理」のブログの原稿をコピーして一緒に見ながらの〈いのち〉の与贈と共存在の原理のお話を。これは4月14日に学士会館で開かれる予定の「親鸞仏教センターのつどい」の打ち合わせを兼ねた話し合いです。そこで話題として、先ず共存在は共生とは異なる、なぜなら写真にあるように、死を共通の媒介者にしなければ多様な生きものの共存在はおきないから、だから生きものの死に居場所の〈いのち〉としての意味を与えなければならないから──死が居場所のものとしてすべての生きものに共有されることが共存在。死は居場所への〈いのち〉の与贈なんです。

 

 

我が家の駐車場の溝、そこへ落ち葉が与贈される、これが居場所が生まれる必要条件。

そこへ落ちてきた雑草の種が落ち葉を共有しながら芽吹いていきます。

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共存在原理の証明

 競争原理は説明できるだろうか・・・・

なぜ、こんなに多様な生きものがこの地球に存在しているかを。

 

多様な生きもの、その種類も分からないほど非常に多様な生きもの、それが共存在していることが、地球の重要な特徴ではないだろうか。

 

生きものの存在を競争原理に結びつけて考えてきたことは、人間がその地球に対して犯してきた大罪ではないだろうか。自己の「強さ」に思い上がって「弱者」の存在を無視した人間の。


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弱者を切り捨ててはいけない!

 弱いから必要ないのではなくて、弱い、強いとかに関係なく、共に存在していることに大きな意味があり、また価値があるのです。


つながっているということは、互いに与え合う関係のなかに自分の存在も位置づけられているということなのです。与え合うことによって居場所の〈いのち〉が自己組織されます。


そしてその〈いのち〉に包まれていれば温かいのです。

2015.2.24

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生きていくということ

黄昏の夕日をあびながら

沈んでいこうとする陽に向かって

母が押す乳母車に揺られて行く

遠い道。

 

幼い頃の記憶として

何故かそんな情景が

心切ない気持ちと共に

残っている。

 

ふと気がつくと、その切なさは

〈いのち〉に押されながら

休むことなく死に向かって進んでいく

一生の予感から生まれてくるのかもしれない。

 

                                                                       黄昏の夕日をあびながら

                                    冷たい二月の風に向かって

                                                                       しきりに顔を洗う一匹の猫。

 

                                                                       短いその一生を生きようとする

                                                                       野生の真剣さのようなものが

                                                                       何故か心にまっすぐ訴えてきた。

2015.2.16

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弱さという秘密

私たち生きものは誰に見せようとも思わず、
自然の中にいつも自然として、
そのまま一緒に地球に存在してきて、
満ちすぎることも、また欠け過ぎることもない。

同じ生きものでも人間は、
どれほど頑張っても、また何を考えてみても、
いつも自然からはみ出してしまい、
どうしても一緒に地球に存在できない。


何故なんだろうかと、地球にこっそり聞いてみた。
すると、低気圧が北の海でとても発達した寒い日の午後に、「互いの弱さを大切にするものは自然の仲間になることができる。

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地球の「雑草」として生きる

 「分けることによって分かる」と考えて、つながっているものを分けていったのが西洋の近代です。しかし、つながっているものを分けることから、罪が生まれるのではないでしょうか。人間の原罪とは分けるという人間の習性から生まれてくるのではないでしょうか。イスラム国は、分けるという原罪が欧米とアラブの間でこだまし合いながら成長して現れたのではないでしょうか。

 

 自然の中でみられるのは、個を越え、種を越えてつながることによって生まれる共存在です。その共存在を支えているのが、死と生がつながることによっておきる〈いのち〉の持続です。そのようにつながることから、静かな時の流れが生まれてくることをあなたは感じませんか。〈いのち〉の場とは、この〈いのち〉があなたの中に生み出す活きです。

 

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〈いのち〉の持続は種を越えて

 人工の居場所と自然の居場所とを比較して、何が自然らしさを与えるかと考えてみると、人工の居場所では多様な生きものが人工的な「垣根」によって分けられて存在しているのに、自然では入り交じって共存在していることがわかります。

 

多様な生きものが入り交じって共存在するときには、それぞれが〈いのち〉という原点に回帰して生きていく形を共創していると、私は考えています。

 

それはどういうことかと言うと、一つの種の生きものが死ぬときに、その生きものがもっていた〈いのち〉を、他の種の生きものが受け継いで、地球という〈いのち〉の居場所に〈いのち〉を持続していくということです。このように種を越えて〈いのち〉を循環的にリレーしていく形ができなければ、〈いのち〉の居場所から〈いのち〉が消えてしまいます。 

2015.1.29

 

 

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〈いのち〉の約束

 冷たい風の中で細い小枝に小さなつぼみづくりを始めている梅の木は、大地との「〈いのち〉の約束」を果たそうと、懸命の努力をしているのではないだろうか。また藪の木が沢山つけた赤い実は、大地が果たした〈いのち〉の約束ではないだろうか。そしてどんな約束があって落ち葉は道いっぱいに広がって、こうして私に踏まれているのだろうか。カメラをもって歩くうちに、このようなことを考えた。


 ふと使ってみた「〈いのち〉の約束」という言葉が懐かしく心に響いたのは、それが美しくそして豊かな未来を迎えるためにおこなうものだからではないだろうか。このごろ人の目に映るのは、競争している現在の世界ばかりで、出し抜くことだけが頭をいっぱい占めている。現在、現在、現在・・・・・・と、現在にしか生きていない人間には、よく考えてみると、約束する未来というものがないのだ。それは未来を迎えるための約束を何も大地としていないからだ。


 「株というものは、少しも未来を保証するものではない」ということに、人びとが気づいたときに、昭和の初めのあの大恐慌がおきた。これから第二の大恐慌が世界におきるとすると、もっと酷いことになるだろう。なぜなら、それは「マネーというものは、少しも未来を保証するものではない」というこれほど確かなことはない事実を、人びとが真実として受け入れないわけにはいかなくなったときに、それはおきると思われるからだ。その時に人間の存在を支えるものは、もう何も残っていない。未来を保証するものは、畢竟、〈いのち〉の約束しかないと思う。         

                                              2014.12.31 


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二種類の時間

 経済活動の時間は外在的な時間であるために時計で計ることができ、世界中の人びとが共有できます。そのような時間は、ベルクソンによれば「現在」という点の一次元的な集合であって、現在、現在、現在・・・・と瞬間が切れている現在の集まりなのです。そのように切れていることによって、開始と終了の時を計ることができるので競争の勝ち負けを決めるために使うことができます。ですから、外在的時間は「競争の時間」でもあります。また、同じ理由によって利子の計算に使うこともできます。


 一方、居場所において「生きていく」時間は内在的な時間であり、人間が、自分が生きていくことを「行く河の流れ」にたとえるときに意識される時間であり、ベルクソンの言葉を使えば、切れずに続いていること自体に大きな意味がある時間なので純粋持続と呼ばれました。その実態は、主客の二つに分離できない自己の〈いのち〉そのものを感じていることから現れるものですから、外に取り出して測定することはできません。それは居場所において生きているときに感じる時間、すなわち「生存の時間」なのです。


 現在のように、どんな存在も経済成長に結びつけて解釈してしまう社会に生きていくことが苦しさを感じさせる理由は、「生きていく」という存在のために必要な「生存の時間」が「競争の時間」に置き換えられてしまい、前後が切れた「生きている」という状態に置かれるために、〈いのち〉が続きにくくなり苦しくなるからです。


 「生存の時間」を取り戻すためには、どうすればよいでしょうか。それには、苦しくても、できる範囲で自分の〈いのち〉を、地球という〈いのち〉の居場所に与贈し続けることです。与贈を継続していれば、やがて〈いのち〉の「ドラマ」が生まれて「生存の時間」が広がっていきます。                           

                                              2014.12.22


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二重生命

 

〈いのち〉に包まれている〈いのち〉という二重生命を撮ろうとしています。

 

人びとの〈いのち〉をつなぐ広い意味での「居場所づくりの技術」が次世代文明の技術としてクローズアップされようとしています。        

                  2014.12.19