宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)を読んでいます。西日本と、東日本では村落の出来事の処理の仕方が違うと言っています。西日本では早く隠居して共同作業などのことは、若い現役世代に任せ、村落内におきる難しい問題は年寄りが集まって知恵を出し合って、黙って処理をしていたということです。これに対して東日本では、年寄りが歳をとっても実権を握っていたために、村落内のできごとの処理は下手であったようです。このこととどこかで関係しているのではないかと思うことは、おたがいさまの運動は、主として中部地方より西で広くおこなわれているということです。おたがいさまは、新しい集落運動なのです。
〈いのち〉あるものは、〈いのち〉に引かれる。
「生きものが居場所に合わせて生きれば、居場所もまた生きものに合わせて変わる」という「相互誘導合致の法則」がそこで成り立つ。
昆虫と花の間にもそれは確かに成り立っていると見えるが、花の魅力の期間は短い。
「花のいのちはみじかくて、苦しいことのみ多かりき」と詩をよんだ人の心を思い、虫たちを魅了する「花の〈いのち〉」の妖しい魅力を、少しでも映すことができないだろうかと考えて、身近な花にレンズを向けてみた。
最近、モノクロ写真がもっている表現の幅の広さに心を引かれている。カラー写真では表現できないものとして、モノクロ写真には「沈黙の世界」がある。ピカートは「沈黙から出た言葉は大地に突き刺さった杭のように、人の足を止める」という趣旨のことを書いている。「それはラジオからひっきりなしに流されるアトム化された饒舌な騒音語とは本質的に異なる」とも。
人の足を止めるのは、そこに深い意識の世界から上がってくる意味が包まれているからである。同じシーンをモノクロ写真とカラー写真とで撮り比べてすぐ分かることは、モノクロ写真は沈黙の世界を表現できるが、カラー写真はそれが容易にできないということである。沈黙の世界から生まれた写真には余韻があり、カラー写真にはそれがほとんどない。意味の表現として見たときに、モノクロ写真は立体的であり、カラー写真は表層意識の世界を表現して平面的である。だから、モノクロ写真は心を止めるが、カラー写真は説明しすぎて、目で見えるもの以上に与えるものがほとんど何もない。
未熟な技術で恐縮であるが、雰囲気を理解していただくために、「波紋と場」をテーマに沈黙の世界をモノクロ写真で映そうとしたものをご紹介する。
春の光があふれて、林の木々がいっせいに若葉を芽吹き、花々が多様な色彩をつける4月の末には、世に生きて春に出会うことの幸せに心を充たされます。美しく生まれてくる色彩は、春の喜びですが、しかし、生まれ出た色彩だけを追いかけていると、この〈いのち〉の変化をもたらした本当の主役である春の光を中心に、生み出されてくる新しい生きものの存在という「〈いのち〉のシナリオ」を見落としがちです。多くの情報おおわれてしまうと、〈いのち〉のドラマを動かしている宇宙の活きが表から隠されてしまうのです。
そんなときに、美しく豊富な春の色彩をあえて抑えると、その奥に隠されている主役の活きを引き出すことができます。そうして撮った写真には、生まれ出てくる若葉にも、それぞれ、〈いのち〉をもっている「役者」としての存在を強く感じることはないでしょうか。それを感じるときに、私たちの存在も春のドラマを見ている〈我とそれ〉の世界から、そのドラマを演じている〈我と汝〉の世界へと移っているのです。
雑草の花の写真を撮ろうとレンズを向けていると、小さな昆虫が、花に何かうっとりととまっているように感じることがあります。マルチン・ブーバーの言葉を借りると、両者は互いに〈我と汝〉の共存在関係になって存在しているように思われるのです。花と昆虫の関係は、花にとっては生殖行為にもなるものですから、昆虫が花に入ってみると、何かうっとりするほどの魅力を感じる場が生まれてくるのかも知れません。
「我惟う、故に我あり」と自己を評価している人間が、自己の思いを高みから一方的に花に押しつけて、「美しい」と愛でている場合には、花からの働きかけによって「我」が変わることはなく、人間と花の間には、ブーバーの言葉による〈我とそれ〉の関係が生じていると思います。しかし、昆虫の場合には、何故それとは違っていると感じられるのだろうかと考えてみると、昆虫と花の間には互いの与贈によって〈いのち〉の循環が生まれ、その影響によって昆虫も花も態度が変わっていることが、その原因ではないかと思われます。
画家といま描いている絵の関係、詩人といまつくっている詩の関係も、それらが創造的に進んでいるときには、〈我とそれ〉ではなく、〈我と汝〉に近い広い意味の〈いのち〉の与贈循環が生まれているのではないでしょうか。
2016.5.10
希望は、生きものの内側に生まれる「生きていく形」だ。その形が、居場所と生きものの相互誘導合致によって生まれる〈いのち〉の活きであることは間違いない。それは、未来に応えるために、生きもののからだの内に与贈されている「隠された活き」──〈いのち〉の願──が形となって引き出されてくる「〈いのち〉の芽」ともいうべきものである。その形を引き出すものは、現在の居場所の厳しさであって、決して、その温かさではない。それは、いま温かければ、それで足りるからである。
今年の1月下旬の寒い日に近くを歩いて、私は幾つかの「〈いのち〉の芽」を発見した。
時間というものは、生成してすぐ消えていくものではないか。だとすれば、その生成する時間は暗在的で
あり、時計で計ることができるような明在的なものではない。そうだとすれば、時計で計っているのは一体
何ものだろうか。
走っている一台の自動車を見る。どれだけの間動いているか、その時間を時計で計ることはできる。その
間は自動車が時間軸の上を移動しているだけで、時間そのものを少しもつくり出しているわけではない。
本当は、過ぎていった時間を固定した空間を測っているから明在的になるのだ。
でも、その自動車を運転している者にとっては、未来は向こうの方から次々とやってきて、フロントガラ
スから自己を包んでは足早に過ぎ去っていく活きだ。運転している間、時間が生れ続けては、直ちに消えて
いるのだ。そして運転を止めれば、この時間の生成も止まる。刻々と生成しては未来から自己の方へやって
くる時間そのものを計ることはできない。何故なら、それは自己の〈いのち〉の活きであるために暗在的だ
から。感じることはできても、見ることはできないのだ。
植物たちは、その存在を未来へ続けようとする〈いのち〉の活きをもっている。だから、生まれる春を想
う力は未来の方からやってきて、植物たちを包んでいくのだ。その植物たちには、冬の間にも春を想う想像
力が活くのだ。そこで葉のない冬枯れのような細い木にも孤独な一輪の花を咲くこともある。「春よ来い」と、
植物の想像力が花をつけているのだ。植物たちにも〈いのち〉があるからこそ、暗在的な時間が未来の方から
春が迎えにくることを感じているのだ。