沈んだ落ち葉

〈いのち〉の鍵として紅葉の輝きを見せた木々の葉は、水に落ち、やがて沈んでその〈いのち〉を与贈して水を温め、〈いのち〉の鍵穴となって、小さな水たまりを様々な生きものが共存在する〈いのち〉の居場所に変えます。

水鳥たちも飛来して、その水に嬉々として戯れていきます。見えない活きがあるから、見えるものが一緒に生きていくことができるのです。金子みすゞの詩を思い出します。

 

青いお空のそこふかく、

海の小石のそのように、

夜がくるまでしずんでる、

昼のお星はめにみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。 

 

2015.12.27

 

 

静寂の道

友人から「自分にがんが見つかったが、もう手術できない状態であった」というメールを受けて、一晩考えて次のような趣旨の返事を書きました。

「マッチ売りの少女がマッチを一本また一本とすって、美しい幻想的な世界を見たように、人間は〈いのち〉という自己の「マッチ」を大きな〈いのち〉の居場所に毎日与贈して、その度ごとに現れる世界に生きて、そして最後には「マッチ」をすり尽くして終わります。ですから、一本のマッチによって生まれてくる世界をより美しいものにと願い、最後は大きな〈いのち〉の居場所の静寂に包まれること以外には、願うこと以外はできません。

いろいろな体験から、私はその静寂は「音が明在的に聞こえない」という状態ではなく、〈いのち〉の与贈循環によって与贈される大きな居場所の〈いのち〉の活きに自己の存在が包まれている状態ではないだろうかと思っています。それは、マッチ売りの少女が彼女を可愛がってくれたたった一人の人であるお祖母さんに抱かれている状態に相当するのではないでしょうか。マッチをすり尽くした少女が、あの大晦日の夜に温かく抱きとられていったお祖母さんの温かいふところに相当するその深い静寂に、君も、僕も、互いに思いを寄せることができればと願っています。」

12月の日々は、日ごとに新しいマッチを一本づつすっていくように、季節が急ぎ足で変化をしていきます。紅葉した木々は、急ぐようにして、すべての葉を落とします。そして、落ち葉が重なって地面を覆うと、それまでざわめいていた自然がしーんとした静寂の緊張に包まれます。そのような時に、一面の落ち葉の中に浮かび上がってくる道が見えることがあります。

 

2015.12.26

新民芸考(1)アルバム

 民芸とは、作り手が自己の〈いのち〉を居場所へ与贈することによって、居場所から〈いのち〉の与贈を受け、普遍的な存在美をともなった実用的な価値のある作品をつくることです。普段使いの実用性が大切であり、逆に高級品である必要はありません。後から示していくように、この新民芸考では作品と美を広く取っていきます。ここで〈いのち〉とは、生きものがもっている存在を続けようとする能動的な活きのことであり、また与贈とは、自己の名をつけて贈る贈与と異なって、贈り手が自己の名をつけずに居場所へ贈る活きです。居場所と分けることなく使い手に心を向けて、自己の〈いのち〉を与贈してつくった作品には、鑑賞を目的に名を出して作られる作品とは異なって、〈いのち〉の与贈循環によって、存在美が道具としての実用的な活きにともなって与贈されてくるのだと思います。


 ご承知のように、柳宗悦は民芸の美を阿弥陀仏の本願の第四願「無有好醜の願」に結びつけて、「他力の活き」によって生まれる美と理解しました。「新民芸考」なるものを提案してみようと、私が思ったのは、柳のこの重要な発見を心から支持しつつも、彼の領域の外側へ「民芸」の幅をもう少し広げてみることができるかも知れないと考えたからです。そんなことを、なぜ考えているかというと、民芸作品には、民芸美という形で、情報だけでは表現しきれない「物そのものとしての存在意義」が表現されていることに注目してみたいからです。そのために、道具としての実用性が普遍的な存在美をともなって〈いのち〉に親和するように与贈されていくという点に、注目しているのです。このことは、私の〈いのち〉(内在的世界)から生まれてくるITに対する違和感の裏返しでもあるのです。


 私はデジタルカメラを何台ももっていて、雑草中心に写真を撮っています。そしてそのデータを、ハードディスク・ドライブに蓄えて、時々、パソコンを通じて、かなり大きなモニターで眺め、また時間にかなり余裕があれば、映像を少し修正したりして楽しんでいます。人間が雑草に対してもっている価値観から自由になって、植物に雇われた写真師になったつもりで〈いのち〉に向き合うようにして撮った写真を、パソコンやフォトフレームで何枚も眺めていると、座禅をしているかのように心が静まってきます。ですから、私にとってこのハードディスク・ドライブは非常に貴重な存在です。


 しかし、それで満足ということだけでは終わらないものが、心に残ります。レベルの低い素人が考えることですから、プロの写真家には否定されるだろうと思いますが、このようなデータの蓄積とパソコン操作による鑑賞という世界に、果たして自分がどこまで深く満足できるだろうかと思うと、心にどうしてもまだ充たされないものがあることを感じるのです。その「充たされなさ」を言葉で表現してみると、“そこからは民芸作品が生まれてこない”と言うことになるのです。情報が「情報の世界」にどどまっている限り、原理上、時の経過によって変わったり、失われたりすることはありません。情報は造花のように、いつまでも生まれたてと変わらず、古さを表現することはできないのです。言い換えると、情報は死を失った実在性のない存在の影、すなわち死を失って外在的世界にとどまっている存在の影です。〈いのち〉のないものの世界から、民芸作品が生まれるはずはありません。


 そこで注目したいのは、情報が情報の世界から外へ出て物に結びつくことで、〈いのち〉が生まれて、死ぬことができるようになる可能性があるということです。たとえばアルバムという物は、そこに綴じられた家族写真に、家庭という生きものの年輪を表現する力を与えます。そこには家庭という内在的世界で〈いのち〉が経験してきた時間と空間が暗在的に表現されていくのです。この暗在的な表現は、写真のデータをパソコンの上に次々と写していく方法では、決して生まれないものです。それはなぜでしょうか?ハードディスク・ドライブからデータを引き出して、幻灯会のように次々と映していく方法は「多から一へ」というイベントのルールでおこなわれていくために、「全部」はあっても「全体」がないのです。それに対してアルバムから出発していく方法は、「一から多へ」というドラマのルールでおこなわれます。アルバムという物としての拘束力が最初に「全体」の「一」を与えるのです。そして個々の写真は、この全体の中に位置づけられていくのです。この「一から多へ」というルールにそっておきる歴史的発展に、家庭のドラマが表現されていきます。


 また家族がつくる家庭のアルバムでは、作り手が自己の名を残そうとしてアルバムをつくることはありません。今に至る来し方の様々なできごとを振り返り、未来のことを思い浮かべながら居場所へ心を向けて、写真をアルバムに位置づけて並べていくのです。時には、他の家族と相談しながら写真の配列を決めることもあるでしょう。またそのアルバムづくりは、家族の家庭への〈いのち〉の与贈になります。したがって、それは広い意味での民芸と言えるのではないかと思うのですが、如何でしょうか。


 ここに心に少し気になることがあります。それは、デジタルカメラが完全な情報マシーンを目指すことから、写しすぎ、着色しすぎるという外在的世界における情報の特徴をもちすぎているということです。このことは「多から一へ」というルールで多数の画素から映像をつくることと関係しています。ところが、人間の視覚は「一から多へ」のル−ルで動いています。思い出の風景や人物の顔は殊にそうではないでしょうか。この「一から多へ」の視覚のあり方に、意味とか、美とか、内在的な世界における表現がついてくるのです。


 東日本大震災の大津波で、家族を失い、家庭を失った人びとが、避難所でまず求めた物がアルバムであったと言われています。デジタル化は結構なことに思えますが、暗在的な表現の形で伝えられてきた居場所の〈いのち〉の「一から多へ」の活きを切り捨てて、機械的な「多から一へ」の働きに変えていくという重い問題を含んでいます。しかし、それでもなお私たちの手には、〈いのち〉の与贈から始めて行くという道が残っていることを、未来のために心から幸せに思っています。

2015.8.26


知識から知恵へ

 情報がありすぎるのは情報がないことに等しい。そのことを実感させるのは大きな書店で本の洪水を目の前にしたときである。もう知識を集める時代ではない。「真理とは何か」を求めた哲学は旧き良き時代を思い出させるだけである。それは哲学的な真理を知識としてもっていても、それはざわざわとした心を一時は鎮めるほどの気休めにはなるだけで、地球を覆い尽くすほどに巨大化した人間の生臭い欲望が一風吹けば、どこかへ飛んでいってしまう。

 

今、地球における人類を含めた生きものの存続のために必要なことは、この人間の欲望を抑える知恵だ。この地球に生き残るために必要なものは知識ではなく、生きものの生存に役立つ「現場における実践の知恵」なのである。それには人から人へと伝えられている職人の知恵のように、情報化できないものが含まれている。

  

日本の出版社にとって、この時代は特に厳しく、事業の先細りの感を否めない。それは自らを知識を社会に送り出す業務に限定して、その先で求められること──人びとが生きていくために求めている知恵を発見したり、創ったりすることを業務から外してきたからである。しかし出版社がこの時代に生き延びるためには、現実に即してその知恵を送り出していく以外には、方法がないのではないだろうか?

  

同じことが大学についても言えるわけであるが、幸いなことに、知識を与えることをもって教育とするという国の方針によって、知恵をつくり出すことの困難にあまり悩むことなく有り難い月給をいただけることが保証されている。そこで、卒業していく学生のことを別にすれば、出版社ほどの悩みを感じることはないかも知れない。だが、その幸せは政治的な制度に支えられた仮想的なものであり、資本主義経済の崩壊の風と共に消え去って行く可能性がある。

  

企業や大学のあり方として問題になっているのは、事業の公益性である。売り手と買い手の間だけで関係が終わるのであれば、このようなことを問題とする必要はない。しかし、売り手と買い手の間の関係を、競争原理によってどこまでも押し広げていこうとすると、この両者とは全く関係のない生きものや環境が大きな打撃を受けてしまう。そのために人間を含めた生きものの持続可能性が、現に、危機にさらされているのである。

  

真っ先に犠牲になるのがいわゆる「弱者」である。この「弱者」には、企業において弱い立場にあるために、生きていくことができないほどの過酷なノルマを押しつけられて喘いでいる人びとも含めなければならない。しかし「弱者」が消えれば、「強者」もまたこの地球の上で生きていくことはできず、すべてが消えてしまうということが「生存の公理」である。そこで「弱者」を犠牲にしないばかりでなく、すでに大きな被害を与えられて苦しんでいる「弱者」を救う活きを含めることが事業の公益性である。

  

出版社の問題に戻ると、「売らんかな」と、公益的な意味も価値をほとんどもっていない本を次々と社会に送り出してきたために、大量の本が社会に溢れて大切な本を覆い隠してしまっている。社会をこの情報洪水の被害から守るために、出版事業にも久しく公益性が求められている。それが出版事業を知恵と結びつけていくことなのである。情報の洪水は、何も出版社だけの問題ではない。それはマスコミを含めて資本主義社会の構造的欠陥でもある。情報の渦をつくりつつその渦中に存在していることもあり、最近の大学には事業の公益性が厳しく問われなければならないと、多くの人びとが思っていることであろう。

2015.5.24

名詞ですか、それとも動詞ですか?

 春の地球には、喜びが一気に吹き出してきます。冬の寒さに抑えつけられてきた〈いのち〉が感情となって突出する spring です。木や草たちは、この地球に存在していることが嬉しいと、喜びの姿を見せてくれ、また小鳥たちは喜びの歌を歌ってくれます。それは生きものとして、地球に存在していることの喜びです。でも、よいことが何時もそうであるように、春の喜びは足早に去っていきます。“花びらは散る。花は散らない”と言った人がいますが・・・・・・

 

桜は名詞だろうか、それとも動詞なんだろうか。また、いま柔らかな新芽をいっぱいつけているこの楓は名詞だろうか、それとも動詞なんだろうか。心のはずみをおさえかねて、“ひさかたの光のどけき春の日に・・・・・・”などと歌ってきた歌人たちも、ここに一緒に含めて考えてみましょうか、名詞なのか、それとも動詞なのかと。

 

春の日を浴びて、こんな思いに迷い込んで、“そもそも春というものは本当に名詞だろうか、それとも本当は動詞ではないだろうか”と考えこんだことがありますか?スマホやパソコンのように、IT技術では、これらはみな、名詞として取り扱われます。辞書でもそうです。なぜ名詞なのでしょうか?本当に、そう決めつけてしまってもよいのでしょうか。そう決めてしまうと、とても大切なものを、こころの片隅におき忘れて、生きてしまうことにはならないでしょうか?


“あなたは名詞ですか、それとも動詞ですか?”と聞かれたら、どう答えればよいでしょうか。“私のことはわかりません。でも、私の名前は名詞です”。これは間違いありません。しかしその名前で呼ばれるあなた自身の存在も──「私」という主体性をもって、時には喜びの声をあげ、時には悲しみの涙を流しながら、二つとない〈いのち〉によって一度だけの人生を生きていくことも──、“名詞である”と決めてしまうのは言葉の暴力ではないか、そんな気がしませんか。「〈いのち〉があることが生きものと、その居場所のもっとも大切な特徴である。そしてその〈いのち〉は動詞である」ことを思うと、私たちが勝手に「あれは名詞である」と、決めつけているだけかも知れません。 

 

「〈いのち〉を映す」という写真は、ですから、生きものの写真に〈いのち〉という動詞の活きを映して撮るということなんですから。それじゃ、一体、どう考えればよいのでしょうか?取りあえずは、“名詞という着物をきた動詞である”と、考えておくことにしましょうか。でも、なぜこんなことが問題になるのでしょうか。それは、「居場所に〈いのち〉を与贈すると、奇跡が起きる」という趣旨のレポートが、新潟の清水義晴さんから送られて来たからです。

 

「奇跡の復活」

私が通っている介護施設に将棋仲間のおじいちゃんが居ることは前に書きましたが、この二ヶ月くらい、認知症が進んで、将棋になりませんでした。ところが、今日、どうしたことか、見事な手を打たれて、私が二敗したのです。それを職員に告げたところ、みんなおじいちゃんの復活を喜んで、管理者が特別に、いつもは出ないようなドーナツをおやつに、みんなに出してくれたのです。

 二ヶ月くらいの間、私は勝っても、「ハイ終わり!」とか、「ツンダヨ!」とか冷たい言葉は使わず、「ご指導いただきありがとうございました。」と頭を下げ、丁寧に接し、おじいちゃんのリズムで将棋につき合い続けてきたのでした。それが功を奏したのかどうか分かりませんが、清水博先生が言われる、〈いのち〉の居場所における〈いのち〉の与贈循環が起きたのだろうと振り返ってみて思われるのです。(清水義晴)

 

人間として存在することは、やはり、〈いのち〉のドラマを一緒に演じながら生きていくことです。〈いのち〉のドラマを演じながら生きていくこと、それが人間の存在なのです。どのようなドラマを演じるかは、あなたがそのドラマの舞台で、あなたの人生をどのように演じたいかによって決まるのです。一部の政治家やお役所の人たちのように、「認知症の人」という名詞の着物を人間に着せて、“はい、それで終わり”にしてしまうと、ドラマが消えて未来がなくなってしまいます。生きているものを上から見れば名詞、同じ舞台へ降りて見るならば動詞です。“弱さを誇りましょう”というパウロの言葉は、いつも同じ舞台で人びとを見て人生を演じている人の言葉です。また、この奇蹟を知らせて下さった義晴さんも、弱さを大切にして〈いのち〉のドラマを演じている人ですね。

2015.4.13

共存在への祈りとしての与贈

 〈いのち〉とは、人間を含めてすべての生きものがもっているもの。それは「存在を持続しようとする能動的な活き」です。その〈いのち〉の能動性はエンジンやモーターのように能動的に動くこととは違います。またロボットのように能動的に作業をすることでもありません。これらは行動的なレベルでの活きです。〈いのち〉は生きものの根底にある存在し続けようとする能動的な活きです。それは、死線を越えて存在し続けようとする創造的な活きです。エンジンや、モーターや、ロボットには、この創造性がないのです。生きものの身体をつくっている数多くの細胞が生きていても、生きものとして死んでいるということは、生きものという個体がこの創造性を失っているということなのです。

 

きょう3月27日、場の研究所へ向かう電車の中で、豊嶋仁美さんとこのような話をしていた時に、豊嶋さんが言いました「それなら人工呼吸器やチューブをつけて生きている状態は、もう個体としては死んでいるということですね」と。「確かに、それは、個体としての〈いのち〉がもう失われているということになりますね」と私は答えました、これまで人間の死にこんなに迷いのない定義はなかったと思いながら。これは私自身にとっても有り難いことであり、また豊嶋さんにも、このようなことが思い浮かぶ経験があったかも知れないなという気がしました。

 

「贈与」は贈り手が自分の名前をつけて贈ること、「与贈」は贈り手が自分の〈いのち〉を名前をつけずに居場所に贈ること。土井喜晴さんから日本料理の理想はつくり手の与贈であると聞き、それはまた民芸の美に通じると話したところ、すでに土井さんは「日本料理は民芸である」ことに気づいて、こんど日本民芸館でその話をされるとのメールをいただきました。今週、平丸陽子さんにこの話をしたら、実際、日本民芸館から土井さんの話があるという通知が民芸館の友の会の会員である自分にあったとのこと。与贈に関係している人びとが集れば興味深い出会いの場が生まれるのではと平丸さんに言われ、なるほど大変面白いと納得しました。

 

きのうは小山龍介さんと片岡峰子さんが場の研究所に取材に来られました。そこで、何種類かの植物が元気よく生えている植木鉢の写真を見せながら、地球にとって非常に重要な多様な生きものの共存在をつくり出す原理として〈いのち〉の与贈と与贈循環の話をしました。(その一部はすでに動画になっています。)小山さんとは場の研究所の活動でも与贈についていろいろ話し合ってきた仲なので、土井さんや平丸さんの事などを話ながら、「与贈の研究会」のようなものを立ち上げたいねと合意しあったところ。小山さんや片岡さんに見ていただいた植木鉢の写真を「共存在の原理」という題名で説明するブログの原稿をかいたところ、豊嶋さんがとても素晴らしいプレゼンテーションの形にして場の研究所の新しいホームページに出されました。

是非ご覧を! ブログ「共存在原理の証明」

  

きょうは、親鸞仏教センターの研究員の名和達宣さん、藤原智さん、中村玲太さんが場の研究所へ来られました。そこで、きのうの「共存在の原理」のブログの原稿をコピーして一緒に見ながらの〈いのち〉の与贈と共存在の原理のお話を。これは4月14日に学士会館で開かれる予定の「親鸞仏教センターのつどい」の打ち合わせを兼ねた話し合いです。そこで話題として、先ず共存在は共生とは異なる、なぜなら写真にあるように、死を共通の媒介者にしなければ多様な生きものの共存在はおきないから、だから生きものの死に居場所の〈いのち〉としての意味を与えなければならないから──死が居場所のものとしてすべての生きものに共有されることが共存在。死は居場所への〈いのち〉の与贈なんです。

 

 

我が家の駐車場の溝、そこへ落ち葉が与贈される、これが居場所が生まれる必要条件。

そこへ落ちてきた雑草の種が落ち葉を共有しながら芽吹いていきます。

 

 自然でも、そのようにして多様な生きものの共存在が与贈される〈いのち〉を共有することから始まっていくのではないだろ

 うか。

 

 死と生を含めて一般的に言えば、生きものが居場所に与贈したそれぞれの〈いのち〉が居場所の場の〈いのち〉に自己組織され、共有されて〈いのち〉の与贈循環によって生きものを包むために、多様な生きものが共存在できる。だから居場所としての地球の場の〈いのち〉の活きがキリスト教の愛、仏教の大悲に相当し、またパウロの手紙に書かれているように、その場の〈いのち〉が霊として内側からそれぞれの生きものに活くことが、〈いのち〉の自己組織の特徴ですと、話しました。また土井さんの日本料理と民芸の話から、柳宗悦と第四願「無有好醜の願」の話になり、名和さんたちからも、是非、「与贈の研究会」には出たいという話がありました。

 


「与贈の研究会」を考えるために、どのような分野があるのだろうかと、いろいろ考えていたのですが、慢性的な病気には「与贈からはじまる医療」が有効であり、その例として、ベテルの家、南愛知の医療生協における認知症の「なも医療」があるよねと話しあって帰宅したところ、ベテルの家に大きな寄与をされた清水義晴さんから電話があり、以下のようなメールをお送り下さったとのことでした。以前から、「祈りとは〈いのち〉の与贈である」と考えていましたが、義晴さんからも祈りと内側から活く力に付いてのメールをいただき、今週このように、与贈に関するできごとが重なったことを、不思議な気持ちで受け止めています。

                                                                                          2015.3.30 


 

          「祈る」

             私は、脳卒中で倒れて半身マヒになってから、祈ることが、支えであり、友であり、救いでした。

             始めは、「神様、どうか、これからどう生きて行ったらいいか?道をお示しください。」という

             祈りでしたが、だんだん、「こんな不自由な身になっても、たくさんの人たちに支えられて生かさ

            れているありがたさ」という感謝の祈りになり、最近では、祈ること、それ自体が喜びになってい

             るのです。宗教臭い話しになりましたが、私は特別な信仰を持っているわけでもなく、「祈り」と

             いうのは、内発的な生命エネルギーを引き出す行為であるような気がしているのです。(清水義晴)


共存在原理の証明

 競争原理は説明できるだろうか・・・・

なぜ、こんなに多様な生きものがこの地球に存在しているかを。

 

多様な生きもの、その種類も分からないほど非常に多様な生きもの、それが共存在していることが、地球の重要な特徴ではないだろうか。

 

生きものの存在を競争原理に結びつけて考えてきたことは、人間がその地球に対して犯してきた大罪ではないだろうか。自己の「強さ」に思い上がって「弱者」の存在を無視した人間の。


多様な生きものの共存在とは、一体どういうことなのだろうか。

 

それは、多様な生きものが与贈した〈いのち〉がつながって、居場所の〈いのち〉が自己組織され、そしてその〈いのち〉を、多様な生きものが共有して生きていくということ。

  

だから共存在の原理は、多様な生きものが居場所に与贈した〈いのち〉が、居場所の〈いのち〉という、生きものを包んで護る愛の活きに変わること。

 

愛が活く居場所では、生きものの死も誕生も共に居場所への与贈となる。だから、生きものがそれぞればら

ばらに生きているより、愛が生まれる居場所では、遙かに〈いのち〉豊かに生きていける。

 

だから生きものは一緒に〈いのち〉の居場所をつくろうとする。

その愛を求める与贈の力から生きものの共存在が生まれてくる。

弱い生きものが一生懸命与贈する力、それが地球の愛の力のほとんどだ。

 

玄関のドアの前に捨てて置かれた植木鉢に、

あちこちから様々な種が飛んできて、

いつの間にかそこに居場所が生まれていたらしい。


ある日そこへ飛んできた一個の楓の種がやがて芽を吹

き、居場所の〈いのち〉に護られて、糸のように細い

に、葉を何枚もつけ、やがて見事な紅葉を見せてくれた。

 

冬になって葉が落ちると、小さなその木はあまりに細くて、ほとんど見つからなくなってしまったが、でも、枯れて消えてしまったのではなかった。

それは居場所の〈いのち〉に護られて生きていた!

 

その証拠に、春の彼岸が近づくと、爪楊枝のように細いその幹の先に小さな芽のつぼみをつけた。

それがこの数日の暖かさで近くの大きな楓の木より 

も、もっと早々と芽吹いたのだ。


居場所の〈いのち〉を直接見ることはできないが、

この植木鉢には居場所の〈いのち〉が生まれていると、この植木鉢の〈いのち〉がここに存在していると、そして共存在の原理を証明していると、言えるのではないだろうか。

 

多様な生きものの〈いのち〉を包む愛があることが、

居場所の〈いのち〉を証明しているのではないだろうか。                              

2015.3.26


弱者を切り捨ててはいけない!

 弱いから必要ないのではなくて、弱い、強いとかに関係なく、共に存在していることに大きな意味があり、また価値があるのです。


つながっているということは、互いに与え合う関係のなかに自分の存在も位置づけられているということなのです。与え合うことによって居場所の〈いのち〉が自己組織されます。


そしてその〈いのち〉に包まれていれば温かいのです。

2015.2.24

生きていくということ

黄昏の夕日をあびながら

沈んでいこうとする陽に向かって

母が押す乳母車に揺られて行く

遠い道。

 

幼い頃の記憶として

何故かそんな情景が

心切ない気持ちと共に

残っている。

 

ふと気がつくと、その切なさは

〈いのち〉に押されながら

休むことなく死に向かって進んでいく

一生の予感から生まれてくるのかもしれない。

 

                                                                       黄昏の夕日をあびながら

                                    冷たい二月の風に向かって

                                                                       しきりに顔を洗う一匹の猫。

 

                                                                       短いその一生を生きようとする

                                                                       野生の真剣さのようなものが

                                                                       何故か心にまっすぐ訴えてきた。

2015.2.16

弱さという秘密

私たち生きものは誰に見せようとも思わず、
自然の中にいつも自然として、
そのまま一緒に地球に存在してきて、
満ちすぎることも、また欠け過ぎることもない。

同じ生きものでも人間は、
どれほど頑張っても、また何を考えてみても、
いつも自然からはみ出してしまい、
どうしても一緒に地球に存在できない。


何故なんだろうかと、地球にこっそり聞いてみた。
すると、低気圧が北の海でとても発達した寒い日の午後に、「互いの弱さを大切にするものは自然の仲間になることができる。


でも人間は、弱さを隠して軽蔑し、強い顔して互いに争う。だから誰とも仲が悪くてね、自然の中にはいられなくなるのさ」と、とても大きな冬風のため息とともに、
地球は答えてくれた。

                                         2015.2.10