友人から「自分にがんが見つかったが、もう手術できない状態であった」というメールを受けて、一晩考えて次のような趣旨の返事を書きました。
「マッチ売りの少女がマッチを一本また一本とすって、美しい幻想的な世界を見たように、人間は〈いのち〉という自己の「マッチ」を大きな〈いのち〉の居場所に毎日与贈して、その度ごとに現れる世界に生きて、そして最後には「マッチ」をすり尽くして終わります。ですから、一本のマッチによって生まれてくる世界をより美しいものにと願い、最後は大きな〈いのち〉の居場所の静寂に包まれること以外には、願うこと以外はできません。
いろいろな体験から、私はその静寂は「音が明在的に聞こえない」という状態ではなく、〈いのち〉の与贈循環によって与贈される大きな居場所の〈いのち〉の活きに自己の存在が包まれている状態ではないだろうかと思っています。それは、マッチ売りの少女が彼女を可愛がってくれたたった一人の人であるお祖母さんに抱かれている状態に相当するのではないでしょうか。マッチをすり尽くした少女が、あの大晦日の夜に温かく抱きとられていったお祖母さんの温かいふところに相当するその深い静寂に、君も、僕も、互いに思いを寄せることができればと願っています。」
12月の日々は、日ごとに新しいマッチを一本づつすっていくように、季節が急ぎ足で変化をしていきます。紅葉した木々は、急ぐようにして、すべての葉を落とします。そして、落ち葉が重なって地面を覆うと、それまでざわめいていた自然がしーんとした静寂の緊張に包まれます。そのような時に、一面の落ち葉の中に浮かび上がってくる道が見えることがあります。
2015.12.26
民芸とは、作り手が自己の〈いのち〉を居場所へ与贈することによって、居場所から〈いのち〉の与贈を受け、普遍的な存在美をともなった実用的な価値のある作品をつくることです。普段使いの実用性が大切であり、逆に高級品である必要はありません。後から示していくように、この新民芸考では作品と美を広く取っていきます。ここで〈いのち〉とは、生きものがもっている存在を続けようとする能動的な活きのことであり、また与贈とは、自己の名をつけて贈る贈与と異なって、贈り手が自己の名をつけずに居場所へ贈る活きです。居場所と分けることなく使い手に心を向けて、自己の〈いのち〉を与贈してつくった作品には、鑑賞を目的に名を出して作られる作品とは異なって、〈いのち〉の与贈循環によって、存在美が道具としての実用的な活きにともなって与贈されてくるのだと思います。
ご承知のように、柳宗悦は民芸の美を阿弥陀仏の本願の第四願「無有好醜の願」に結びつけて、「他力の活き」によって生まれる美と理解しました。「新民芸考」なるものを提案してみようと、私が思ったのは、柳のこの重要な発見を心から支持しつつも、彼の領域の外側へ「民芸」の幅をもう少し広げてみることができるかも知れないと考えたからです。そんなことを、なぜ考えているかというと、民芸作品には、民芸美という形で、情報だけでは表現しきれない「物そのものとしての存在意義」が表現されていることに注目してみたいからです。そのために、道具としての実用性が普遍的な存在美をともなって〈いのち〉に親和するように与贈されていくという点に、注目しているのです。このことは、私の〈いのち〉(内在的世界)から生まれてくるITに対する違和感の裏返しでもあるのです。
私はデジタルカメラを何台ももっていて、雑草中心に写真を撮っています。そしてそのデータを、ハードディスク・ドライブに蓄えて、時々、パソコンを通じて、かなり大きなモニターで眺め、また時間にかなり余裕があれば、映像を少し修正したりして楽しんでいます。人間が雑草に対してもっている価値観から自由になって、植物に雇われた写真師になったつもりで〈いのち〉に向き合うようにして撮った写真を、パソコンやフォトフレームで何枚も眺めていると、座禅をしているかのように心が静まってきます。ですから、私にとってこのハードディスク・ドライブは非常に貴重な存在です。
しかし、それで満足ということだけでは終わらないものが、心に残ります。レベルの低い素人が考えることですから、プロの写真家には否定されるだろうと思いますが、このようなデータの蓄積とパソコン操作による鑑賞という世界に、果たして自分がどこまで深く満足できるだろうかと思うと、心にどうしてもまだ充たされないものがあることを感じるのです。その「充たされなさ」を言葉で表現してみると、“そこからは民芸作品が生まれてこない”と言うことになるのです。情報が「情報の世界」にどどまっている限り、原理上、時の経過によって変わったり、失われたりすることはありません。情報は造花のように、いつまでも生まれたてと変わらず、古さを表現することはできないのです。言い換えると、情報は死を失った実在性のない存在の影、すなわち死を失って外在的世界にとどまっている存在の影です。〈いのち〉のないものの世界から、民芸作品が生まれるはずはありません。
そこで注目したいのは、情報が情報の世界から外へ出て物に結びつくことで、〈いのち〉が生まれて、死ぬことができるようになる可能性があるということです。たとえばアルバムという物は、そこに綴じられた家族写真に、家庭という生きものの年輪を表現する力を与えます。そこには家庭という内在的世界で〈いのち〉が経験してきた時間と空間が暗在的に表現されていくのです。この暗在的な表現は、写真のデータをパソコンの上に次々と写していく方法では、決して生まれないものです。それはなぜでしょうか?ハードディスク・ドライブからデータを引き出して、幻灯会のように次々と映していく方法は「多から一へ」というイベントのルールでおこなわれていくために、「全部」はあっても「全体」がないのです。それに対してアルバムから出発していく方法は、「一から多へ」というドラマのルールでおこなわれます。アルバムという物としての拘束力が最初に「全体」の「一」を与えるのです。そして個々の写真は、この全体の中に位置づけられていくのです。この「一から多へ」というルールにそっておきる歴史的発展に、家庭のドラマが表現されていきます。
また家族がつくる家庭のアルバムでは、作り手が自己の名を残そうとしてアルバムをつくることはありません。今に至る来し方の様々なできごとを振り返り、未来のことを思い浮かべながら居場所へ心を向けて、写真をアルバムに位置づけて並べていくのです。時には、他の家族と相談しながら写真の配列を決めることもあるでしょう。またそのアルバムづくりは、家族の家庭への〈いのち〉の与贈になります。したがって、それは広い意味での民芸と言えるのではないかと思うのですが、如何でしょうか。
ここに心に少し気になることがあります。それは、デジタルカメラが完全な情報マシーンを目指すことから、写しすぎ、着色しすぎるという外在的世界における情報の特徴をもちすぎているということです。このことは「多から一へ」というルールで多数の画素から映像をつくることと関係しています。ところが、人間の視覚は「一から多へ」のル−ルで動いています。思い出の風景や人物の顔は殊にそうではないでしょうか。この「一から多へ」の視覚のあり方に、意味とか、美とか、内在的な世界における表現がついてくるのです。
東日本大震災の大津波で、家族を失い、家庭を失った人びとが、避難所でまず求めた物がアルバムであったと言われています。デジタル化は結構なことに思えますが、暗在的な表現の形で伝えられてきた居場所の〈いのち〉の「一から多へ」の活きを切り捨てて、機械的な「多から一へ」の働きに変えていくという重い問題を含んでいます。しかし、それでもなお私たちの手には、〈いのち〉の与贈から始めて行くという道が残っていることを、未来のために心から幸せに思っています。
2015.8.26
春の地球には、喜びが一気に吹き出してきます。冬の寒さに抑えつけられてきた〈いのち〉が感情となって突出する spring です。木や草たちは、この地球に存在していることが嬉しいと、喜びの姿を見せてくれ、また小鳥たちは喜びの歌を歌ってくれます。それは生きものとして、地球に存在していることの喜びです。でも、よいことが何時もそうであるように、春の喜びは足早に去っていきます。“花びらは散る。花は散らない”と言った人がいますが・・・・・・
桜は名詞だろうか、それとも動詞なんだろうか。また、いま柔らかな新芽をいっぱいつけているこの楓は名詞だろうか、それとも動詞なんだろうか。心のはずみをおさえかねて、“ひさかたの光のどけき春の日に・・・・・・”などと歌ってきた歌人たちも、ここに一緒に含めて考えてみましょうか、名詞なのか、それとも動詞なのかと。
春の日を浴びて、こんな思いに迷い込んで、“そもそも春というものは本当に名詞だろうか、それとも本当は動詞ではないだろうか”と考えこんだことがありますか?スマホやパソコンのように、IT技術では、これらはみな、名詞として取り扱われます。辞書でもそうです。なぜ名詞なのでしょうか?本当に、そう決めつけてしまってもよいのでしょうか。そう決めてしまうと、とても大切なものを、こころの片隅におき忘れて、生きてしまうことにはならないでしょうか?
〈いのち〉とは、人間を含めてすべての生きものがもっているもの。それは「存在を持続しようとする能動的な活き」です。その〈いのち〉の能動性はエンジンやモーターのように能動的に動くこととは違います。またロボットのように能動的に作業をすることでもありません。これらは行動的なレベルでの活きです。〈いのち〉は生きものの根底にある存在し続けようとする能動的な活きです。それは、死線を越えて存在し続けようとする創造的な活きです。エンジンや、モーターや、ロボットには、この創造性がないのです。生きものの身体をつくっている数多くの細胞が生きていても、生きものとして死んでいるということは、生きものという個体がこの創造性を失っているということなのです。
きょう3月27日、場の研究所へ向かう電車の中で、豊嶋仁美さんとこのような話をしていた時に、豊嶋さんが言いました「それなら人工呼吸器やチューブをつけて生きている状態は、もう個体としては死んでいるということですね」と。「確かに、それは、個体としての〈いのち〉がもう失われているということになりますね」と私は答えました、これまで人間の死にこんなに迷いのない定義はなかったと思いながら。これは私自身にとっても有り難いことであり、また豊嶋さんにも、このようなことが思い浮かぶ経験があったかも知れないなという気がしました。
「贈与」は贈り手が自分の名前をつけて贈ること、「与贈」は贈り手が自分の〈いのち〉を名前をつけずに居場所に贈ること。土井喜晴さんから日本料理の理想はつくり手の与贈であると聞き、それはまた民芸の美に通じると話したところ、すでに土井さんは「日本料理は民芸である」ことに気づいて、こんど日本民芸館でその話をされるとのメールをいただきました。今週、平丸陽子さんにこの話をしたら、実際、日本民芸館から土井さんの話があるという通知が民芸館の友の会の会員である自分にあったとのこと。与贈に関係している人びとが集れば興味深い出会いの場が生まれるのではと平丸さんに言われ、なるほど大変面白いと納得しました。
きのうは小山龍介さんと片岡峰子さんが場の研究所に取材に来られました。そこで、何種類かの植物が元気よく生えている植木鉢の写真を見せながら、地球にとって非常に重要な多様な生きものの共存在をつくり出す原理として〈いのち〉の与贈と与贈循環の話をしました。(その一部はすでに動画になっています。)小山さんとは場の研究所の活動でも与贈についていろいろ話し合ってきた仲なので、土井さんや平丸さんの事などを話ながら、「与贈の研究会」のようなものを立ち上げたいねと合意しあったところ。小山さんや片岡さんに見ていただいた植木鉢の写真を「共存在の原理」という題名で説明するブログの原稿をかいたところ、豊嶋さんがとても素晴らしいプレゼンテーションの形にして場の研究所の新しいホームページに出されました。
是非ご覧を! ブログ「共存在原理の証明」
きょうは、親鸞仏教センターの研究員の名和達宣さん、藤原智さん、中村玲太さんが場の研究所へ来られました。そこで、きのうの「共存在の原理」のブログの原稿をコピーして一緒に見ながらの〈いのち〉の与贈と共存在の原理のお話を。これは4月14日に学士会館で開かれる予定の「親鸞仏教センターのつどい」の打ち合わせを兼ねた話し合いです。そこで話題として、先ず共存在は共生とは異なる、なぜなら写真にあるように、死を共通の媒介者にしなければ多様な生きものの共存在はおきないから、だから生きものの死に居場所の〈いのち〉としての意味を与えなければならないから──死が居場所のものとしてすべての生きものに共有されることが共存在。死は居場所への〈いのち〉の与贈なんです。
我が家の駐車場の溝、そこへ落ち葉が与贈される、これが居場所が生まれる必要条件。
そこへ落ちてきた雑草の種が落ち葉を共有しながら芽吹いていきます。
競争原理は説明できるだろうか・・・・
なぜ、こんなに多様な生きものがこの地球に存在しているかを。
多様な生きもの、その種類も分からないほど非常に多様な生きもの、それが共存在していることが、地球の重要な特徴ではないだろうか。
生きものの存在を競争原理に結びつけて考えてきたことは、人間がその地球に対して犯してきた大罪ではないだろうか。自己の「強さ」に思い上がって「弱者」の存在を無視した人間の。
弱いから必要ないのではなくて、弱い、強いとかに関係なく、共に存在していることに大きな意味があり、また価値があるのです。
つながっているということは、互いに与え合う関係のなかに自分の存在も位置づけられているということなのです。与え合うことによって居場所の〈いのち〉が自己組織されます。
そしてその〈いのち〉に包まれていれば温かいのです。
2015.2.24
黄昏の夕日をあびながら
沈んでいこうとする陽に向かって
母が押す乳母車に揺られて行く
遠い道。
幼い頃の記憶として
何故かそんな情景が
心切ない気持ちと共に
残っている。
ふと気がつくと、その切なさは
〈いのち〉に押されながら
休むことなく死に向かって進んでいく
一生の予感から生まれてくるのかもしれない。
黄昏の夕日をあびながら
冷たい二月の風に向かって
しきりに顔を洗う一匹の猫。
短いその一生を生きようとする
野生の真剣さのようなものが
何故か心にまっすぐ訴えてきた。
2015.2.16
私たち生きものは誰に見せようとも思わず、
自然の中にいつも自然として、
そのまま一緒に地球に存在してきて、
満ちすぎることも、また欠け過ぎることもない。
同じ生きものでも人間は、
どれほど頑張っても、また何を考えてみても、
いつも自然からはみ出してしまい、
どうしても一緒に地球に存在できない。
何故なんだろうかと、地球にこっそり聞いてみた。
すると、低気圧が北の海でとても発達した寒い日の午後に、「互いの弱さを大切にするものは自然の仲間になることができる。
「分けることによって分かる」と考えて、つながっているものを分けていったのが西洋の近代です。しかし、つながっているものを分けることから、罪が生まれるのではないでしょうか。人間の原罪とは分けるという人間の習性から生まれてくるのではないでしょうか。イスラム国は、分けるという原罪が欧米とアラブの間でこだまし合いながら成長して現れたのではないでしょうか。
自然の中でみられるのは、個を越え、種を越えてつながることによって生まれる共存在です。その共存在を支えているのが、死と生がつながることによっておきる〈いのち〉の持続です。そのようにつながることか
ら、静かな時の流れが生まれてくることをあなたは感
じませんか。〈いのち〉の場とは、この〈いのち〉が
あなたの中に生み出す活きです。
人工の居場所と自然の居場所とを比較して、何が自然らしさを与えるかと考えてみると、人工の居場所では多様な生きものが人工的な「垣根」によって分けられて存在しているのに、自然では入り交じって共存在していることがわかります。
多様な生きものが入り交じって共存在するときには、それぞれが〈いのち〉という原点に回帰して生きていく形を共創していると、私は考えています。
それはどういうことかと言うと、一つの種の生きものが死ぬときに、その生きものがもっていた〈いのち〉を、他の種の生きものが受け継いで、地球とい
う〈いのち〉の居場所に〈いのち〉を持続していくと
いうことです。このように種を越えて〈いのち〉を循
環的にリレーしていく形ができなければ、〈いのち〉
の居場所から〈いのち〉が消えてしまいます。
2015.1.29